第3話『土と水と、畑の神話』
乾いた風が谷を吹き抜けるたびに、灰牙の村では煙が立ちのぼった。獲物を焼く火。木を燻す火。そして、それを見つめる目の奥に、かすかな不安が宿っていた。
――狩りがうまくいかない日が続いていた。
獣の移動が読めず、罠も空振りが多い。群れで獲っていた者たちが「食い扶持」を減らすために隠れて食べるようになり、狩人同士の言い争いが増えていた。
その様子を見ながら、ルナは一つの石を拾い、地面に円を描いた。
「これは、空腹の円。毎日、減っていく食料。……狩るだけでは、もう追いつかない」
村長と古老たちはうなずき、だが誰も次の手を持たなかった。
だから、ルナは言った。
「なら、“育てる”んです。食べ物を、ここで」
ざわめきが走る。狩ってきた肉や木の実を拾って暮らしてきた彼らにとって、“育てる”という概念はほとんど神話に等しかった。
だがルナは、冷静だった。
「植物は、命と同じ。水と土と、ほんの少しの知恵で応えてくれる」
まずは土地を選び、陽のよく当たる斜面の麓に畑となる“区画”を作る。手始めに、雑草を刈り、木の棒で土を起こし、鋤の代わりとなる尖った石で表土をゆるめた。
次に水だ。乾いた土では芽も出ない。
ルナは谷の中央を流れる細い川から、幾筋かの溝を掘り、畑へと導いた。村の若者たちが土を掘り、子どもたちが桶で水を運び、女たちが小石を拾った。
「種」は、拾い集めた実のうち、熟したものから乾かして選別した。芽が出る保証などどこにもない。だが、希望は蒔けた。
さらにルナは、ある“秘策”を実行に移す。
洞窟に残された“古い食べ残し”から白く膨らんだ粒を集め、水で撹拌し、竹筒に詰めて保存する――納豆菌だ。
「これは“目に見えない働き手”。土をやわらかくし、芽を助けてくれる」
さらに、乳酸発酵の技術も応用し、食物残渣を使って培養液を作った。日陰に壺を並べ、発酵させるその光景は、村人にはまるで魔法のように映った。
ひと月後。
土の中から、小さな緑の芽が顔を出した。
葉が広がり、茎が伸びる。雨が降らなくても、溝から水が届く。納豆と乳酸の混合液を根元に撒くと、葉の色艶が増し、虫の被害も減った。
ある日、村の少女が歓声をあげた。
「見て! こんなに太った実が……!」
ルナが手に取る。それは、きちんと“育てられた”食べ物だった。
歓声が広がる。火を囲んで踊るように、村人たちはその収穫を見つめた。
その晩、ルナは記録板にこう刻んだ。
火が闇を照らすように、
土は命を育てる。
翌朝、村の入り口に新しい板が立った。
この谷は、狩るだけの村ではない。
土が育てる村である。
かつての“飢えの谷”は、変わり始めていた。
狩りと狩りの間、手を動かせるようになった村人たちは、初めて「自分たちの手で未来を耕す」という実感を手にしたのだった。