『侯爵令嬢は偽物と断罪されましたが、領民総出で守られて逆転無罪! ざまぁされたのは陰謀を企んだ伯爵令嬢でした』
侯爵家の重厚な屋敷。その奥深くにある一室は、重苦しい静けさに包まれていた。分厚いカーテンが閉ざされ、外の陽光はわずかな隙間から差し込むだけ。高い天井から吊るされた燭台の炎が揺らめき、壁に映る影が不吉なほどに伸びていた。
まだ幼いクラリスは、農村から侯爵家に迎えられて数年が経っていた。初めてここへ来た日の不安や怯えはすっかり消え去ったわけではなく、時折胸の奥に疼くこともあった。だが、この数年で彼女は礼儀作法や文字を学び、侯爵家の令嬢として振る舞うことを求められるようになっていた。絹のドレスに袖を通していても、心の片隅には麻布の服を着て土の上を駆け回っていた日々の記憶が残っていた。
それでも、豪奢な絨毯やきらびやかな家具は、彼女にとっていまだに見知らぬ世界の象徴のように映っていた。慣れはしても、本当に自分の居場所なのかどうか、心のどこかで迷い続けていたのだ。
ここのところ、病に伏すレオンハルト・フォン・レーヴェン侯爵がベッドから身を起こし、震える声で呟いた。 「……まるで、我が娘が帰ってきたようだ……」
クラリスは目を瞬かせ、恐る恐る近寄った。侯爵の瞳は涙で濡れており、彼女を見つめるその視線には切実な渇望が込められていた。侯爵の大きな手が彼女の頬に触れる。温もりが伝わると同時に、クラリスの胸の奥が熱くなった。
「お父様……」
「クラリス。私の娘……クラリス・フォン・レーヴェン」
侯爵は微笑みながらも声を震わせ、まるで自らに言い聞かせるように告げた。
クラリスは小さな声で答えた。
「……私が、侯爵家の娘に?」
侯爵は力強く頷き、彼女の肩にそっと手を置いた。「そうだ。胸を張って生きなさい。お前は、私の娘だ」
それからの日々、クラリスの世界は一変した。絹のドレスを纏い、社交界の言葉を学び、侯爵家の名を背負うようになった。だが夜になると、農村で見ていた夜空と土の匂いを恋しく思い、枕を濡らすこともあった。それでも、侯爵の温かな眼差しだけが彼女の心を支えていた。
やがて年月が過ぎ、侯爵は病が進行し重篤になり倒れた。寝室の空気は薬草と湿った布の匂いで満ち、蝋燭の光が彼の痩せ細った横顔を照らしていた。クラリスは枕元に座り、必死に手を握りしめた。冷えたその手に、彼女の涙がぽたりと落ちる。
「クラリス……血の繋がりなどどうでもよい。お前は私の娘だ。誰よりも……誇らしい」
「お父様、そんなこと……言わないで。私、まだ……」
クラリスは声を震わせ、堰を切ったように涙を流した。侯爵は弱々しい微笑みを浮かべ、乾いた唇を開いた。
「お前は領地を愛し、民を思っている。その心こそが、侯爵家の後継の証だ。……もし誰かが出生を疑えば、この遺言が真実を示すだろう。だから……決して恥じるな」
「いやです! 私を置いていかないでください!」
叫ぶように泣くクラリスを、侯爵は静かに見つめ、最後の力を振り絞って彼女の髪を撫でた。やがて彼のまぶたは静かに閉じられ、握られた手の力が抜けていく。
「お父様……お父様!」
クラリスはその手を必死に抱きしめ、声を押し殺して泣いた。夜更けの蝋燭の光が揺れる中、彼女の嗚咽だけが部屋に響いていた。
それが、父娘として交わした最後の時となった。侯爵の死後、クラリスの胸には燃えるような誓いが刻まれていた。──血筋を超えて、父の遺志を守り抜くこと。それが、彼女が侯爵令嬢として生きる理由であり、未来へと繋がる唯一の灯だった。
■
王宮の大広間は、錦織の刺繍で飾られたカーテンと、無数の燭台の灯りに照らされ、まるで昼間のように眩しく輝いていた。宝石のごとく光を散らすシャンデリアの下で、楽師たちが奏でる音楽が軽やかに流れ、貴族たちの笑い声とグラスの触れ合う音が重なり合っていた。
