第10話(上)「白波、翔ける水面 ― 200メートル自由形、開戦 ―」
午前9時――。
街頭に並ぶテレビの音が辺りに響く。
商店街の軒先、学園寮の談話室、駅前の大型モニター。
どこを見ても、映っているのは同じ映像――県立アクアセンターの中継だった。
『――さて、ここからは競泳、春季大会の様子を生中継でお届けします。昨日行われた試合では、白波が全種目で上位入賞するなど、圧倒的な強さを見せてくれました。スポーツ解説員の今村さん、どう思われますか?』
『今年も白波は盤石ですね。とても選手層が厚く、まさに無敵艦隊です』
『やはりそうですか。今村さんとしては、今大会、どの辺りに注目してますか?』
『白波の選手は全員注目株ですが、やはり、堂島選手でしょうか』
『堂島千尋選手。今季から白波のキャプテンを務めていますが、やはり、一番の注目は彼女なのでしょうか?』
『そうですね。去年のインターハイでは日本新を更新してますし、なんといっても朝倉選手に続く5冠ですからね。将来の金メダル候補、今一番の注目株でしょう』
『練習では自己新――日本記録を上回ったらしいですが』
『彼女の成長スピードには驚かされますね。あの高身長から繰り出される大きなストローク、あれは世界トップレベルです。自由形で彼女に勝てる日本女子はいませんよ。いやー、日本選手権であの泳ぎを見られなかったのは非常に残念でした。今日は進化した彼女に注目したいですね』
『なるほど』
『どんな大記録を打ち立ててくれるのか、今からワクワクしてますよ』
『私もそこに注目してみたいと思います。さあ、大会2日目、始まりです!』
その声に、街頭の人々が立ち止まって画面に視線を向ける。
『――堂島選手は第4コース。ライバル校である聖明女学院のキャプテン、九条静香選手との直接対決にも注目です。さあ、白波エースの連覇なるか! 選手入場です!』
会場には3000人の観客が詰めかけており満員御礼。
その歓声と熱気は、プロ野球と同様の熱を帯びていた。
『自由形、女子200メートル、選手入場――』
アナウンスが会場に響くと大きな拍手が巻き起こり、静かな足音と共に選手たちが整然と歩み出てくる。
千尋は中央、第四コースに立つ。
淡い蒼のキャップに「SHIRANAMI」の文字。
水着にはブランド名『MIZUHO』の文字もある。
千尋は軽く屈伸し、スタート台に立つ。
ゴーグルをクッと押さえ込んで固定すると、前方で静かに待ち受ける水面に視線を落とす。
心臓の鼓動が、足裏から伝わってくるようだった。
観客の拍手が、遠くのさざ波のように聞こえてくる。
(……また、ここに帰ってこられた)
スウッと息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
水面に映る自分の姿を見つめながら、千尋は小さく微笑む。
(さあ、行こうか。私の泳ぎを、ここに刻むために――)
スタート台に足をそろえ、両手をスッと落とす。
そして一呼吸、二呼吸――場内に号令が響く。
笛の音と同時に、七つの水柱がほぼ同時に跳ねた。
一瞬遅れて、波が寄せて返すようにプールが揺れる。
***
観客の声はほとんど聞こえない。
あるのはスタート音の余韻と、水を切る音だけ。
千尋の身体は、静かに、しかし鋭く前へ進む。
最初の25メートルで肩の力を抜き、ストロークを深く入れる。
呼吸は左。目線の端に隣のレーンが映る。
(九条さん、ペースが速い――)
だが焦らない。ここはまだ“前菜”だと意識する。
(前菜は明日香――)
一瞬、そんな冗談が脳裏をかすめた。口の端がわずかに緩む。
次の瞬間、彼女の動きが変わる。
100メートルの折り返し手前で、勢いのある加速に入る。
手のひらで水をつかむ感覚が、指先まで研ぎ澄まされていく。
(呼吸も、リズムも、全部いい――いける――!)
スタンドで玲奈が記録ノートを構える。
ラップ計を見た美沙顧問が、思わず息を呑む。
「速いな……」
「入水角度、浮上のタイミングが非常によかったです。練習の自己新の時より体力が残ってるように思います」
玲奈の分析に美沙顧問の表情が笑みへと変わる。
「これは54秒……切るか?」
残り50メートル。
会場の空気が変わる。
熱狂が静けさに変わり、小さな拍手に変わり始めた。
「白波――!!」
「堂島――!!」
どこかで聞こえる。
(あと50――!)
