第六話 雨は天の嘆きか地の喜びか
父の葬儀はその日のうちに速やかに執りおこなわれた。
聞きつけた近所の人たちが屋敷の門前に集まって、追悼を願い出たが、神主に追い返された。鬼に殺された父がその身に受けた瘴気が広まるのを危惧したのだ。
蔵にあった木切れで、桃次郎と猿田彦が間に合わせの柩を作った。その際、足往が持っていた切れ味のいい大鋸がおおいに役立った。
損傷が激しかった父の亡骸も、母に清められ、体と顔を布で隠されると、血にまみれた陰惨さはなりを潜めた。
このときになって太郎はやっと父の死を実感し、瞳には大粒の涙が溢れた。
祈祷で鬼の瘴気が祓われると、粛々と儀式が進められ、宵の内には終わる。
遺体を墓に納めるのは日を改めてからということになり、神主は帰っていった。
「かたじけない。馳走になるつもりなど、なかったのだが……」
猿田彦が神妙な赤ら顔で、食卓に並べられた遅い夕飯を見つめる。足往は居心地悪そうに畳の端に腰かけて、天稚彦の後ろに隠れた。
「いいんですよ」
母が力なく微笑む。
「うちの人をここまで運んでくださったこと、とても感謝しています。色々と手伝っていただきましたし、これぐらいは当然です。今晩は泊まっていってください。客間はいくらでも余ってますから」
「なら、お言葉に、甘えるとするか……」
歯切れ悪く言い、猿田彦は母の蒼白い顔色を窺うようにしながら箸を手に取る。
すると、しかつめらしい顔をしていた桃次郎が突然。
「母ちゃんの飯を食うなら代金を支払え」
「ほう」赤ら顔に丸い瞳が浮かぶ「銭を要求するのか。別にかまわんぞ。香典代わりだ。だが、いまは手持ちがない。そうだな……貝の装飾品でいいか? 隣藩に持ち込めば、なかなかの値がつく代物だ」
言いながら懐を探る猿田彦に、ぐっ、と手のひらが突き出される。
「そんなものはいらん。話を聞かせろ。それが代金だ。鬼について、おれに教えるんだ。……頼む」
「仇を討とうってわけかい?」
鼻で笑おうとした足往であったが、桃次郎と太郎の兄弟がふたりそろって頭を下げるのを見て口を噤んだ。
「いいだろう」
猿田彦は白米と漬物を大口に頬張って、味噌汁で流し込むと、手酌で酒を猪口に注ぎ、ぐい、と傾けた。
そして、鬼のこと、湖のこと、自分たちのことを語りはじめた。
葦原に囲まれた湖には水神がすんでいる。
現在、鬼たちに占拠されている島は、鬼ヶ島などではなく、水神を祀る祠が建つ神聖なる島。
猿田彦たちの一族は、代々その祠を守っていた。
しかし、いまから二十年近くも前のこと。
増水して荒れ狂った川の流れが、どっ、と湖に押し寄せた。
千々に乱れる湖面の波頭に不穏なものを感じ取った一族の者たちは、祠の様子を確認するため、島へと舟を渡した。
すると、そこでは異形の者たちが跳梁跋扈していたのである。
――鬼。
人のような形なれども、人に非ず。
その体躯は熊よりも巨大。
錆付いた鉄板の如き肌は、秋に色ずく葉のような紅や黄金、若葉のような薄緑、果実のような橙や紫と様々。
頭のてっぺんに生えるのは、鹿や葉脈に似た枝分かれした角。
聖域への闖入者。
排除せねばならぬと、湖の民は戦った。
奮闘するも、鬼は凶悪、狂暴、かつ強力。
返り討ちに遭い、湖の畔にあった集落は壊滅的な打撃を受けた。
当時、少年であった猿田彦は、幼い足往と、生まれたばかりの天稚彦を連れて這う這うの体で逃げた。
両親も、友も、一族の者すべて、三人以外は殺された。
湖の向こう側の、藩領の外にある林の奥の穴ぐらで、獣に混じって暮らした。
路頭に迷った当初は、役人に助けを求めたこともあった。しかし、藩主と湖の民は、藩領のきわにある湖の取り扱いでおおいに揉めた過去があり、湖の民は藩民として認められてはいない。猿田彦たちは捨て置かれたのである。
そうして、生きるだけでも必死というなか、いつか鬼を倒し、一族の誇り、水神の祠を取り戻すそうと、猿田彦は決してめげることなく鍛錬に励んだ。
藩主が送った鬼討伐隊の全滅で、やはり自らの手でやらねばならぬ、と猿田彦はよりいっそう決意を固める。そして、考えた。集められた猛者たちは、さぞかし人殺しの技に長けていたことだろう。けれど、鬼殺しの才はなかったに違いない。そして、その武器も、人殺しの武器ではあったが、鬼殺しの武器ではなかった。
鬼を殲滅するには特別な何かが必要だ。
それを求めて、集落の跡地から、湖の民に伝わる三種の神器、大斧、大鋸、大鋏を回収した。
このみっつは、水神の加護のおかげか、鬼たちに壊されることなく残っていた。
あとは鬼殺しの技を身に着けるのみ。