その華やぎの只中で、クラリス・フォン・レーヴェン侯爵令嬢は、一歩引いた場所から人々を見渡していた。銀の髪をきっちりと結い上げ、深紅のドレスを身に纏ったその姿は誰もが息を呑むほどに美しい。だが、その唇に浮かぶわずかな弧が、冷ややかな嘲笑のように見えるため、彼女の名は社交界では「氷の侯爵令嬢」と囁かれていた。
「……まあ、これが貴族の務めとでも言うの? くだらないわ」
銀盆を持つ若い使用人が一瞬手を滑らせ、グラスの配置が乱れた。それを見逃さず、クラリスは手にした象牙の扇で机を鋭く叩いた。高い音が大広間を切り裂き、音楽さえも一瞬止まったかのように感じられる。視線が一斉に彼女へと注がれた。
「何度言わせれば覚えるの? 侯爵家の名に泥を塗る気かしら。恥を知りなさい」
叱責の言葉に、使用人の顔から血の気が引き、深く頭を下げる。周囲の貴族たちは小声で笑い、冷たい視線を彼女に向けた。だが、その誰も知らない。クラリスが口では冷たく突き放しながらも、失敗した使用人を陰で庇い、後に必ず励ましの言葉をかけることを。
「やはり、レーヴェンの娘は気位が高すぎますこと」
「少しの失態であれほど……近寄りがたい方だわ」
囁き声が飛び交い、クラリスの胸の奥に重苦しい痛みが広がった。けれど彼女は扇で口元を隠し、決して感情を表に出さなかった。──自分がどう評されようと構わない。父の残した領地と民を守れるならば。
そこへ、鮮やかな薔薇色のドレスに身を包んだ伯爵令嬢イザベラ・フォン・ドルンが優雅な足取りで現れた。扇をひらひらと動かしながら、柔らかな笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥に潜む計算高さを、クラリスは見逃さなかった。
「クラリス様、ご機嫌麗しゅうございますわ」 「ええ、イザベラ。……今日はずいぶんと自信に満ちているようね」
クラリスが淡々と答えると、イザベラは楽しげに微笑んだ。
「実は、領地の鉱山に関して新しい事業を提案したくて参りましたの。王国全体の利益になる、きっと画期的な計画ですわ」
周囲の貴族たちが興味深そうにざわめき、イザベラに期待の眼差しを注ぐ。彼女の言葉は甘美で華やかだった。だが、クラリスの胸には冷たい怒りが燃え上がる。──この事業の裏にある他国との密通を、彼女だけが知っていたからだ。
「下らない話ね」
クラリスの一言に、場の空気が凍りついた。誰もが彼女を見つめ、イザベラの顔色が変わる。
「……なんですって?」
「あなたの計画など、侯爵領には不要よ。王国を欺き、私腹を肥やそうとする浅ましさ……見苦しいにも程があるわ」
その言葉は刃のように鋭く響き、大広間を沈黙に包んだ。イザベラの頬が紅潮し、怒りで震える。
「クラリス様、それはあまりにも……!」
「黙りなさい。私は正しいと思うことしか言わないわ」
氷のような声に、周囲の人々はさらに「気高く冷ややかな令嬢」という印象を強めていく。クラリスはその視線をすべて受け止めながら、心の奥でただひとつ──父の遺志を守る決意を固く噛みしめていた。
■
玉座の間は、張り詰めた緊張に包まれていた。無数の燭台に灯された炎が壁に揺らめき、赤い絨毯の上に落ちる影を一層濃くしている。列席する貴族たちは豪華な刺繍を施した衣を揺らし、玉座の前に跪くクラリスを冷笑まじりの視線で見下ろしていた。
深紅のドレスを纏ったクラリスは、背筋を伸ばして立っていたが、その両手はかすかに震えていた。胸の奥に重く沈む痛みを隠すように、扇を握る指に力を込める。顔を上げれば、冷ややかな目ばかりが彼女を射抜いてくる。
