第8話『矢は風を超えて』
村の空気が、少しずつ変わり始めていた。
それは、風の匂いが違ったからだ。
村の鍛治職人・ナガは、南から流れ込む風に、獣ではない匂いを感じ取っていた。
火と皮の匂い、そして鉄の音。
「他の……部族だ」
村長グランが重々しくうなずく。ルナがこの地に現れてから、灰牙の村は豊かになった。その噂は、風に乗って他の部族にも届いているだろう。
だが、豊かさは羨望を呼び、羨望は争いに変わる。
「戦うのか?」とナガが問うたとき、ルナは首を横に振った。
「……違う。“守る”の。命を、暮らしを、言葉を」
ルナはその夜、工房にこもり、古代の戦史の記憶をたどるように、紙ではなく地面に棒で線を引いた。
狩猟用の弓は威力がありすぎ、連射が利かない。
護るためには、狙いが正確で、素早く撃てる弓と矢が必要だった。
次の朝、村の広場には新しい形の弓が並んでいた。弦は動物の腱を撚ったもの。弓身は、工房で成型したしなりの強い木材を使い、手の小さな村人でも扱える短弓に近い形だ。
「名をつけよう」
ナガが言った。
「この矢隊に。……“灰牙”ってのはどうだ? 村の色であり、牙は守るものだ」
グランも頷いた。
灰牙の村、灰牙の矢隊。誇りがそこに宿る。
訓練はすぐに始まった。
風を読むこと。
動きながら射ること。
複数人で矢を交互に放ち、途切れなく飛ばす連射陣形。
風送機を扱っていたコルが、風の強弱を読む仕組みを助言し、ヒメは矢に印をつけて“誰の矢がどこに飛んだか”を記録していった。
言葉と記録が戦術を進化させる。
そして数日後、見張り台から“他部族らしき者”の接近が報告された。
ルナは矢隊を出さなかった。
代わりに、灰牙の矢隊は高台で整然と並び、静かに、誇り高く矢を構えてみせた。その姿に、侵入者たちは足を止めた。
攻めるには、あまりに整っている。
狩るには、あまりに意志を持っている。
やがて、他部族の姿は風に溶けて消えた。
「撃たなかったのか」と、ナガが言う。
ルナは微笑んだ。
「撃たなかったから、命が残った。戦わずして守る。それが一番強い“矢”よ」
その夜、村の者たちは焚き火を囲みながら、弓と矢のそばに花を飾った。
“殺す道具”から“守る象徴”へ。
それは知が、血を越える瞬間だった。
そして、村の子どもたちが口にした。
「ルナの矢は、風を越える」
そう――風を越え、争いの先に“知”を届けるのだ。