第五話 赤い柱は抱く者の心を焼く
「……桃次郎。一応用心しておいてくれ」
異様な気配に太郎が囁く。
「わかってる」
玄関を薄く開けた桃次郎が、なかを覗き込んだ。突き刺さりそうなぐらいに張り詰めた静寂。隙間から身を滑り込ませた桃次郎は、武器として箒を手に取り、外に戻る。
路地から庭へと続く謎の足跡を兄弟が追う。
いつもならばこの時間には炊事場から夕餉のいい匂いが漂ってくる。だが、いま漂っているのは、いい匂いどころか、とても、とても、厭な臭い。
泥の足跡。三人分。
点々と落ちる赤黒い染み。
一歩ごとに臭いが濃くなっていく。
庭に近づくと、声が聞こえてきた。すすり泣く、母の声。
兄弟が駆け出した。勢い込んで角を曲がる。
そこに広がっていた光景。
庭の軒先で蹲る母が、戸板に乗せられた赤黒い柱をかき抱いていた。
そばに立つのは見慣れぬ三人衆。男が二人、女が一人。
獣の毛皮で作られた衣装。大斧、大鋸、大鋏を、それぞれ腰に巻いた太い葦の縄に携えている。
むせかえるような血の香り。
母が、深紅に染まっている。
三人衆のなかで、一番図体がでかい大男が振り返った。猿のような赤ら顔。桃次郎も大柄だが、この相手はさらに上。見上げねばならぬほどの巨漢。
兄弟を見た大男は、咄嗟に斧に手をやった。
桃次郎が吼える。箒を振りかぶり、大男に突撃。太郎は母に駆け寄って、己の背中で、しかと庇った。大男以外の二人を睨みつけて牽制。野良犬のようなすさんだ顔つきの女と、鳥のくちばしを彷彿をさせる高い鼻を持つ男。
大男は桃次郎の得物がただの箒とわかると、斧を握るのをやめて、素手で受け止めた。
箒が折れて、木っ端が散る。桃次郎は残った柄の部分を投げ捨てると、大男に躍りかかった。相撲でまわしを取るみたいに、相手が腰に巻いている縄を掴む。大男は踏ん張ったが、桃次郎の馬鹿力が勝り、庭の土の上に投げ飛ばした。
馬乗りになって、
「おまえ鬼だな!?」
鬼は様々な色をしていると聞いた。こいつはきっと赤鬼に違いない。獣の毛皮をかぶっているが、剥ぎ取れば、頭には角が生えているはずだ。
腕を振りかぶり、殴りつけようとしたそのとき。
「桃次郎! やめなさい!」
母の声に、すんでのところでとまる。
桃次郎は「どうして……」と言いかけて、言葉を失った。
泣き腫らした母の顔。そこから、すとんと視線を落っことす。真っ赤な柱が母の腕のなかにある。桃次郎は大男から離れ、茫然と膝から崩れ落ちると、もはや立ち上がるのも億劫らしく、四つん這いのまま母の元へ。その姿は、まるで生まれたばかりの幼獣が、よりどころを探して縋りつこうとしているかのようであった。
太郎も振り返り、気がついた。母が抱きかかえているもの。それは、柱などではない。原形からかけ離れていたからか、それとも、無意識のうちに理解を拒んでいたからか、とにかく、いまのいままで、明瞭ではなかったものが、言葉となって重みを持ち、声に乗ってこぼれ落ちた。
「……父上?」
その遺体は、四肢をもがれ、両目をつぶされ、舌が抜かれていた。
目の前が真っ暗になる。息ができない。倒れそうになったのを、三人衆の女に支えられ、起こされた。
桃次郎は父の遺体に覆いかぶさり、嗚咽を漏らし、滂沱の涙を流した。太郎は、身も心も干からびて、涙の一滴すら出なかった。
大男が立ち上がって、土を払いながら、
「おれさまは鬼じゃあない。それをやったのは鬼だがな」
「……なにが、あったのですか?」
俯いた太郎が、掠れた声で尋ねると、大男が事情を説明する。
隣の村に、鬼が出た。
父は村の者を逃がすため、鬼に立ちはだかって、殺されたのだという。
三人衆は通りすがりの者。大男の名は猿田彦。妹の足往。弟の天稚彦。
縁側に父の所持品が置かれていた。血で汚れた風呂敷と、大小二本の刀。本差と脇差。父は普段、帯刀をしなかったが、今日に限っては念の為と差していった。なにか悪い予感があったのかもしれない。
風呂敷の中身は卵団子が入った菓子箱。
それを買った帰り、菓子屋の店先で、鬼に襲われた。
父は戦い、鬼を一体倒したものの、相手は複数。別の鬼に殺された。駆け付けた三人衆が、大斧、大鋸、大鋏をふるって残りの鬼を追い返した。
それから、菓子屋に父のことや、この屋敷の場所を聞くと、戸板に遺体を乗せ、ここまで運んできてくれたのだという。
話を聞き終わった桃次郎が、がばりと身を起こす。
「鬼め! ぶっ殺してやる!」
