第七話 出立日和は喧嘩日和
父の葬儀の翌朝。まだ鶏も鳴かぬ頃。
夜の静けさと、朝の賑やかさの狭間のまどろみに、桃次郎が足を踏み出した。
雨上がりのぬかるんだ土が草鞋を引き留めようとするのを強く蹴って払う。
湖に続く道を進もうとしたそのとき。
「桃次郎」
後ろから呼ばれ、ぎくりと振り返った。門柱の陰に立っていたのは兄の太郎。
「どこにいくんだ?」
穏やかに尋ねられると、弟はいたずらが見つかった子供のように目を伏せた。
手にした木刀を固く握り締める。
顔を上げ、毅然とした態度で、
「おれはこれから鬼退治に行ってくる」
できるだけさりげなく言おうとしたが、今生の別れを告げるみたいな哀切の響きとなった。
聞いた兄は「そうか」と頷き、歩いてくると、桃次郎を追い抜き、先へ。
「どこにいくんだ?」
今度は桃次郎が尋ねる。
兄はさも当然のように、
「鬼ヶ島」
「ばかな」
「ばか?」
「兄ちゃんはばかだ」
桃次郎が繰り返すと、太郎はずかずかと弟の前にやってきて、細っちょろい指を分厚い胸板に突きつけた。
「ぼくがばかなら、桃次郎もばかだ。ばか兄弟だ。そんな木刀一本で、鬼を退治するつもりか?」
桃次郎は普段着のままに、武器はといえば木切れ一本。これから鬼を退治しようという者のいでたちではない。せいぜい、剣術道場の腕白小僧といったところ。
弟が木刀を持つ姿に、太郎はかすかな懐かしさを覚える。
昔、太郎と桃次郎はとある剣術道場の門下生だった。
太郎は病みがちな体を鍛えるために。桃次郎は持て余しがちな怪力を律することができるように。と、父が通わせたのだ。
物覚えがいい太郎は、人の二倍も三倍も早く型を習得する優等生。なのだが、いかんせん体力がない。師範は、太郎の体が丈夫でさえあれば稀代の剣豪になれたやもしれぬのに、と事あるごとに嘆いていた。
対して、桃次郎は人の二倍も三倍も体が丈夫で、三日三晩でも木刀を振り続けらるほどに体力が有り余っていた。けれども、型が身に着かない。感覚で戦ってしまう。剣術というのはそれではいけない。
師範はどうにか桃次郎に型を覚えさせようと苦心した。太郎も教え、時間をかけて、形になろうとしていた矢先の出来事。
桃次郎が喧嘩の仲裁で木刀をふるい、相手に怪我をさせてしまった。
まだ、ずっと小さな子供だった頃。喧嘩をしていたのは、酔っぱらった大人たちであった。物を壊し、付近の人々は怯えていた。はじめは素手でことを収めようとしていた桃次郎だったが、いかんせん対格差が激しい。そして、前後を忘れた者というのは質が悪い。携えていた木刀をやむなく抜くと、大人ふたりを昏倒させることになった。
桃次郎は破門。
師範は事情を承知してくれてはいたが、それでも暴力沙汰を起こした者が門下生にいるというのは体裁が悪すぎる。なまじ貧乏道場なだけに、世間の風当たりを気にしないわけにはいかぬ。桃次郎もそれがわかっていたので、自ら道場を出ていった。
そして、太郎も道場をやめた。
桃次郎が喧嘩の仲裁をしていたその場に、太郎はいた。道場からふたりで帰る途中だったのだ。
弟がそんなふうに正義感をふりかざすのはよくあること。腕っぷしの強さは大人顔負け。なにも心配はしていなかった。そんな怠惰な信頼を、後でたっぷりと後悔した。
考える前に動く桃次郎とは対照的に、太郎は考えて動かないことがままあった。
自分の助勢など、弟の邪魔にしかならないと思っていた。
しかし、なにかするべきだった。
そうすれば、少なくとも後悔はせずにいられた。
この事件は、太郎の心に疑念の種を植えつけた。
喧嘩の仲裁だったから、この程度で済んだが、もっと、もっと、大きな事態……そこへ桃次郎が飛び込もうとしたとき、傍観者でいることで、いつか自分は弟を見殺しにするかもしれない。
そんな想像に、太郎は苛まれた。
耐え難い。兄として、家族として、許されざること。
――だから、桃次郎が鬼ヶ島へ行くなら、自分も行く。
鬼退治をするというのなら、足手まといであろうとも共に戦う。
太郎はそのように決めてしまっている。
桃次郎は手にした木刀を太郎の目の前に掲げてみせた。
灰褐色のつややかな表面。研ぎ澄まされた刃にも似た風合いだが、所詮はただの木。金属の刃にはかなうべくもないはず。しかし、どこか異様な雰囲気もある。曰くありげな一品ではあった。
