第四話 山の影は長く伸びて兄と弟とを包み込む
隣村の役場で河川工事の打ち合わせがあるというので、朝早くから父は出かけていった。
今日は工事はお休み。桃次郎は太郎を家から連れ出し、山へと向かう。
自身が関わって作られた川を兄に自慢したい無邪気な弟心。ついでに、出不精の兄の体が鈍らなぬようにという弟なりの思いやりでもあった。
太郎は息をはずませながら、道中で拾った太い木の枝を杖代わりにして、地面をつきつき。先を歩く桃次郎が落ている小石を蹴っ飛ばして山道の脇に押しのける。
木々の緑が濃くなりはじめると、聞こえてきたのは、ちょろちょろと耳に楽しい涼やかな水の音。もうしばらく登ると、木洩れ陽を受けて煌めく美しい清流が姿をあらわした。
川に駆け寄った桃次郎が両手を広げる。
「兄ちゃん見てくれよ。これが最近やっと完成した川。それでだな、この川から分岐して、もう一本川を作る予定なんだ。あっちに溝を掘ってる途中」
「岩で堰き止めてられているあたりか」
「そうそう。ちなみに、あの大岩、おれが置いたんだぜ」
「ほう。あんなにでっかい岩をなあ。さすがは桃次郎だ」
褒められた桃次郎は、まんざらでもなさそうに口元を緩め、鼻を擦った。
清浄な川の水で喉を潤し、桃次郎が運んだという大岩にふたり並んで腰かける。茶屋の長椅子みたいな形と幅。ふたりで座っても十分な余裕があった。
それから、山登りで減った腹をここいらで満たすことにした。母が用意してくれた握り飯を取り出す。
高く昇った太陽が、梢の影を暗く、鮮明にしている。
二口、三口で握り飯を平らげた桃次郎が、指についた米粒をねぶって、遠くを指差した。
「あれが見えるかい」
「どれだ?」
太郎は目を凝らす。
山の裾野には毛細血管の如き川の流れが広がっている。水の網目を縫うようにして点在する家々。太郎たちが暮らす屋敷も見える。
隣の村に視線を向ける。中央通りの奥の、一際大きな屋根が役場。今日は父があそこで会議をおこなっている。重要な役割を任されている父を、息子として誇りに思う。
畦道を辿ると、三叉路に鎮座する道祖神の祠が倒れていた。誰かが壊したのだろうか。罰当たりなことだ。
川と道とが絡まり合って、地平線近くで葦原にまぎれる。
その向こうには霧がかった広大な湖。
「鬼ヶ島だ」
桃次郎の言葉に、太郎は湖の奥へと視線を投げかけた。
鏡のようなつややかな湖面に、墨汁を垂らしたかの如き島。
父から聞いたことがあった。
鬼が棲むとされる場所。
「おれさ。鬼退治に行こうと思うんだ」
「危険だ。そんな無謀なことを考えるべきじゃない」
即座に反対した兄に、桃次郎は憮然としたが、すぐに破顔して、
「同じようなことを父ちゃんにも言われたよ。兄ちゃんなら賛成してくれるかと思ったけど、やっぱり兄ちゃんは父ちゃんに似てるね。母ちゃんにはもっと似てる。おれは……」
後に続く言葉を察した太郎が遮って、
「桃次郎だって父上に似ているだろう。謹厳実直で、体の頑丈さは父上譲り。母上に似ている部分もある。何事にも臆さない性格がそっくりだ」
「そうかなあ」
「そうさ。家族だからな。当然だろう」
家族、と殊更に強調されると、桃次郎は黙りこくった。
幼かった太郎は両親と共に、桃次郎が桃から生まれる瞬間を目撃している。
桃次郎が普通の人間ではないと、太郎は理解していた。植物から人間が生まれるなど、ただごとではない。大きな桃は川を流れてきたのだと母は話していた。川の源流は山。山が桃をもたらした。つまり、桃次郎は、山神の御遣い。
