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ドンと恋!〜 私たちのStarting Block 〜インターハイで日本新記録を出したら表彰台で公開告白されました。  作者: 空知美英
2章:静寂と揺らぎ

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第11話「帰寮、そして静寂」

 夕方、白波のバスが校門をくぐった。

 薄桃の雲がほどけ、校舎のガラスに金色の筋が走る。


「たっだいまーっ!」


 先頭で飛び降りた明日香が、門柱にタッチして振り向く。


「ほら千尋、ゴールタッチ!」

「はいはい」


 千尋は笑って同じ場所に手を置く。

 玲奈は無言で消毒ポンプを押し、二人の手にプシュッと吹きかけた。


「遠征帰りはまず衛生。次に荷解き。感傷はその後」

「相変わらず容赦ないねー、チーマネはー」

「容赦が仕事よ」


 寮の廊下はいつもより静かだった。

 談話室のテレビは消えていて、床に落ちた夕日だけが四角く明るい。

 遠征用の黒いバッグが床にドサドサ落ち、ファスナーの音が一斉に走る。


「明日香、洗濯ネット」

「へいへい……って、もう回すの?」

「明日の朝に塩素の匂いを残したいの?」

「残したい気持ちはちょっとある」

「やめなさい」


 千尋は自分の競泳水着をそっと手で押さえ、笑ってランドリーへ向かう。

 玲奈は手帳をめくり、タブレットに指を走らせた。


(報告書……明日・朝イチ提出。怪我ゼロ、発熱ゼロ、PB更新者一覧——)


 キーを叩く指が、ふと止まる。

 視界の端で、千尋が洗濯槽の前にしゃがみ込んでいた。

 ほつれたストラップを親指でならし、何かに話しかけるみたいに微笑む。


(お疲れさまって言ってるのかしら? 水着に……?)


「玲奈、柔軟剤どれだっけ」

「右から二つ目。軽めに」

「了解」


 洗濯機が回り始めると、寮の静けさはさらに深くなる。

 ぐるぐると回る水音に、遠征のざわめきが吸い込まれていく。


 ***


 食堂は簡易メニューの日。

 トレイの上、白いご飯と鶏の塩麹焼き。わかめスープの湯気が低く揺れる。


「んー、優勝の味だねー。質素なのに妙に美味しい」


 明日香は一口目からニコニコだ。

 千尋は箸を止め、玲奈の方を小さく覗き込む。


「玲奈、ちゃんと食べてる?」

「食べながらメモしてる」

「食べるだけでいいよ、今はさ」

「……ええ」


 言葉よりも先に、胸の真ん中が少しだけ温まる。


(怒られるより効くのよね、そういうの……)


 食べ終わると、自然と三人の足は屋外へ向かった。

 夕風がプール棟の壁をなで、窓から差し込む光でスタート台の影が伸びている。

 鍵を開けると、広い空間に塩素の匂いがふわりと満ちた。

 水面は鏡みたいで、天井の灯りを完璧に写している。


「ただいま」


 千尋がささやくと、水が微かに揺れる。

 明日香は手すりに肘をのせ、あくびをひとつ。

 玲奈は客席側へまわり、見慣れたベンチに腰を下ろした。


(ここから見てきた、全部)


 頭の中に、昨日の熱気、観客の波、電子音がパタパタと戻ってくる。


(私も一緒に立ちたいって、あの時、思った……)


 胸のどこかに、擦り傷みたいにヒリヒリしたものがまだ残っている。


「どうしたの、玲奈?」


 千尋が靴音も立てずに隣へ来ていた。


「報告書はあとで手伝うよ」

「……キャプテンの手を煩わせるような報告書なんてないわよ」

「選手目線の感覚は、玲奈の文章に“血”を入れてくれるから」

「血は入れなくていいって。数字で十分よ」

「でも、嬉しかったことぐらい、数字にしなくていいんだよ」


 言われてみて、言葉を探す。

 嬉しかったこと。


(千尋の自己新。千尋の笑顔。千尋の言葉、千尋の——)


 玲奈は一度頭を振り、違う『嬉しかったこと』を探す。


(明日香がバカみたいにはしゃいで、5秒以上抱きついた——ムカつく)


 玲奈は鼻で笑う。


(他には……誰も怪我しなかったこと。それが一番ね——)