「これはただの木刀じゃない。霊木刀なんだよ兄ちゃん」
「なんだそれは?」
心底困惑している兄にも構わずに、
「見てな」
桃次郎は道端に生える背の高い山茶花の前に立つと、霊木刀を振りぬいた。すると、人の腕ほどもある太い枝の一本がスパリと幹から離れて、ドスンと地面に落ちたではないか。
「ほう……!」
太郎は寄って切断面を確かめる。折ったのではなく、斬っている。木刀でこのような芸当が可能というのは面妖であり、条理に反しているが、この目でしかと見てしまったからには認めざるをえない。
霊木刀を確認させてもらうが、ただの木だ。なかに鉄心が入っているわけでもない。刃の鋭さも、普通の木刀の範疇。指でなぞってみても斬れたりはしなかった。
「人は斬れないのだそうだ。これはあくまで退魔の道具だから」
と、桃次郎は言って、霊木刀を引っ込めると、帯に差して、腰に提げた。
そうして、訥々と昨晩のことを兄に話して聞かせた。
夜も更けた頃の来客。
あれは、藩主からの使い。普請奉行その人。
夢の宣託が再びあった。
藩主の命で、御殿の庭に生える楡の大木が伐り倒されると、刀剣の如き形状の芯があらわれた。
それこそがこの霊木刀。
山神の神秘の力が宿った道具。
鬼を退治するべく賜った武器。
「普請奉行様が直々に……しかし、なぜその退魔の道具がうちに届けられることになったのだ?」
理由は半ば理解していたが、太郎は気づかぬふりをして疑問を投げかけた。
「わかっているんじゃあないのか、兄ちゃん」
「なんのことだ」あくまでもとぼける。
「相応しい者に使わせるためだよ。山神様の縁者であるおれにな。普請奉行様が仰っていた。おれは山より川を流れてきた桃から生まれたんだってな。山神様の子、御遣いなんだと」
普請奉行は父の上役。桃次郎の出生の秘密について、父は周囲に悟られぬようにしていたが、生真面目さ故に、御奉行にだけは黙っていることができなかったのだろう。
ついに知ってしまったか、と、うなだれる兄の前で、桃次郎は山を振り仰ぐ。
「おれは鬼退治をせねばならん」
宣言したそのとき、屋敷の門をぬらりと潜って、三人衆が顔を出した。猿田彦。足往。天稚彦。
「その話は本当か?」
猿田彦が半信半疑というふうに方眉を吊り上げる。
「桃から生まれたおれにはへそがないんだ。見せてやろうか?」
帯を解こうとする桃次郎を、足往が止める。
「やめておくれ。あんたの腹なんて見たくもない。変な腹は猿兄のでべそで見飽きてるよ」
霊木刀で両断された枝を確認していた天稚彦が顔を上げて、
「鬼を倒せるのか?」
「当たり前だ。おれは、そのために生まれたんだろうからな」
「違うぞ桃次郎。おまえはぼくたち家族の……」
「違わない」
かぶせるように言って、もう一度霊木刀を抜くと、さらに枝を斬ってみせた。
鬼の首ですら、わけなく切断できそうな切れ味と手さばき。
「猿兄」と、天稚彦が「こいつにおいらたちの舟を貸してやったらどうかな。鬼ヶ島に乗り込むんなら舟が必要だろ?」
「それはかまわんが……」
猿田彦は毛むくじゃらの腕で顎を撫でながら太郎と桃次郎を見比べる。なにやら逡巡している赤ら顔の大男の陰から、足往が身を乗り出して、
「ならあたしが船頭の役を買って出てやろう。複雑な湖の水流について知っている者がいないと、とてもじゃないけどあの島へは辿り着けないからね」
「いいのかあんたら」桃次郎は不思議そうな顔をして「昨日は散々山神様のことを虚仮にしていたのに、その子供であるおれに力を貸すのか」
「利用できるものは利用する。湖の民は好機を決して逃さず、俊敏に食らいつく」
と、天稚彦がくちばしみたいな高い鼻を天に尖らせる。
「御大層なことだが、他人任せにしようってだけだろ」
「なんとでも言えばいいさ。で、どうする?」
「……利用できるものは利用する。おれだって」
「じゃあ。決まりだね」
とんとん拍子で話を進める桃次郎と天稚彦。そのあいだに、太郎が割って入り、弟と向かい合った。
「止めても無駄だよ、兄ちゃん」
「止めはせん。だが、言っただろ。ぼくも一緒に鬼ヶ島に行く」