イザベラ・フォン・ドルン伯爵令嬢は、勝ち誇ったように玉座の前へ進み出た。薔薇色のドレスの裾をひるがえし、扇をひらめかせながら、よく通る声を響かせる。
「陛下、ここに揺るぎない証がございます! クラリス・フォン・レーヴェンは侯爵の実の娘ではなく、農民の出自を偽って侯爵家を騙っているのです!」
その声に呼応するように、控えていた証人たちが次々と進み出る。老人は杖を突きながら頭を下げ、若い商人は書状を掲げた。
「確かに、クラリス様は侯爵の正統な血筋ではございません」
「この文書に記された記録こそが証左でございます」
他国の商家によって捏造された文書が提示されていた。
列席する貴族たちの間にざわめきが広がり、やがて冷たい笑いが生まれ始めた。
「やはり偽物だったか」
「侯爵家の名を汚すとは……これで終わりだ」 「ざまぁみろ」
押し殺した嘲笑が幾重にも重なり、クラリスの耳を鋭く突き刺す。彼女は唇を噛み、涙が滲むのを必死に堪えた。胸の内で、亡き父の顔が浮かぶ。──父上、私は……。
その時、王の低く響く声が大広間に落ちた。
「クラリス・フォン・レーヴェン。お前は侯爵家の名を騙り、王国を欺いた。その罪は重い。よって領地を没収し、虚偽を偽った罪として舌を抜く刑に処す」
広間に一瞬の静寂が訪れ、次の瞬間、嘲笑と囁きが歓声のように広がった。
「ご覧なさい、正義の裁きだ」
「なんと痛快な結末」
「哀れというほかないわ」
クラリスは目を閉じ、深く息を吸い込むと、震える唇から小さな声を洩らした。
「……父の遺志を守れただけで、もう十分です」
それは誰にも届かぬほど微かな囁きだった。だが、彼女の心には確かに刻まれていた。誇りと絶望がせめぎ合い、今まさに断罪の烙印を押された令嬢の姿がそこにあった。
今や断罪の間と化した室内は嘲笑と侮蔑の声に満ちていた。燭台の炎が揺れ、豪奢なシャンデリアの影が天井に波のように踊る。冷たい空気の中、クラリスは膝をつき、うつむいたまま震える指先を必死に握りしめていた。
その時だった。
「お待ちください!」
群衆を押し分けて、一人の男が駆け込んできた。煤で黒ずんだ衣を着た鉱山労働者だった。彼の額には汗が光り、手にはひび割れが刻まれている。だが、その瞳は恐れを知らず、真実を叫ぶためだけに燃えていた。
「クラリス様は……あの飢饉の折、自分の食を削って我らに分けてくださったのです! 我が子はあの方のパンで生き延びました! あれがなければ、今ここに私はいなかった!」
その声に広間がざわめく。別の男が声を張り上げた。
「そうだ! 鉱山で搾取され、命をすり減らしていた私たちを救ってくださったのもクラリス様だ! 他国の商会に鉱山を売り渡そうとした計画を止めてくださった! 我らの暮らしを守ってくださったのだ!」
次々に領民が飛び出し、涙ながらに訴える。布をまとった母親が幼子を抱きしめ、声を震わせた。
「この子は……この子はクラリス様が薬を与えてくださったおかげで助かったのです!」
クラリスの瞳から、堪えていた涙が零れ落ちた。人々の声は嘲笑を押し流し、広間を温かい熱で満たしていく。
そして、群衆の後ろから青年が進み出た。栗色の髪を持つ侍従――ユリウスだった。彼の目は真っ赤に潤み、声は震えながらも力強く響く。
突如、王宮の断罪の場に現れ、涙ながらに声を張り上げた青年──その名はユリウス・グレイン。彼はただの侍従ではなかった。クラリスにとって、幼き日々から共に歩んできた唯一の理解者であり、秘めた恋心を抱き続けてきた相手だった。
ユリウスは元来、侯爵領の農村に生まれた農民の息子である。畑を耕す両親と共に質素な暮らしを送っていたが、幼い頃から真面目で働き者として評判だった。クラリスが侯爵家に迎えられて間もなく、身の回りの世話をする少年従者として屋敷に召し抱えられたのである。