「じゃあ、“怪我人ゼロ”。太字で」

「うん、太字で」


 千尋が明日香に振り返り、大きく手を振る。


「明日香は? なにが嬉しかった? 今なら玲奈が記録してくれるよ」

「“千尋がかわい過ぎる”——太字で! あ、ハートマークも」

「却下」

「えーっ」


 三人で笑う。

 笑い声は天井に溶け、波紋のように水に吸い込まれていった。


 ***


 夜半。

 寮の部屋に戻ると、明日香はベッドに倒れ込んだ瞬間、すーっと寝息を立て始めた。

 千尋はそこに毛布を肩にかけ、髪をそっと整える。


「おつかれさま、明日香」

「(すぴー)」

「かわいい」

「文字にすると公序良俗に触れるので控えて、千尋」


 玲奈が机に座り、ノートPCを開く。

 打鍵音が規則的に並んでいく。


【春季大会 結果報告(高等部)】

 ・参加者 34名/欠員0

 ・負傷者0/発熱0

 ・PB更新 22名(うち1名:日本記録更新)

 ・課題:序盤のアップ動線、昼食の受け渡し停滞(12:15〜12:23)

 ・所感:チーム士気は極めて良好。感情表出を認めるガイドライン(新版)下でも秩序維持は可能。


(……“感情表出”。顧問の言い方を借りすぎね)


 Backspace。

『勝って、笑えた。だから強くなれる』

 とだけ、書き換えた。


「いい文章だね」


 千尋の声が背中越しに落ちてくる。


「盗み見しない」

「タイピングの音が気になってつい。固かったのがやわらかくなった」

「……よくわかるわね」

「わかるよ。2年以上一緒の部屋にいるんだよ」

「……」

「普段は静かな音、明日香と喧嘩したときは大きな音、嬉しいときは弾むような音——」


 玲奈はディスプレイに視線を戻し、カタカタと打ち込む。


「あ、これは照れてるときの音だね。嬉しいけどちょっと恥ずかしい。どう?」

「……正解。だからもう口にしないで」

「うん」


 玲奈の顔は桃色になっていた。

 適当なファイルを開き、溜まっていたデータを整理し始める。


「こうして玲奈のタイピング音を聞くと、帰ってきたのを実感するよ。すごく落ち着く」

「そう」


 誤クリック。


「明日香がベッドで寝ていて、玲奈が机に向かっていて、私も休めている」

「ええ」

「だからさ——」

「……」

「玲奈も少し休もう」

「……?」


 指が止まり、思考が止まる。


「わかるって言ったでしょ。今の玲奈は無理してる。だから少し休もうって言ってるの」

「疲れてないわよ。私は泳いだわけじゃないから全然疲れてない」

「そう?」

「そうよ」


 玲奈は続きをカタカタカタカタ——と入力していく。


「うん、やっぱり疲れてるね」

「……どうしてそう思うわけ?」

「普段のタイピング音って気持ちいいんだよ。なんていうのかな、川のせせらぎっていうのかな、そんな感じがするんだ」

「せせらぎ……」

「でも、今はその川に石を投げ込んでる音が混じってる。普段は聞かない音」

「……」

「同じような音を聞いたことがあるけど、その時は私の気のせいだと思って流した」

「……」

「そうしたら数日後に玲奈が倒れた」


 玲奈は思い出す。自分が倒れときを。

 それは、千尋がスランプになって、明日香の機嫌が悪かった時期だった。

 千尋のスランプの原因を探る為、ありとあらゆる資料を掘り起こし、顧問や副顧問に相談したり、医学部の知り合いに相談したり、図書館で選手の自伝などを調べたりしていた。

 徹夜なんて当たり前。食事を抜くことも苦にならなかった。

 全ては千尋のため——そう思っていたら、自分が倒れて、目が覚めたら千尋のスランプはなくなっていた。


「ごめんね、玲奈」

「どうして千尋が謝るの?」

「あの時の私の不調は自業自得。玲奈も明日香も、顧問も、誰も悪くない」

「……理由、なんだったの?」


 玲奈は聞いたことがなかった。聞かなくてもいいと思っていた。

 千尋が自分で克服したなら、自身の力は必要ないと思ったから。

 でも、今はそれが気になる。

 千尋のことを、もっと深く知りたいと考え始めているから。


「あの時の不調は——玲奈が心配で、眠れていなかったの」

「——え?」

「毎日毎日遅くまでノートを取って、タブレットを開いて、ノートパソコンを打って」


(そう。あの時は仕事がわかってきて、楽しくて、がむしゃらに作業してた……)