親の顔を知らずに育った天稚彦は、兄の背中を見て育ち、姉の足往と共に鬼退治の研鑽を積んだ。
天稚彦が十分に育つと、いよいよ三人は動き出す。
鬼の恐ろしさを身をもって知っている猿田彦たちは、鬼を奇襲し、少しずつ数を減らすことに注力。
敵の力を削ぎ、いつか機が熟せば島へと乗り込み、鬼どもを根こそぎ退治する。
そのために、日夜戦い続けているのであった。
「鬼というのは人のように殺せるものなのか?」
聞きながら夕飯を食べ終えた桃次郎が疑問をこぼす。
すると、天稚彦がずずいと膝を寄せて、背に携えていた大鋏を畳の上に置いた。槍を二本組み合わせたような形状。二本の柄を交差させることで、先端にある二枚の薄刃が閉じる仕掛けになっている。ちょっと高いところの枝を切るのに便利そうな鋏だ。
「おいらたちは特別な武器を持っているからね。さっき猿兄が話していた三種の神器のひとつがこれ。普通の刀や槍、もしくは鉄砲を撃ったって、鬼の皮膚に傷を負わすのは難しい。あんたたちの父親は相当に頑張って一体倒したみたいだけれど、ただの刀じゃそれが限界だ」
猿田彦と足往も、それぞれが持っている大斧と大鋸を見せてくれた。いずれも透き通るような質感。白を基調として、蒼や翠や朱が入り混じり、鼈甲や貝を思わせるつやめき。濡れたような輝きに、そっと太郎が触れてみると、実際にそれは湿り気を帯びていた。
「この武器は一体なにから作られているのですか?」
太郎が尋ねると、天稚彦が答える。
「鱗さ」
「というと、魚の?」
「いいや。水神様だ」
「気になっていたのですが、その水神様とは?」
問うと、足往が身を乗り出して、勢い込んで語りはじめた。
「偉大な御方だ。あらゆる水の恵みをあたしらにもたらしてくださる。湖だけじゃない、ここいらで降る雨は、すべて水神様が与えてくれるもの。いま降ってる雨だってそうさ。その御姿は、世にも美しい白よりも透明な肌の大蛇で、湖の底にすんでいらっしゃる」
「大蛇、ということは、これは蛇の鱗……」
太郎は改めて大鋏を眺める。言われてみれば、たしかにそれは蛇の鱗であった。菱形の巨大な鱗を加工して作られているのだ。魚の鱗であれば、もっと丸みがあって、鱗紋という木の年輪のような模様があるはずだが、それがない。するりとしていて、きめ細やか、かつ頑丈。
「年に一度、水神様は脱皮なされて、新たに生まれ変わるんだ。そうして永遠に生き、あたしらを見守ってくださっている。脱ぎ捨てられた古い鱗は湖の底に沈んでいるんだが、時折、水神様の渦に乗って、あたしらに分け与えられる。渦は水神様の象徴。あたしら一族の象徴にもなっている」
腕を上げて、手甲を見せる。優美な曲線を描く渦の紋様。
「湖の蛇って言うと、父ちゃんが湖には蛇の化け物がいるって話していたが……」
と、首を捻る桃次郎の言葉に、足往が顔色を変えた。
「化け物だと!? 水神様になんたることを! そんなんだから、罰が……」
言いさして、ぐっと呑み込む。桃次郎が険しい顔で、
「また父ちゃんを愚弄する気か。今度こそは許さんぞ。鬼は水妖だと藩主様が仰せと聞いた。だったら、水神とやらがその大将ってことになる。鬼は湖を拠点にしているのだし、そう考えるのが当然だろ」
「ありえん!」
猿田彦が叩いた膝で畳を打って、赤ら顔をますます赤くしながら、
「藩主がなにを根拠にそのような暴論を吐くのかは知らんが、無知蒙昧なるものの戯言だ」
「根拠なら、山神様の宣託とのことだ」
記憶を手繰り寄せながら桃次郎が答える。藩主の夢を通じて山神の意思が云々という話であったはず。
「馬鹿な。山など所詮、土の塊にすぎない。そのようなものを司る神になにがわかる」
「だったら湖はちょっと大きな水たまりにすぎないじゃないか。流れ続ける水に対して、土は堆積し、山となって留まり、この土地のあらゆる記憶を内包しているんだ。山神様はきっとすべてを見通しておられるはず」
「水がなければ人は生きられん」と、猿田彦
「土だって、なければ植物が育たない。植物が育たないと食べるものに困る。水も大事だが、それだけじゃあない。そちらこそ、水神の仕業ではないという根拠があるのか」
「それは……」
口ごもった猿田彦は困ったように部屋のなかに視線を巡らせた。左右の足往、天稚彦を見やって、それから、桃次郎、太郎、最後に母を伏し目がちに見つめ、おずおずと、
「水神様の祠を鬼に占拠されて以来、御様子をたしかめることもできんのだ。鬼が何者なのか……どこからやってきたのか……なにもわからん……」
大柄な肩が落とされると、桃次郎が思ったことを片っ端から口にする。