最初は、侯爵家の煌びやかさに圧倒されるばかりで、戸惑いと不安を隠せなかったクラリス。だが、同じ農村の出身であるユリウスが傍にいたことで、孤独は幾分和らいだ。二人は互いの過去を分かち合い、夜ごと屋敷の裏庭で見上げた星空の下で、農村の匂いを懐かしんでは小さく笑い合った。
「ユリウス、覚えている? 村の丘から見た空。……あれは、どんな宝石よりも綺麗だった」 「ええ、クラリス様。俺にとっても、あの夜空は故郷そのものです」
彼は常に“クラリス様”と呼び、身分の隔たりを越えることはなかった。それでも、彼の視線はいつも誠実で、クラリスが涙を隠した夜には、誰よりも早く気づいて傍にいてくれた。クラリスもまた、彼の不器用な優しさに救われ、気づけば心が寄り添うようになっていた。
ある夜、侯爵が病に伏していた時のこと。クラリスはユリウスに打ち明けた。
「私、怖いの。この家にいるべきではないのではと……血の繋がりがないことを、いつか誰かに暴かれるのではと」
ユリウスは静かに首を振り、真剣な眼差しで告げた。
「俺にとっては、血筋なんて関係ありません。あなたは俺の大切な人です。……俺が、必ず守ります」
その言葉に、クラリスの胸は熱くなり、涙が頬を伝った。だが二人は互いの想いを言葉にすることなく、ただ侍従と令嬢という立場を守り続けた。
──そして今、断罪の場。ユリウスは全てを賭けて声を上げた。
「彼女が偽物だというなら、俺は命を懸けて偽物に仕えます!」
それは、侍従としての忠義を超え、長年胸に秘めてきた愛そのものだった。クラリスの胸に、過去の記憶が一気に蘇る。裏庭の夜空、励ましの言葉、触れられぬ想い。それらがすべて、この瞬間に結実していた。
侍従ユリウス──それは、単なる従者ではなく、クラリスの運命を共に背負う存在であり、彼女の心がずっと求め続けてきた唯一の人だった。
「陛下! 私は……クラリス様にすべてを捧げてきました! 身分違いであることは重々承知しております!」
王が険しい視線を向ける。
「……それでも申すか」
ユリウスは拳を握り、叫んだ。
「それでも申します! 私は……あの方を心から愛している! 彼女が偽物だというのなら、私は命を懸けて偽物に仕えましょう! 愚か者と笑われようとも構わない! クラリス様が私たち領民にどれほど慈しみを注いでくださったか、私は誰よりも知っているのです!」
その叫びに玉座の間が震えた。沈黙が落ち、燭台の炎さえも息を潜めたように揺れる。クラリスは涙に滲む視界でユリウスを見つめ、胸の奥から熱が溢れ出すのを感じた。
「ユリウス……」
声にならない囁きが彼女の唇から漏れる。人々の訴えとユリウスの告白が、断罪の場を覆していった。──クラリスは断罪されるべき偽装令嬢などではなく、領民に深く慕われ、愛される真の令嬢であることが、今や誰の目にも明らかだった。
王宮の断罪の場に重苦しい沈黙が落ちていた。イザベラが弁明の言葉を必死に紡いでも、群衆の嘲りと怒声は止むことはなかった。だが、その時、再び老執事オズワルドが玉座の前へ進み出た。手には封蝋の押された一通の文書が握られている。
「陛下……こちらをご覧ください」
王が受け取った文書を広げると、そこには明らかな異国の印章と署名が刻まれていた。大広間にいた者たちが息を呑む。オズワルドの声が厳かに響いた。
「これは、イザベラ・フォン・ドルンが他国の使者と交わした密約書にございます」
そう言って読み上げられた内容は、場内の誰もが凍りつくほど明白だった。
――『契約書
余、イザベラ・フォン・ドルンは、ここに以下を誓約する。
一、レーヴェン侯爵家を失脚させ、侯爵領を我が手に収めた暁には、領地に属する鉱山の利権を余すことなく、貴国商会へ譲渡するものとする。
