第6話『カレンダーと病の神』
灰牙の谷に、春を告げる風が吹いた。
山の雪が溶け、獣たちが地面を踏み鳴らす音が日ごとに強くなる。空を見上げたルナは、欠けゆく月を指さした。
「もうすぐ“雨の月”が来るわ」
その言葉に、ナガが首をかしげた。
「ルナ、月に“名前”があるのか?」
ルナは頷く。
「雨が多く降る季節を“雨の月”、火を扱うのに最適な季節を“火の月”って呼ぶの。月の満ち欠けと季節の巡りを組み合わせれば、作物の育ちも、病の広がりも読めるようになる」
彼女は土の上に、木の枝で円を描いた。その中に月を象った石を並べ、周囲に記号を置いていく。
「これは“暦”……時間を目で見て覚える道具よ」
狩りや焚き火の合間にしか季節を感じられなかった村人たちは、ルナの作った円形の“暦”に驚いた。
古老ヤファはそれを見て、静かに唸った。
「まるで、天と地の時計のようだ……」
暦が作られ、農耕の計画はぐんと緻密になった。
「火の月に種をまき、水の月に溝を掘る」――ルナの言葉は、やがて村の常識になっていく。
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一方で、春先には咳き込む者や、腹を下す者が増えていた。
「呪いだ……冬に木を切りすぎたからだ」
「いや、雨神の怒りだ」
そんな声が上がる中、ルナは違う視点から語った。
「これは呪いじゃない。病は“身体の乱れ”よ。食べ物が腐っていたり、水が汚れていたりすると、身体は壊れ始める」
村人たちは不安そうに顔を見合わせたが、ルナは笑って見せた。
「だからね、治す方法もあるの。まずは“手洗い”。水だけじゃだめ、灰や草の汁でもいい。あと、“煮ること”。水も食べ物も、火にかければ毒は消えるわ」
納豆のように発酵した豆を見せると、コルが鼻をつまんだ。
「くさい……」
「でも身体にいい。この匂いが、“菌”という小さな生き物のしるしなの。よい菌は食べ物を守ってくれるのよ」
ルナは大豆を煮て、藁にくるみ、発酵させる方法を伝えた。さらに、乳を木の器に入れて放置し、酸味のある白い塊――乳酸菌の“ヨーグルト”も作った。
「ここでは腐るのが早いから、こうやって保存するの。菌は見えないけれど、火と同じように使える道具よ」
村人たちは最初は半信半疑だったが、子どもや老人が元気になっていくのを目の当たりにして、次第に信じはじめた。
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そして「雨の月」の半ば、村の女たちが収穫した根菜を煮沸し、保存容器に入れる光景が当たり前になった。
ヤファは言った。
「暦と食と、病を癒す術……まるで神の知恵だ」
それを聞いたルナは首をふった。
「神じゃない。知っていれば、誰でもできる。だから私は、全部伝える。“生きる知識”を、この村に」
その声に応じるように、満ちてゆく月が夜空を照らしていた。