太郎は思う。
桃次郎は大きな使命を背負っている。それはきっと、この世の乱れを正すこと。鬼を退治すること。桃次郎なら鬼を退治できるに違いない。
――しかし、使命を果たしたそのとき、桃次郎はどうなる。
どこか遠いところへ行ってしまうような、そんな気がしてならない。
不意に陽が翳った。墨を流したような雲が、山の頂に引っかかっている。藪の陰で虫が一声鋭く鳴いて、それっきり噤んだ。
握り飯を食べ終わった太郎は、竹皮の包みを丁寧に畳んで懐に仕舞った。
隣に座る桃次郎に目をやる。弟はぼんやりしながら、梢のざわめきに耳を傾けているようであった。
「桃次郎はこの山が好きか?」
「そりゃあな」食い足りなさそうに腹をさすって「村の誰に聞いても山が嫌いだなんて言う奴はいないだろう。すべての恵みの源なんだから」
「……そうだな。山から湧き出る水の流れを見ていると心が洗われる」
川面を覗き、俯いた横顔。空を仰いだ桃次郎が、
「兄ちゃんはもっと上を見上げたほうがいいぞ。おいしい木の実なんかがぶら下がっているかもしれないからな」
「おまえはすぐに食い気だ」呆れた声。
「食べることは健康の第一歩。よく食べ、よく動く」
父の口調を真似る弟があんまりおかしかったので、太郎は胸を反らして笑った。すると、桃次郎もなんだかおかしくなってきた。
仲睦まじい兄弟の声が楽しげに野山に響く。
ひとしきり笑った太郎は、ふう、と息を吐いて、桃次郎の瞳を正面から見据えると、おもむろに、
「桃次郎。おまえが鬼ヶ島へ鬼退治に行くというのなら、この兄もついていく」
「えっ?」
思わず絶句。たじろぎながら、
「……冗談だろ?」
だが、兄の表情は真剣そのもの。
「ぼくは兄だ。弟を助けるのは当然のことだ。おまえはもっと家族を、この兄を頼るがいい」
「いやあ」桃次郎は動揺を滲ませながら「兄ちゃんじゃ、頼りがいがないや……」
顔を背けると、岩の表面に生えていた苔を毟って、ふっ、と風に乗せる。
「絶対についていくからな」
強情な兄の細い手が肩に乗せられる。それを振りほどくみたいに桃次郎は座っていた岩から降りて、山道のほうへと小走りに駆けた。
「……ならもうちょっと鍛えてもらわなきゃな! 帰りは走るぞ!」
「ええっ?」
尻込みする兄を、肩越しに振り返った弟がおおげさに手招く。
「そんなんでよく鬼退治に付き合おうなんて言えたな! もし、おれより早く家に着いたら、兄ちゃんの望み通りにすればいいさ! おれが勝ったらあきらめな!」
「……よし! 言ったな!」
太郎は奮起。岩から降りて走り出す。桃次郎の隣を追い抜いて、懸命に家を目指した。
下り坂で何度も転びそうになる危なっかしい兄の背中。弟は心配げにしながら、抜きつ抜かれつ寄り添って走る。
屋敷に着く頃には山の陰に陽が呑み込まれようとしていた。
山頂にかかっていた暗い雲が屋敷のほうへと手を伸ばしている。
競走の結果は同着。屋敷の外壁にしなだれかかって息を切らす太郎。まったく息を乱していない桃次郎が、担ぐみたいに兄を支えて門を潜った。
玄関に向けて、帰宅の挨拶をしようとしたふたりは、
「おや?」
足元に視線を落とし、首を捻る。
門と玄関のあいだの路地に、乱雑な泥の足跡が散らばっている。
一人、二人、三人分。
「来客だろうか……」
声を潜めて顔を見合わせる。
足跡は、外を回って、庭のほうへと続いていた。