一、上記の見返りとして、我がドルン伯爵家が侯爵位に昇ったのち、王家を打倒せんと企む折には、貴国は軍事ならびに財政の全面的支援を行うものとする。
この契約は、互いの血と印章をもって成立したことを証する。
署名:イザベラ・フォン・ドルン 【異国の署名と印章】』
場内にどよめきが広がった。恐怖と怒りが混じり合い、貴族も民も言葉を失う。王は険しい顔で文書に目を走らせ、拳を強く握りしめた。
「……なんと大胆不敵な。侯爵家を陥れただけでなく、いずれ王家をも打倒せんと企んでいたか!」
イザベラは血の気を失い、床に崩れ落ちた。唇が震え、かすれた声が漏れる。
「そ、それは……ただの……駆け引きで……」
だが、王の声は鋭く響いた。
「言い逃れは無用! この密約こそ、そなたが逆賊である何よりの証である!」
群衆の中から悲鳴のような声が上がり、やがてそれは怒号へと変わっていった。
「国を売る気だったのか!」
「王家をも裏切ろうと!」
イザベラは耳を塞ぐように両手を顔に当てたが、誰もその惨めな姿に憐れみを抱く者はいなかった。密約の文言は、彼女自身の野望を白日の下にさらしていたのだった。先ほどまで渦巻いていた嘲笑と侮蔑は、領民の叫びとユリウスの告白、そしてオズワルドの一歩で完全に空気を変えられていた。老執事はゆっくりと玉座の前に進み出る。白髪をきちんと撫でつけ、長年の忠義を背負ったその背中は小刻みに震えていたが、その瞳には確固たる決意が宿っていた。
「陛下……どうか、こちらをご覧ください」
黒革の封筒を掲げると、広間がざわめきに包まれる。封蝋が割られ、オズワルドは慎重に羊皮紙を取り出した。インクは時を経て薄れていたが、力強い筆致がそこには残っていた。
「レオンハルト・フォン・レーヴェン侯爵の直筆の遺言にございます……『クラリスを我が嫡子と認める』」
オズワルドの声が響いた瞬間、場は一斉に息を呑んだ。誰もが目を凝らし、その一文を見逃すまいと身を乗り出す。玉座の上の王が立ち上がり、侍従から文書を受け取って目を通した。指先で文字をなぞり、深い皺を刻んだ眉がわずかに震えた。
「……間違いない。これはレオンハルト侯爵の筆跡だ」
その宣言に、場が大きく揺れた。ざわめきが広がり、驚きと動揺が入り混じる。先ほどまで冷笑を浴びせていた貴族たちが互いに顔を見合わせ、困惑の色を浮かべている。群衆の中からは安堵と歓喜の声が湧き上がった。
「やはり! クラリス様こそ真の令嬢だ!」
「侯爵様は最期まで娘を守ろうとしてくださったのだ!」
クラリスは震える唇を押さえ、瞳を潤ませた。涙が頬を伝い、オズワルドに視線を向ける。老執事は深々と頭を垂れ、声を絞り出した。
「……旦那様のご意志、ようやく果たされました」
クラリスの胸は熱く締めつけられ、嗚咽が喉を塞いだ。彼女はただ涙をこぼしながら、執事の言葉を心に刻み込んだ。
一方で、王の視線は鋭くイザベラに注がれた。玉座から響く声は怒りを孕んでいる。
「イザベラ・フォン・ドルン。お前の訴えは虚偽であった。何ゆえ、このような讒言を働いた」
イザベラの顔は蒼白になり、手に持つ扇が音を立てて震えた。必死に言葉を紡ぐ。
「い、いえ、陛下……! 私はただ、王国のためを思い──」
だが、その声をかき消すように、領民の代表が声を張り上げた。怒りと悲しみが混じる叫びだった。
「陛下! この女こそ他国の商会と密約を交わし、我らの鉱山を売り渡そうとしていたのです! もしクラリス様が止めてくださらなければ、我らの職も、領地の未来も失われていた!」
玉座の間に雷鳴のごとき衝撃が走った。貴族たちがどよめき、王の目が大きく見開かれる。やがて、その瞳は燃えるような怒りに染まった。
