第2話『知の芽、芽吹く村の教室』
――灰牙の谷に、ひとつの教室ができた。
それは木の枝と蔓を組んだだけの粗末な屋根と、石を並べただけの丸い床。けれど、その真ん中に立つルナの声は、まっすぐに響いた。
「これは“知る”ための場所。学べば、もっと楽に暮らせる。もっと遠くを見られる」
子どもたちが不安そうに顔を見合わせる。手には、木炭と木の板。ルナが用意した、簡易な“筆記具”だ。
まずは形から。円、三角、四角。村には文字も数もない。けれど、目のいい獣人の子どもたちは、模倣に長けていた。書くという行為を楽しんでいる。
「それは“まる”。これは“三つのかど”。名前をつけると、覚えやすくなる」
ルナはそう言いながら、記号と音の対応を少しずつ示していく。これは“木”、これは“水”。やがて、それが名前になり、やりとりになり、言葉になる。
子どもたちの目が輝いた。
それを遠巻きに見ていたのは、大人たちだった。狩りや木工に出ていた手を休め、集まるようにして見つめている。ルナはその気配に気づき、そっと声の調子を変える。
「知識は火と同じです。一人が持てば、闇を照らせる。でも、皆が持てば――夜を越えられる」
その言葉に、ざわりと風が吹いたような空気が生まれた。
「知ることが、生き延びる力になるんか……」
ぽつりと呟いたのは、村の古老・ヤファだった。灰のように色の薄い毛並みを風に揺らし、しばし目を閉じる。
「思い出すな。昔話に、こんなのがあった……」
火を奪った狼の神の話。空の彼方、雷の主から炎を盗み、それを牙に宿した狼がいた。最初は村人たちに恐れられたが、やがてその火が夜を照らし、寒さを凌ぎ、命を救ったという。
「お前さん……あの狼に似てるな。知の火を持って、この村に降りてきたんじゃねえか」
どこからともなく、子どもが囁いた。
「……火の狼、だ」
その言葉が、まるで合図のように広がっていく。最初は冗談だったかもしれない。けれど、次第に敬意が混じっていった。ルナはそれを止めようとはしなかった。
必要だった。象徴が。名が。
教室は、次第に教える場から、語り合う場へと変わっていった。
狩りのあとに疲れた体でやってくる若者たち。夜の火のまわりで、文字を覚えようとする母親たち。言葉が生まれ、記録が残り、数が意味を持ち始める。
数日後、ルナは黒い木炭で一枚の板に文字を刻んだ。
火の狼の教え
――ここに知を学ぶ者、集え。
それが、灰牙の谷最初の“看板”になった。
知はまだ、火種にすぎない。けれど、それを囲む者がいる。火はやがて、灯になるだろう。
そう信じて、ルナはまた一つ、記号を書きつける。
村の未来は、学びの上に築かれる。