太郎の腰には刀が一本提げられている。父が遺した脇差。もう一本の本差は、鬼を斬ったことで刃こぼれしていて、使い物にならなくなっていた。
「死にに行くようなものだ」
はねのける桃次郎に、兄は一歩も引かずに、
「それはおまえにも言えることだろう?」
「おれは違う。山神の……子だから……」
「おまえは父上と母上の子だ。ぼくと同じ。だから、なにも変わらない」
「もし兄ちゃんが死んじゃったら、母ちゃんはどうなる? ひとりぼっちになっちゃうんだぞ」
話し込んでいるあいだにも陽が昇りはじめている。鶏が鳴いたが、母はまだ寝ているらしい。昨日のことで相当に疲れているだろうから無理もない。
猿田彦たち三人衆は兄弟喧嘩を止めるべきかどうか顔を見合わせて、とりあえずのところは口出しせずに、本人たちに結論を任せることにした。
「ぼくが死んだら、おまえが母上を支えるんだ」と、太郎。
「おれは……」桃次郎は言葉に詰まる。
「帰ってこないつもりなのか?」
「そうじゃないけど……」
使命を果たしたら、自分がどうなるのか、桃次郎にはなにもわからない。人として生きられる保障すらないのだ。役目を終えたら桃の実に戻って、そのまま腐って死んでしまうのかもしれない。
「きちんと帰ってくるつもりなら問題あるまい。おまえは強い。退魔の道具だってある。鬼をすべて倒し、必ずや生き残るだろう」
「そうさおれは強い。ひとりで十分。だから兄ちゃんなんて必要ない。くるなよ」
「いいや。ぼくはひとりでも鬼ヶ島へ行く。泳いででも向かう」
「なんでそこまで……」
あまりの強情っぷりに嘆息する桃次郎に、兄は己の後悔を語った。桃次郎だけを行かせまいというのとは別の、鬼退治に意気込む理由。
「……卵団子だ」
「え……? そういえば、昨日、父ちゃんが……」
三人衆が拾ってきてくれた父の風呂敷に、隣村の菓子屋で買った卵団子の包みがあった。
「ぼくが卵団子を食べたいなどと言わなければ、父上が菓子屋に寄ることはなく、鬼に出会わなかったかもしれない。生きていたかもしれない」
そのことが、太郎の心にはずっと引っかかっていた。
「兄ちゃんのせいじゃない」
「そうかもしれん。だが、ぼくと鬼のあいだにはすでに因縁の糸が固く結ばれてしまった。そこから目を背けたとしても、向こうが動けば振り回される。不離一体の関係だ。断ち斬らねばならん」
太郎は血を吐き出すように言う。
「……父上の……仇が討ちたいんだ」
――仇。
桃次郎には痛いほど兄の気持ちがわかった。桃次郎も、山神がどうであるとか、自分がその子供なのだとか、そんなことは実はどうでもよかった。そう言ったほうが兄を巻き込まないで済むだろうと考えたから、都合よく使ったに過ぎない。本当は、ただ鬼が憎い。父を無残に殺した鬼を、のさばらせておくことはできない。仇を討ちたい。気持ちは同じだ。
ここで兄を置いていけば、兄に、そして自分自身にも、一生消えないしこりが残る。そんな予感がひしひしとしていた。
霊木刀の柄を握る。これがあれば、鬼を屠り、殲滅すると同時に、兄を守り切ることだってできる。してみせる。その自信はあった。
ついには桃次郎が折れた。
重たいものを呑み込むみたいに、首をこくりと縦に振る。
「決まったか?」
話がまとまるのを辛抱強く待っていた猿田彦が声をかける。
「ああ。あんたらの舟の乗客がひとり増えるがいいか?」
「十人だろうと二十人だろうと乗れる舟だ。かまわんよ」
「あたしは反対だ」
ここにきて足往が混ぜっ返す。
「餓鬼のお守りはひとりで十分だ。色白坊やは足手まといだ」
「ぼくは太郎です。足往さん」
「そうかい、太郎。仮にも兄なら、弟の邪魔になるようなことはしないほうがいいんじゃないのかい。でないと……死ぬよ」
「仮ではなく、ぼくは兄です。一通りの剣術は学んでいますから、決して邪魔にはなりません。弟を助けるのが、兄としての義務なのです。それに、これはぼく自身のためでもある」
道場をやめてからも、屋敷の庭などで訓練は続けていた。それでも、なぜか体力はからっきし。あまり力がついた気はしないが、そこは生まれ持ったものとして、受け入れるしかないのだろう。
「犬姉」天稚彦が姉の肩に手を置いて「野暮なことは言いっこなしにしよう」
「……死んだら意味ないよ」