その顔は父の血にまみれて、鬼と見まごう、すさまじい形相。
縁側に置かれた父の刀に手を伸ばそうとしたのを、足往が先に取りあげた。
「やめときな。そんな風に頭に血が上ってちゃあ、犬死するだけだ」
「鬼たちと戦うには冷静さがなによりも重要なのさ」
天稚彦が大鋏を抜いて掲げる。研ぎ澄まされた薄い刃は大木ですら切断できそうな鋭さ。鼈甲のような表面が、眩く暗い茜の陽を受け、濡れたみたいに輝いた。石でも鉄でもなさそうな、不思議なつやめき。
「もしや、あなた方は鬼と戦っていらっしゃるのですか?」
改まって太郎が尋ねると、猿田彦が「うむ」と頷いた。
「そうだ。おれさまたちは湖の民。湖に害なすものを決して許しはしない。水神様の島に鬼ヶ島などというふざけた呼び名をつけよってからに。藩主が手を引いてからも、ずっと戦い続けているのだ。山神なんぞを頼りにして、静観を決め込んでいる腑抜けどもとは違う」
「なんだとっ!」
桃次郎の激昂を意にも介さず、足往がせせら笑う。
「猿兄の言う通りさ。今回のことは、自分らには危害が及ばないと思い込んでいた山の麓の能天気どもにとって、いい薬になったんじゃないかい。山の民は余計なことしかしないからね。川の流れを乱すのも、これでやめてくれりゃあいいんだが」
「余計なこと……? 父ちゃんは、皆のためを考えて、河川工事を推し進めていたんだぞ! 湖の力を弱めれば、鬼も弱まるって……」
「ん? とすると、その役人が……」足往は父の遺体を見下ろして「こいつは奇遇だね。馬鹿なことを考えたもんだ。そんなものは詭弁だ。結局のところ、鬼ごと湖を殺そうとしている。目先のことばかりに意識を向けて、遠い未来のことを考えちゃいないやり方だ」
「そんなことはない。父ちゃんは地下水脈とか色々考えて、慎重に工事を進めていたんだ。それに……鬼を殺せるのなら、湖のひとつやふたつぐらい……どうなったっていいだろ!」
感情に任せて言葉を紡ぐ桃次郎に、足往が眉を吊り上げた。威嚇するみたいに牙を剥き出して、こちらも感情的に声を荒げる。
「水神様への信仰を失った罰当たり者めが! 親が親なら、子も子だね。その役人が死んだのは、言わば自業自得。己が業によって禍を招くことになったんだ。愚かだ。あまりにも愚かだよ。報いを受けたのさ」
次の瞬間、雷が落ちたかのような咆哮が轟いた。激しい怒りに駆られた桃次郎が足往に飛び掛かる。思い切り打ちおろされた筋骨隆々の太い腕。足往は素早く大鋸を抜いて、その横っ腹を盾にして受けたが、堪え切れずにはじき飛ばされて、後ろにいた天稚彦と一緒に地面にひっくり返った。
怒髪天を衝く桃次郎を、猿田彦が羽交い絞めにしてなんとか押さえつける。
「なにするんだいっ!」と、悪態をつく足往の肩を天稚彦が引いて、
「犬姉。言い過ぎだ。おいらたちにそこまで言う権利はないはず」
「うるさいっ! 雉彦!」
「犬子。雉彦の言う通りだ」
「そもそも猿兄が言い出したんだろ!」
「それは……そうかもしれんが……ううむ」
渋い顔の猿田彦は腕を離して、正面から桃次郎と向かい合った。固くこぶしを結んだ桃次郎は、母や兄に宥められて、なんとか激情を抑えようと苦心している。
猿田彦の頭が深々と下げられた。
「妹の非礼を詫びる。おれさま共々、思慮に欠けた発言であった。奥方。そして、おふたりの御子息よ。すまぬ」
こうまで殊勝な態度をされると、怒りを鎮めるほかない。父の亡骸の前で、これ以上のいざこざは避けたかった。
桃次郎は涙の拭ってそっぽを向く。
太郎がふらりと立ち上がって、
「神主様を呼んできます。父上を弔って差し上げなければ」
「そう……そうね……」
母は、父の亡骸の頬を何度も何度も撫で続けている。乾いた血が蝋や糊のようにこびりつくのも構わず、愛おしげに。
「犬子。坊ちゃんについていってやれ」と、猿田彦。
「なんであたしが……」
「ついでに外で頭を冷やしてこい。おれさまと雉彦は弔いの準備を手伝おう。まずは遺体を清めねばならんだろうから、水を汲んできて……湯を沸かしたほうがいいか」
しぶしぶという顔をしながら、足往は太郎について出ていった。
猿田彦と天稚彦が井戸に走る。ややあって、桃次郎が父を寝かせる座敷の準備へと向かった。
かなりの時間が経ち、漸く父の亡骸から身を離した母が、天の頂を仰ぐ。
陽が沈んで、月が出ていた。それを隠すみたいに、淀んだ入道雲が大きく大きく膨らんでいる。
その夜。村には久方ぶりの雨が降った。