「気になって眠れなかったし、時々目が覚めてた。目が覚めると玲奈が机に向かっていて、邪魔しちゃ悪いと思って見て見ぬふりをしてた」

「……じゃあ、千尋が元気になったのって……」

「倒れた後から、玲奈、無理しなくなったでしょ。自分の限界がわかって」

「え、ええ……」

「それで私も安心してぐっすり眠れるようになった。そしたら迷いがなくなってスッキリ泳げるようになったの。単純でしょ」

「馬鹿、千尋……。なんで、そこまで私の心配なんかして……」

「玲奈のことが好きだから」

「え?」


 玲奈の手がキーボードの上に落ち、千尋の顔を見る。


「何度でも言うよ。玲奈のことが好きだから、眠れなくなるほど心配だったの」

「ほ、ホントに……」

「うん」


 千尋が玲奈に歩み寄り、その手を包み込むように両手で握る。

 玲奈は真っ赤だった。自分でも熱くなっているのがわかる。

 目頭にちょっと熱いものを感じ、自分でも喜んでいるのがわかった。

 座っている玲奈の顔に、千尋の顔が徐々に迫る。

 玲奈は悟る。


(このまま目を閉じれば、きっと千尋と——)


 あと10cm。

 玲奈はそっと上を向き、目をつむって、唇を軽く突き出す。


(千尋、私は——)


 そして、そっと触れ合った。


「……ほら、やっぱり」

「へ?」


 触れ合っていたのは唇ではなく——おでこだった。

 息がかかるほど至近距離に千尋の顔がある。

 そしてその瞳にどぎまぎしながら混乱していた。


「うん、ちょっと熱っぽい。風かもしれないし、疲れてるだけかもしれない。今日はもう休もう。これはキャプテン命令」

「……私のこと……好き、じゃないの?」

「好きだよ」

「……」

「大好きな大親友。だから無理してほしくない」


 玲奈はポカンとする。


「ずっと一緒にいてほしいし、すごく頼りにしてる。だけど、今は無理しないで」

「そっちの、好き……」

「うん。私は玲奈のことが好きだし、明日香もなんだかんだ言って玲奈のことは大好きだと思う。羨ましいほど本音で話してるし、完全に心を開いてるよ。明日香も、私もね」

「そう、そうね、大親友……。明日香も、千尋も……大好きな、大親友」

「ありがとう。じゃあ、好きな人のために休んで。自分を大事に、だよ」

「……わかったわ。今日はもうこれで止める」

「そうして」


 玲奈はノートパソコンの電源を落として、他の資料も片付ける。


「じゃ、私もそろそろ寝ようかな。モヤモヤも消えてスッキリしたし」

「……私もスッキリした」


 千尋はパジャマを整えてベッドに入る。


「電気消すけど、大丈夫?」

「うん。ありがとう、玲奈。おやすみ」


 スイッチを押して消灯すると、玲奈もベッドに向かう。


「——玲奈?」


 自分のベッドではなく、千尋のベッドへと潜り込む。


「なんか疲れた。人肌が恋しいから今日はここで寝ていい?」

「いいけど……私、寝相よくないよ」

「じゃあ、こうすれば安心」


 玲奈は千尋の身体にピッタリ寄り添い、その腕と足をがっちり抱え込む。


「これは……ちょっと動けないね」

「でしょ。これで千尋がどんなに暴れても安心」

「これ、5秒ルールに引っかからない? 明日香が似たようなことをしたとき、玲奈は怒ってたよね?」

「仕方ないからいいの。疲れてフラフラする。誰かにくっついてないと眠れないぐらい不安で不安でしょうがないの。だからこれは緊急処置。やむを得ないの」

「そう?」

「絶対そう。はい、オヤスミ」

「まあ、玲奈がそう言うなら……おやすみ」

「うん」


 そうして、二人は新婚夫婦のように抱き合い、眠りにつく。

 当然、翌朝には修羅場になったが、千尋の取りなしで刃傷沙汰は避けられたという。


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