「……なんと、この期に及んでまだ言い訳を申すか!」
イザベラは後ずさりし、扇を握る手を震わせながら叫ぶ。
「ち、違います! 誤解です! 私はそんなつもりでは──」
しかし、その声は誰の耳にも届かなかった。領民たちの怒号が重なり、冷たい視線が一斉に彼女を突き刺す。クラリスが偽物と罵られたその場は、今や完全に反転し、イザベラこそが断罪されるべき存在だと誰もが理解していた。──空気は決定的に逆転していた。
断罪の場には、冷たい空気が満ちていた。群衆の怒声が嵐のように吹き荒れ、イザベラはその中心で必死に身を震わせていた。白い指で床に散らばった扇を探すが、その手は虚しく宙を彷徨うだけだった。
「ち、違います……! 私はただ……王国のために……!」
声は掠れ、涙と共に震え落ちた。だが、その叫びは誰の耳にも届かない。他国との密約文書、領民の訴え、そして侯爵の遺言書。すべてが揃った今、イザベラの弁明は薄っぺらく響くだけだった。
「裏切り者め!」
「この国を売り渡そうとしたのだ!」
「もう言い逃れはできぬ!」
群衆の罵声が幾重にも重なり、イザベラの肩を押し潰すようにのしかかる。視線は冷たく鋭く、誰一人として彼女を庇う者はいなかった。
王が立ち上がった。威厳ある姿で玉座の上から見下ろし、鋭い眼差しをイザベラに突きつける。その声は雷鳴のように大広間を震わせた。
「イザベラ・フォン・ドルン──そなたは他国と密約を結び、この国を売ろうとした逆賊である!」
さらに王は声を強めた。
「レーヴェン侯爵が病に倒れ、後継が揺らいだその隙を突き、伯爵家を侯爵家に取って代えようとした……その狡猾さに、危うく余も騙されるところであった。それこそ、この上なき恥である!」
イザベラの顔は蒼白になり、全身が小刻みに震える。
「ち、違……! 私は……ただ……!」
「黙れ!」
その一喝で、イザベラの声は掻き消された。王の瞳は怒りに燃え、誰も逆らえぬ断罪の言葉が響き渡る。
「この国を売ろうとした逆賊、断罪に処す!」
玉座の間が震えた。群衆が歓声を上げ、罵声と嗤いが入り混じる。イザベラは膝を崩し、赤い絨毯の上に崩れ落ちた。嗚咽を洩らしても、もはや誰も彼女を庇わない。侯爵家を貶めようとした伯爵家の陰謀は暴かれ、すべては瓦解したのだ。
その光景を見つめながら、クラリスは複雑な思いに胸を締めつけられていた。涙で濡れた頬を押さえ、静かに目を閉じる。勝ち誇る気持ちなどなく、ただ亡き父の遺志と領民の声が、自分をここに立たせているのだと痛感していた。
玉座の間は、緊張と安堵の入り混じるざわめきに満ちていた。煌々と灯る燭台の光が大理石の床に反射し、長く伸びた影が揺れる。先ほどまで怒号と罵声に震えていた場所は、今や人々の胸に温かいものを灯していた。
クラリスはその中心で、涙を拭わずに立ち尽くしていた。頬を濡らす雫は途切れることなく零れ落ちる。それでも、彼女の瞳は凛として澄み渡っていた。胸に手を当て、震える声で告げる。
「皆の者、よく聞いてください。父の遺志を継ぎ、この領地を守り抜けたのは、我ひとりの力ではなく、そなたらの支えあってのことです。この日のことを、私は決して忘れません」
その言葉に領民たちの目が潤み、感極まった声が漏れた。「クラリス様……!」「お嬢様……!」玉座の間は熱い感情に包まれ、さきほどまでの冷たい嘲笑が嘘のように消えていた。
その時、ユリウスが人々を押し分けるようにして進み出た。粗末な侍従服に身を包んだ青年は、汗で額を濡らしながらも真っ直ぐにクラリスを見据えていた。王の目の前であるにもかかわらず、彼は一歩も怯まずに歩み寄ると、クラリスの前で静かに跪いた。そして震える手で、彼女の手を取る。
