薬草採取依頼でシェイドの新能力
──そして翌朝。
クオンがギルドの扉を開けると、朝の活気が一気に押し寄せてきた。
依頼を求める冒険者たちで、内部はすでにざわついている。
受付前には列ができ、仲間同士で賑やかに話す声が飛び交っていた。
それでも、差し込む朝陽は変わらず静かに、木の床へ斜めの光の帯を落としている。
クオンはその光を踏みながら、そっと奥のカウンターへ向かった。
肩の上では、うさぎ耳に羊角、猫のしっぽを揺らす小動物――シェイドが、眠そうに欠伸をしている。
「おはようございます……あれ? そういえば、お姉さんの名前、まだ聞いてなかった気がする」
その声に、帳簿をめくっていた受付嬢が顔を上げた。
周囲の混雑とは裏腹に、彼女の前には不思議と余白があった。
どうやら、列の応対は他の受付が引き受けているらしい。
一瞬、彼女――エリシアの目に戸惑いが浮かんだが、すぐにやわらかな笑みに変わった。
「……あら、おはようございます、クオンくん。そうね、私も自己紹介を忘れていたわ。私はエリシアよ」
「エリシアさん、だね。改めて、よろしくお願いします」
クオンが笑顔で言うと、エリシアも静かに頷いた。
「今日は、また薬草採取のご依頼かしら?」
「うん。できれば昨日と同じ場所で。ああいう静かなとこ、好きなんだ」
無邪気に笑うクオン。
その表情には、昨日の“あれ”を感じさせる気配はまるでなかった。
エリシアは短く息を吐き、手元の書類に目を落とす。
指先が、ほんの少しだけぎこちなく動く。
「ええ、大丈夫よ。前回の実績もあるし、同じ場所で問題ないわ。
……でも、今後も無理のない行動を心がけてね。ギルドとしても、異常や事故には十分注意を払わなきゃいけないから」
「うん、大丈夫。なるべく静かに、スライムにも見つからないように動くよ」
そう言って、クオンは視線を肩の上へと落とした。
シェイドは「ふにゃ」とかすれた鳴き声を漏らし、クオンの頬に顔をこすりつける。
その愛らしい仕草に、エリシアの表情も自然と和らいだ。
「……あなた、本当に年相応じゃないのね。しっかりしてるっていうか……不思議な子」
「え? そうかな?」
「ふふ、いい意味よ。頼りになるってこと」
そう言って、エリシアは用意した依頼書を差し出した。
「はい、これが依頼内容。薬草の種類と採取場所が書いてあるから、気をつけて行ってらっしゃい」
「ありがと、エリシアさん」
クオンは丁寧に受け取り、にこりと微笑んだ。
彼の背に、朝の光が柔らかく降り注ぐ。
だが、その足元に落ちる影の奥――
そこから微かに漂う、冷たい気配に。
エリシアは気づきながらも、あえて目を逸らした。
それでも、ふと心の内に疑問が芽生える。
(……本当に、ただの薬草採取で済むのかしら)
賑わう朝のギルドの中。
彼女は、クオンの背をそっと見送った。
森はまだ朝の名残を宿していた。
葉の隙間からこぼれる陽光が、湿った土と淡く混じり合い、柔らかな光の帯となって地面に広がっている。
クオンはゆるやかな斜面を下りながら、目当ての薬草を探していた。
その足取りは慎重で、背の低い草を踏まぬよう気を配りつつ、時折立ち止まって周囲の様子を確かめている。
「この辺、昨日と同じ……たしか、このあたりに“セリオン草”が――」
しゃがみ込み、苔のついた岩陰に手を伸ばす。白斑入りの葉、先の尖った輪郭。特徴は合っている。
「これ、だよね。シェイド?」
そう問いかけて、肩の上に視線を向けた――が、そこには誰もいなかった。
「……え?」
不意に軽くなった肩。
思わず周囲を見回すと、シェイドはすでに地面へ降りていた。ふわりと落ちた小さな体は、すぐそばの影に近づき――
次の瞬間、すっとそのまま、影の中に沈み込んだ。
「――なっ……!?」
クオンは目を見開いた。
シェイドの姿は、まるで水に落ちた石のように、音もなく影へと消えていた。
足元にはただ揺らぐだけの木陰。そこに、確かに“潜った”のだ。
