情緒不安定
フローライト第百七話
暮れも差し迫ったある日、美園が帰宅すると朔が自分のアトリエでぼんやりとしていた。「朔」と美園が声をかけると朔は美園の方を振り向いた。
「もう遅いけど、ご飯どうしたの?」
「食べてない・・・」
「そう。じゃあ、食べようよ。買って来たから」
「ん・・・あんまり食べたくない・・・」
朔がだるそうに言う。
「ダメだよ、食べない、寝ないじゃ参っちゃうから」
そう言うと渋々朔が立ち上がった。
リビングでテレビを見ながら一緒に買って来た惣菜を食べていると、テレビの画面に美園が映った。
(あ・・・)と思う。
そうだ、これって今日だったっけ?
チャンネルを変えようとしたら朔が「何で変えるの?」と言う。
「見たくないから」
「俺、見たい」
「・・・・・・」
(ま、いいか)と美園はそのまま惣菜を口に入れた。
それはある種のバラエティー番組で、美園がゲストで料理を振る舞うという企画だった。しかもそれは晴翔の番組だった。
「以前に料理にハマってると言っていた天城美園ちゃんを今日はまたお呼びしました」と明るい晴翔の声が響く。
「美園、料理にハマってたっけ?」
出来合いの惣菜を口に入れながら朔が不思議そうに言う。
「あー番組の企画なんだよ」
「そうなんだ・・・」と朔がテレビに見入っている。
「今日は何作ってくれますか?」と晴翔が言う。
「野菜炒め」と美園が言うと「あ、そうなの?てっきり卵焼きかと・・・」と晴翔が少しおどけて言うのに対して「違いますよ」と少し唇を尖らせて晴翔の腕を叩いている。
(・・・何か・・・マズいかな・・・)
チラッと見ると、朔がじっとテレビを見つめていた。
料理が出来上がるまでところどころで晴翔とふざけ合っている。一見すると、二人はとても仲良く見えた。
「アハハ・・・晴翔さん、それないから」とかなり作った自分の声に自分で恥ずかしくなってくる。
「朔、やっぱり変える」と美園はリモコンでチャンネルを変えた。
「・・・晴翔って・・・」と急に朔が言う。視線はまだテレビの画面だ。
「晴翔って・・・美園の元カレだよね?」
(え?)と思って朔の顔を見た。
「昔・・・晴翔って俺のこと呼んだよね・・・」
(あ・・・)と思い出す。高校の頃、朔と初めてセックスをした時、あの時は晴翔に振られたばかりでまだ思いが残っていた。それで無意識にその最中に「晴翔さん」と呼んでしまってたのだ。そのことを朔はまだ覚えていたのだった。
「この人・・・奏空さんのグループの○○〇の人だよね?」
「そうだね」となるべく関心ないように聞こえるように言った。
「そうだったんだ・・・彼氏ってこの人だったんだ・・・」
朔が納得したような声を出している。
「もう昔のことだよ」
「でも、今も一緒にいるよね」と朔が言う。
「これね、ただの番組の企画なんだよ。晴翔さんとはもう何にもないし」
「・・・でも、美園、楽しそうだし・・・」
「朔?これは完全に作ってるの。楽しそうにしないとダメでしょ?」
「・・・・・・」
朔は黙り込んでいる。それから箸を置いて「ごちそうさま」と言った。
「もう食べないの?」
まだだいぶ惣菜は残っていた。けれど朔は何も言わずにアトリエの方に行ってしまった。
(あー失敗。テレビつけなきゃ良かった・・・)
食事を済まして後片付けをした後に、アトリエのドアを開けてみた。朔は床に横向きで寝ころんでいた。
「朔、お風呂入る?」
美園が聞いても返事がない。
「朔」と美園が朔のそばまで行ってからその顔を覗き込むと、朔が美園から顔を背けた。
「朔、さっきの気にしてる?ほんとに晴翔さんはもう関係ないんだよ」
「・・・・・・」
「だから気にしないでよ」
「・・・あの人、何で美園のこと振ったの?確か振られたって言ってたよね?」
朔が横になったまま言った。
「うん、そうだよ。振られたの。晴翔さんは前の彼女が好きなのよ。その人とやっぱりよりを戻すからって」
「そうなんだ・・・じゃあ、今はその彼女といるの?」
「さあ?私もよく知らないよ」
「美園が好きだってこと・・・ある?」
「晴翔さんが?」
「そう・・・」
「ないよ、それは」
「・・・そうかな・・・」
「もう、昔のことなんだから焼きもち焼かないで。今は朔が私の彼氏だよ」
「・・・・・・」
「お風呂入る?どうする?」
「・・・・・・」
「朔ってば」と朔の腕を引っ張った。
「あんなにかっこいい人なら、美園も好きになるよね」
「好きじゃないから」
「・・・・・・」
「朔?いちいち他人と自分を比べないで。落ち込むためにわざわざ他人と自分を比べるなんて時間の無駄だよ」
「比べる価値も自分にはないよ・・・」
(あー・・・ダメだ、これは)とすっかりいじけてしまった朔を見つめる。
美園はいじけている朔をそのままに部屋から出て行って浴室に行った。お湯を出してからまたアトリエに戻ると朔が起き上がって自分の絵を見つめていた。
「朔、お風呂入れたから一緒に入・・・」と言いかけた途端、朔が自分の絵が描かれているキャンバスにカッターナイフを突き立てたので、美園はびっくりして息を飲んだ。朔がザクザクとキャンバスを切り裂いて絵をバラバラにしている。
「朔!」と美園は朔の腕をつかんだが、朔は動きを止めない。
「朔!どうしたの?何でせっかく描いたのに破っちゃうのよ?」
「全然良くないから!」と朔が言う。
── 落ち着いてないと描いた絵を破 ったり・・・。
いつかの黎花の言葉を思い出す。美園が朔の腕をおさえても朔はそのままカッターナイフをキャンバスに向けた。まるで自分の心を切り裂くかのように・・・。
美園は朔の前に回って腕ではなく、カッターナイフを握っている手をつかんだ。
「もうやめて」
それでも朔がカッターナイフを離さずに、キャンバスに突きつけようとしたので美園は両手で朔の手を握った。
「やめて!絵が可哀そう」
美園がそう言うと、ようやく朔が腕の力を抜いた。美園がすかさずカッターナイフを奪ってその刃を収めた。
「美園・・・」と朔が胸に抱きついてきて泣き出した。どうやらかなり情緒不安定のようだった。
美園は泣いている朔の背中を撫でた。
── 小さな赤ちゃんだと思ってあげて・・・。
また黎花の言葉を思い出した。
しばらくそうやって撫でていると朔が顔を上げた。
「・・・美園・・・お風呂は?」
「もうお湯入れたよ。きっととっくに溜まってる」
「じゃあ、入ろう」と朔が言ったので、美園は少しホッとした。
お風呂に一緒に入ると、どうやら少し落ち着いたようで「さっきはごめんね」と朔が謝ってきた。
「いいよ。大丈夫」と美園は朔を安心させようと笑顔を作った。
夜、先に寝てしまった朔の寝顔を見ながら、やはり自分には荷が重いのでは・・・と感じていた。
── 持て余したら・・・。
(そんなんじゃない・・・)
黎花の言葉を思い出すと、やっぱりそう思う。
(朔は前とは違う・・・お母さんが自殺って・・・余程のことなんだ・・・)
でもこれはまた奏空の力が必要かも・・・と、美園は朔の寝顔を見つめながら思っていた。