足往はつぶやいたが、あまりにも強い太郎の眼差しに、ふつりと口を閉ざした。
かくして、遂に桃次郎と太郎は鬼ヶ島に鬼退治へと向かうことになった。
いよいよ出立、というときに、桃次郎の腹がぐうと鳴く。
「兄ちゃんが長話をするから腹が減っちゃったよ」
「ぼくが行くというのを桃次郎がすぐに認めれば長話にはならなかったのだぞ」
「はいはい。なんか食うもの残ってるかな」
屋敷に引き返した桃次郎は、しばらくして包みを持って戻ってきた。
それを見た太郎が苦い吐息をこぼす。
「卵団子か……」
「食べていこうぜ。前祝いだ」
「なんだいそれ?」
天稚彦が鼻を突き出し、覗き込む。
「うまいんだぜ。隣村の菓子屋で売ってる卵団子。母ちゃんが大好きなんだこれ。溶けてなきゃいいんだけど」
「団子が溶けるか?」
足往は怪訝にしていたが、箱の中身を見て、得心がいったふうに頷く。
「へえ。飴玉みたいだ」
「足往さんも、皆さんもどうぞ」
太郎が配ると、それぞれ手に取り、物珍しそうに眺める。鶉の卵ぐらいの大きさをした飴色の塊。太陽に翳すと、なかに詰まった黄金色の餡が透けて見えた。
口に入れて、パリッと噛むと、トロッと中身がこぼれ出した。口当たりのいい餡は、とろけるような甘さで、飴色の殻のほろ苦さと相まって、舌の上に極楽浄土が広がる。
「ほあっ……!」
足往は言葉にならない声を出して、
「もう一個。もう一個、食べてもいいかい?」
「こら犬子。意地汚いぞ」
「でも猿兄。これうまいよ。あまーい。ねえ雉彦」
「そうだね犬姉。おいしい」
「酒が欲しくなるな」団子を齧った猿田彦が言うと、
「やめなよ。猿兄はすぐ酔っぱらうんだから。昨日の夕餉に酒が出たから、あたしはヒヤヒヤしてたんだよ。お通夜があったばかりだっていうのに、裸踊りをおっぱじめるんじゃないかって」
「ふっ。おれさまの裸踊りは妻に比べればまだまだだからな、きちんとした作法のものならお天道様でさえ……」
「そういうこと言っているんじゃないんだよ。アホ夫婦がそろってなにやってるんだか。朝っぱらからいかがわしい話はやめておくれ」
「いや、しかし、これは犬子が……」
「いまのは猿兄が悪いよ」
「雉彦。なにを言うか」
三人衆の騒がしさに太郎は笑って、
「十二個入ですから、ひとり二個ずつにしましょうか。ぼくら五人と、母上の分で丁度になります」
「ちぇっ。四人家族で三つずつがうちの定番だったのに」桃次郎が口を尖らせる。
「いいじゃないか桃次郎。ささやかながら、舟をお借りするお礼だ。そんなに腹が減っているのなら、ぼくの分を食べるか?」
「いらない」
自分の分をさっと口に放り込む。一個目は噛んだので、二個目は噛まずに舌の上で舐め溶かして、ゆっくりと味わう。
五人で二個ずつ卵団子を分け合って、残った二個が入った箱を、太郎が母の部屋の前に置いてくる。書置きも添えておいた。
今度こそ、本当に出立。
「母上はまだ寝ていたよ」
「寝坊だな。いつものことだ」
「寝顔を見てからいくか?」
「よせやい。決心が鈍っちまう」
桃次郎は振り返って、準備万端の様子の三人衆に呼びかけた。
「いくぞ、猿、犬、雉」
「おい。なんだその呼び方は」猿田彦が顔をしかめる。
「だってあんたら、そう呼び合ってるじゃないか」
「猿彦、犬子、雉彦というのは本名だ。親しいものしか呼ばん」
「そっちが本名なのですか?」太郎が驚く「幼名でもなく? では猿田彦というのは、渾名というか、通り名ということですか」
「そうだ。湖の民としてのだな……」
と、講釈がはじまりそうになったのを遮って、
「大げさすぎるや。仰々しいよ。猿、犬、雉がちょうどいい」
ばっさりと言われてしまい、猿田彦は鼻白む。
困惑げな表情の天稚彦が、爪先で頬をかきながら、
「じゃあ、おいらはあんたのことを桃って呼ぶけどいいのかよ」
「別にいいぞ」
「桃」
「雉」
「なんだよ」
「そっちこそなんだ」
睨めっこして、ぷい、と逸らす。
桃次郎が歩き出すと、太郎、それから猿彦、犬子、雉彦の三人衆が続いた。
五人の草鞋が土を踏む。朝靄は晴れ、空に雲はない。湿った道も乾きはじめて、風に導かれるままに、勇ましい心が五つ、鬼を討つべく、葦原を越えた先、湖に浮かぶ鬼ヶ島を目指すのであった。