「い、今の……なに……? 影の中に……?」
声に出してはみたが、返事はない。
夢のような現実に、頭が追いつかない――けれど、それどころじゃなかった。
ふと、周囲の気配に違和感を覚える。
風の音はある。木々のざわめきもある。なのに、森の「声」が、どこか遠い。
(……鳥の鳴き声が、聞こえない)
静寂に包まれた森の中、何かが息を潜めている。
クオンは布袋の口をそっと閉じ、背筋を伸ばしたまま目だけを動かす。
木立の奥、淡い光の届かない場所に“それ”は静かに佇んでいた。
ねっとりとした質感のそれが、木の根元に貼りついて、こちらを伺っている。
スライム、だ。
だが、昨日見たものよりもずっとじっとしている。こちらを試すように、動かず、観察しているような――
「……スライムって、こんなふうに“見る”ものだっけ」
乾いた息が漏れる。
さっきまでの驚きと混乱は、今や鋭い緊張へと切り替わっていた。
クオンの指先が、小型ナイフの柄へ自然と添えられる。
そしてその足元――影の奥から、ぴくりと揺れる“気配”。
シェイドがそこにいると、なぜか確信できた。
クオンは、ほんの少しだけ口角を引き上げた。
「……なんでもあり、か。頼りにしてるよ、シェイド」
木々の隙間で、スライムが、ゆっくりと動き出す。
次の瞬間に備えて、クオンもまた静かに構えを取った。
スライムのぬめりとした体が、じわり、じわりと木の根元から這い出してくる。
形はぼやけていて、一見すればただの塊。だが、その中に微かな光――核が沈んでいるのが見えた。
「やっぱり……魔核持ち」
クオンはナイフを引き抜き、足を半歩引いて姿勢を低くする。
その刹那。
スライムの表面がぴくりと震えた。
続けて、何かに反応するように身を翻す――それは、スライムにとって“真後ろ”の位置だった。
「……今、動いた?」
クオンの視線がそこに追いつくより早く、木の根元の影がふっと歪んだ。
そして、わずかに地面の影が延びる。
“シェイドだ”
影の中をすり抜けたシェイドは、スライムの核から遠ざかるように背後へと姿を現し、すぐにまた影へと沈んだ。
その動きは静かで、だが確実にスライムの注意を逸らしていた。
「牽制してくれてる……のか?」
スライムは核を守るように、体を揺らしながら回転する。だが、背後からちらつく気配が絶えず揺さぶりをかけ、動きに乱れが生じ始める。
「シェイド……これって、連携ってやつ?」
問いかけは虚空に向けたものだったが、足元の影がかすかに揺れた。まるで答えるように。
「そっちが引きつけてくれるなら……こっちは正面から!」
クオンは森の土を蹴り、踏み込んだ。
その一歩に応じるように、影がスライムの側面へとするりと伸び、シェイドがふっと浮かび上がる。耳としっぽが一瞬だけ見えたかと思えば、すぐにまた沈み、スライムの動きを一瞬止める。
チャンスは一瞬。
「っ、そこ!」
クオンのナイフがスライムへ向けて振り下ろされ――だが、その刃先は寸前でぴたりと止まった。
止めた、わけじゃない。なのに、刃先が動かない。
そしてその刹那――
黒い糸が、彼の手からするりと伸び、ナイフを飛び越えてスライムへと奔った。
細く、鋭く、静かに――まるで獲物を探す蜘蛛の足のように、滑るように這い寄っていく。
「……また、これ……!」
クオンの目が見開かれる。
糸は、スライムの表面に触れた瞬間、ぴたりと密着し、そこからじわりと、黒い染みのように広がっていく。
スライムが身をよじり、暴れる。だが、影からの牽制に意識を割かれたその一瞬の隙が命取りだった。
核を飲み込まれたスライムは、最後にひとつ波紋のように揺れたあと、力を失って崩れ落ちる。
クオンはゆっくりと手を下ろした。ナイフは使われることなく、手の中で静かに収まっていた。
「……ありがとう、シェイド。助かった」
返事はなかったが、影がふわりと揺れ、足首に軽く触れる。まるで“よくやった”と告げるように。