水を蹴り、手を伸ばし、呼吸を整える。
ラストターンで一気に浮上。
誰もいない水面。
視界の端には誰も映らない。
最後にスッと腕を伸ばし、指先がタッチ板を叩いた瞬間、電子音が鳴り響く。
水面から顔を上げた千尋の視界に、天井の照明が滲む。
鼓動と歓声が混ざる。
電光掲示板には――
〈 1 白波女子学園 堂島千尋 〉
〈 1:53:98 〉
〈 GR(大会新記録) 〉
〈 NR(日本新記録) 〉
〈 HSR(高校新記録) 〉
――の文字が並ぶ。
「はぁ、はぁ、はぁ――しっ!」
千尋は小さく拳を握り、水中でガッツポーズをする。
自己ベスト更新。そして更新ラッシュ。
それは、圧倒的な差をつけての優勝だった。
応援席を見ると、明日香が立ち上がり、千尋の顔写真入りうちわを大きく振っていた。
「ちっひろーーー! 54切りやったねーーー!!」
「うるさい」
「いいじゃん! 推しの活躍だよ!」
「推しじゃなくて恋人でしょうが。って、そうじゃくて――」
玲奈の的確なツッコミに、応援席が笑いに包まれる。
千尋はプールの縁に手をつき、軽く息を吐いた。
(……水の中って、やっぱり私の居場所なんだな……)
千尋の心の中で、小さな波が静かに広がった。
***
大会最終日、最終種目である『女子4×100mフリーリレー』。
大歓声が水面に伝わり、波打つ水面にわずかな波紋を生み出す。
最終泳者・千尋がタッチ板に手を当てた瞬間、電光掲示板にタイムと順位が表示される。
〈 1 白波女子学園 3:34:77 GR HSR 〉
会場に怒声のような大歓声と拍手が巻き起こる。
「よっしゃああああ!!! 高校新!!!」
「35、切りましたね」
「高校新……夢みたい……」
スタート台横に控える白波チームはガッツポーズをし、ハイタッチする。
明日香たちチームメンバーが喜びを爆発させる中、千尋は水面から顔を上げて、荒く息をする。
「はぁ、はぁ、はぁ……やった、の?」
「モチのロン! 圧勝ってやつ! ほら、見てみ!」
千尋が振り向くと、10メートル以上先からこちらに向かってくる他校の選手が見えた。
電光掲示板に映るタイムは2着と約8秒差。圧勝だった。
息を整えて自分を落ちつかせていると、アンカーの全員がゴールし、レースは終了する。
「おつかれ、千尋。ほら、手」
「ん、ありがと」
明日香は千尋の手を取って引き上げ、濡れたままの千尋に抱きつき、喜びを爆発させる。
「さっすが、白波のメインディッシュ! 最高の料理だったよ!」
「明日香もすごかった。さすが、白波の副キャプテン」
二人は喜びのまま抱き合い続け、他のチームメンバーもその輪に加わる。
しかし、応援席で記録ノートをつけている人物の目は鋭かった。
まるで獣を射殺すような目で明日香をにらむ。
「あの馬鹿、もう5秒以上抱き合ってるじゃない……今すぐ引き剥がして――」
席を立とうとする玲奈の手を美沙顧問が握り、座るように促す。
「いいじゃないか。全力を出して勝利した。高校新も出した。なら、ああなっても仕方ない。他のチームだって感情を爆発させてるじゃないか。ああやって、みんな強くなっていくんだ」
「でも――」
「昔はな、あんな風にプールサイドで感情を出すことは出来なかったんだぞ」
「え?」
「私が高校生の頃はな――」
美沙顧問がどこか遠い目をし、千尋に過去の自分を重ねる。
『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……順位は……1着……よかった、勝てたぁ――』
アンカーでゴールした白波美沙は、電光掲示板の順位を見て、深く深く、安堵の息を吐く。
常盤学園(現・白波女子学園)は水泳の常勝校。
前のリレーで負けているので、このメドレーリレーは絶対に負けられなかった。
周囲の期待とキャプテンとしての責任が、当時3年生だった美沙に重くのしかかっていた。
その中で掴んだ紙一重の勝利。
美沙は重責から解放されたこと、チームが一体となった勝利が嬉しくなり、そのままプールの中でガッツポーズをして喜びを爆発させた。
『やったね、みんな! え――?』
『『 …… 』』
スタート台に集まるチームメンバーは軽く笑顔を見せているが、どう見ても『喜んでいる』顔ではなかった。
ただ無言で、感情を押さえ込んだような不自然な笑顔。その不気味な目が、プールの中にいる美沙に向けられていた。
そしてその視線は、チームメンバーだけではなかった。
他校のメンバー、スタッフまでも、不可解な目で美沙を見ていた。
そして気付く。
自分の行動が『学生水泳のスポーツマンシップ』に反していると。
『あ……ごめんなさい……』
美沙は謝罪を口にする。
【勝っても驕らず、負けても潔く】
それが学生スポーツの美学であり、教育方針。
そう。美沙のガッツポーズは相手を見下し、勝者のおごりとして見られていたのだ。
『美沙、手を』
『麗子……』
『一緒に怒られてあげるから気にしない』
『ごめん』
『変だよね。こんなに嬉しいのに、それを出せないなんて』
『うん。でも、それがマナーだから……』
『こんなマナーなんて無くなればいいのに』
『麗子……』
『もしも美沙が水泳界の頂点に立ったらさ、こんなふざけた風習を変えてよ』
『頂点……』
『勝ったら喜んでさ、負けたら泣いたらいいんだよ。1秒だって我慢したくない。オリンピックを見習いなさいっての』
『……うん、だね』
『美沙なら改革出来るよ。まあとりあえず、今回は怒られようか』
『ごめん』
『だからいいって。私たちは政府公認の恋人なんだから、この程度気にしない』
『政府公認って……。ただ法改正で同性婚が出来るようになっただけ。周囲の目はまだ冷たいよ』
『いいの。法的に認められてることが大事なんだから。はい、タオル』
『ありがとう、麗子』
美沙顧問は笑顔で昔語りをするが、玲奈は複雑な気持ちでペンを握っていた。
「私がリレーで金メダルを獲ったときと同じ光景が広がっている。そう考えると、あそこに広がる光景は実にキラキラしてるだろ。私もあの輪に加わりたいぐらいだ」
「……ですね」
玲奈は自分たちがいかに恵まれているかを考え、千尋たちを見守ることにした。
この後は表彰式と打ち上げという名の祝勝会。マネージャー組はそれらの手配を万全にしなければならない。
玲奈たちのチームレースは、これからだ。