「……クラリス様。私は……身分違いであることを、百も承知しています」
玉座の間にいた人々が一斉に息を呑んだ。貴族たちは顔をしかめ、「無礼だ」と囁く者もいた。だがユリウスの声は澄み渡り、震えながらも力強く響いた。
「それでも……私は、あなたと共に歩む未来を選びたいのです。あなたがどのような立場であろうと、私は……心から愛しています」
クラリスの胸が熱くなり、涙が再び頬を伝った。声を絞り出すように彼女は答える。
「ユリウス……そんなこと……王の御前で……」
だが彼の瞳は揺らがなかった。手を握りしめる力は強く、言葉以上の想いを伝えていた。クラリスは唇を震わせ、堪えきれず微笑んだ。
「……私も……あなたと共に生きたい」
その瞬間、領民たちは感情を抑えきれず、次々に拍手を鳴らした。やがてそれは大きな波となり、玉座の間全体に広がる。「クラリス様とユリウス殿に祝福を!」「お二人に幸あれ!」
熱狂の中、王は玉座からその光景を見下ろしていた。しばし沈黙したのち、威厳ある声で宣言する。
「血筋ではなく、行いと心こそが真の証。クラリスは領民を守り、ユリウスは命を懸けて支えた。その絆こそ、尊ぶべきものである」
その言葉に拍手と歓声が爆発した。クラリスは涙に濡れた瞳でユリウスを見つめ、彼の手を強く握り返す。二人の間に交わされた想いは、もはや誰にも否定できないものとして玉座の間に刻まれたのだった。
■
夜。王宮の玉座の間での喧騒が遠ざかり、クラリスは静まり返った庭園に佇んでいた。月光が大理石の小径を照らし、噴水の水音が静かに響く。昼間の歓声が幻のように思えるほど、夜の庭は静謐に包まれていた。
背後から足音が近づく。振り返れば、そこにユリウスの姿があった。粗末な侍従服のまま、だが月明かりに照らされたその瞳は力強く澄んでいる。
「クラリス様……」
彼は立ち止まり、ためらうように言葉を選んだ。だが、やがて真っ直ぐな眼差しで彼女を見つめる。
「今日、あの場で口にしたことは、私の全ての覚悟です。身分を超えてでも、私はあなたと生きたい」
クラリスはそっと微笑み、ユリウスへと歩み寄った。昼間の涙はもう乾いていたが、その瞳は新たな光を宿していた。
「ユリウス……あの場であなたが私の手を取ってくれた時、全ての不安が消えたの。血筋や立場ではなく、あなたと共にいることこそが、私の望む未来だと気づいた」
ユリウスは震える手を伸ばし、彼女の手を再び握り締めた。二人の手の温もりが、言葉以上に強い絆を示していた。
「たとえどんな困難が待ち受けようとも、私は決して離れません」 「私も……あなたと共に歩むわ」
その誓いは月明かりの下、静かな夜に溶け込むように交わされた。噴水の水音が祝福の調べのように響き、二人の影が寄り添って揺れる。昼の玉座の間で交わされた宣言とは違う、誰にも邪魔されぬ二人だけの誓いだった。
世の中には「看板の書き換え」で騒動になることが多々あります。伊東市の学歴詐称市長のニュースなどは記憶に新しいところですが、あの件、単なる経歴の粉飾どころではなく「実は某国のメガソーラー事業を阻止していたのでは?」なんて噂まで飛び出しました。……真偽のほどは知る由もありませんが、世間をにぎわせた話題としては実に興味深いところです。
本作は、そんな現実の「不思議なニュース」をヒントにしています。侯爵家の令嬢が“実は本物ではない”という出自を抱えつつ、領地を狙う陰謀に立ち向かう──という一大宮廷劇。学歴や肩書きに振り回される現実と、血筋や身分で裁かれる架空世界とを重ね合わせて、少しユーモラスに、そして皮肉を込めて描いてみました。
実在の誰かを描いたものではありません。どうかお気楽に、「もし宮廷に学歴詐称市長がいたら?」くらいの気分で楽しんでいただければ幸いです。