「そらみろ。水神とやらが本当に偉大なら、鬼だって退治してくれるはずだ。山神様は鬼の力を弱める方法を教えてくれた。だから河川工事が進められているんだ。それに対して、水神がなにをしてくれる?」
「うぬぬ……」
猿田彦は赤ら顔を影で黒ずませて唸る。
桃次郎の言い草に、足往が強く反発。だが、具体的な反論は持ち合わせていないらしい。犬のように牙を剥き、水神様がそんなことをするはずがない、という一点張り。
「水神様はとてもお優しい目をされているんだ。あたしは覚えている。昔、祠で遊んでいたとき、お目にかかったことがあるんだ」
「蛇なんだったら猫みたいに鋭い目のはずだろ」桃次郎が足往に言い返す。
「鋭いさ。ただし、鋭くっても、その奥に優しさがあるんだよ。血の一滴すら浴びていないような、それはもう美しい、白くて、透明の肌をされていて……」
「それだったら、うちのお母ちゃんのほうがきれいだよ。見てみなあの白い肌」
「バカか。あの蒼白さは病んだ肌だ。ただ不養生なだけのなまっちょろい病人と、水神様を一緒にするな」
「なんだと。母ちゃんの飯を平らげておいて、失礼なことを言うなよ」
「こんな飯。湖畔の小石を齧るのと大差ないさ」
「だったら小石を食ってりゃいいだろ」
「ひもじいあまりに食ってたさ。おかげで歯が削れて、いまではこんなになっちまってる」
いー、と歯を見せつける。お世辞にもいいとは言えない汚い歯並び。獣のような尖り具合。苦労が透ける歯を目にして、喧嘩腰であった桃次郎の舌も引っ込む。
けれども売り言葉に買い言葉で過熱した感情に歯止めが効かない。むにゃむにゃと無為な言葉を重ねようとすると、見かねた母が止めに入った。
「これ桃次郎、足往ちゃんも、月に笑われますよ。お静かに」
「あたしは、ちゃん、なんて呼ばれる歳じゃない。子供扱いをするな。そんなふうに呼ぶのは旦那ぐらいなもんだ」
睨まれても、母はいつもながらの物怖じしない態度で、
「わたしにとっては皆、子供みたいなものです」
まだどうしても黙っていられない桃次郎が横から茶々を入れる。
「おまえのような狂犬を嫁に貰おうなんて、仏みたいな男がいたもんだな」
「まったく仏さ。縁もゆかりもない旅人だったが、あたしらを助けてくれた。で、実際、仏になっちまった。鬼に殺されてね」
この答えには意表を突かれたらしく、桃次郎は口のなかで、もごもごと言の葉をこねまわした。母にぽんと背中を押されると、それがこぼれる。
「……言い過ぎた……悪かったよ」
気勢を削がれたらしい足往は、がっくりとして口を閉ざした。猿田彦が背を押したが、こちらの言葉は喉に引っかかっている様子。代わりに天稚彦が、
「犬姉も悪かったと言っている」
「言ってない」
「顔に書いてある」
「書いてない」
姉弟のやり取りに、母はおかしそうにすると、きれいになった食卓の皿を眺めて手を叩いた。
「もう寝ましょう。寝床の準備をしますから、お三人方は待っていてくださいね。太郎、桃次郎、片付けを手伝って」
「はい」
太郎が早速、盆を手に取る。そんなとき、門を叩く音。
「こんな夜更けに一体誰だろう?」母が首を傾げる。
「母ちゃん。おれが出てくる」
腰を上げた桃次郎が玄関へと向かった。
太郎が食卓を片付けて、洗い物を済ませているあいだ、母は客間を整えて、三人衆を案内した。
なかなか戻ってこない桃次郎が気になって、太郎が玄関へと向かおうとすると、縁側で鉢合わせ。
「誰だった?」
尋ねると、桃次郎はぷいと視線をそらして、
「ちょっと……迷子だ……旅人。道に迷ったんだと」
「ふうん? 宿でも探していなさったのか? 喪中でも構わないのなら、うちにお上がりになってもらってもいいが」
「いや。道を教えると、さっさと行ってしまった」
「そうか」
「ああ」
桃次郎はすぐに会話を切り上げ、自室へと去っていった。
弟の大きな背中を怪訝に見送った太郎が、ふと空を覗く。激しかった雨が、生糸のように細くなって、物悲しげに降りしきっていた。雨の向こうでそびえる山は、いつもと変わらぬ荘厳さで、雨をはねのけ、天に向かって頂きを尖らせている。
「山神と水神か……」
ひとりごちる。人知を超えた存在。自然そのもの。
そして、鬼。
鬼とは何者か。彼の者たちも自然の理の一部なのだろうか。
自然は人を生かしもするが、殺しもする。そんな一面であるのやもしれない。
と、不意に浮かんだ考えを、振り払う。
「寝なければ。明日は早い」
己に言い聞かせる。見上げる月はすでに高く昇っている。
母に挨拶をして、太郎も自室へ。
床に就くとすぐに意識が遠のいて、夢を見る間もなく深い眠りへ落ちていった。