第三話 パリッとトロッとおいしい団子が母の大好物
山での工事作業に出かけていた父と桃次郎が屋敷に帰ったのは、陽がとっぷりと暮れた頃であった。
土間に立てかけてある濡れた釣り竿を見て、桃次郎が「今日の夕餉は魚だな」と予想する。
井戸で手足や顔を洗っていると、父に聞いた話を思い出した。山から流れ落ちた川が湖に注ぎ、大地にしみ込んだ水が地下水脈へと変わる。それをこの井戸で汲んでいる。井戸を覗くと、暗い水面が底で揺蕩っていた。鼻をひくつかせてみたが、鬼の瘴気とやらはなさそうだった。
食卓にいくと見事予想が的中。波模様の皿にどんと山女魚の塩焼き。それから、蜆汁と漬物。茶碗に盛られた米の山。疲れた体に沁みる、なんとも食欲をそそられる香りが、湯気と共に立ち昇っている。
母は魚を獲るのが大得意。病弱な体に似合わず、釣り竿を握る手は勇ましい。母が川に糸を垂らすと、魚が次々寄ってくる。
まさしく入れ食い状態というやつ。あっという間に魚籠は満杯。
桃次郎も一緒に釣りに出掛けたことがあるが、呆気にとられてしまうほどの腕前であった。手首の返し方や、竿先の振り方に秘密があるのではないかと真似をしてみたものの、一匹も釣れず、結果はボウズ。魚に嫌われている。母は大漁。そんなことが何度もあると、面白くなくなって、桃次郎は竿を握るのを止めてしまった。
人には向き不向きがある。それを思い知ったのである。
食卓についた桃次郎に、自慢げな表情をした兄の太郎が蜆汁を指差して、
「この蜆はぼくが採ったんだ」
「一緒に川に行っていたのか」
「ああ」にやりと笑って「たいしたものだろう」
汁のなかにはたっぷりの蜆。どれも肥え太っていてうまそうだった。
「兄ちゃんは釣りはしなかったのか?」
「してもよかったんだが、母上に蜆採りなどさせられん。お体に障るからな。ぼくの出番というわけだ」
「ありがとうね太郎」
運んできた熱いお茶を母が食卓に並べる。
太郎の釣りの腕前もなかなかのもの。兄に負けるのが悔しいというのも、桃次郎が竿を握らなくなった理由のひとつ。
「そもそも母ちゃんは水に浸からないだろう」
と、桃次郎が蜆汁のなかで小さく揺れる渦を覗き込んで、
「水嫌いなんだから」
というのも、母は米や洗濯物、食器などを洗うときに、わざわざ棒を使う。父がそれぞれの用途に合わせて木を削って作ったものだ。水に直接触れないように、棒で水をかき混ぜる。洗い終わった洗濯物などは棒で掬い上げる。太郎や桃次郎が物心つく前から徹底されていたので、ふたりは長いあいだそれが普通なのだと思っていた。
不思議ではあったが、人の好き嫌いなど千差万別。桃次郎も川から突き出た岩が嫌いだ。地面に転がっているものはいいが、川にあるものは怖い。なぜあのようなものが怖いのかと、不思議に思われる。説明はできないが、とにかく怖いのだ。それと同じようなもの。
「うまそうな魚だな」
工事に関する帳面をつけていた父も食卓にやってきた。席に着いて、家族全員が揃うと、
「いただきます」
箸を手に取る。と、そこで、桃次郎がそれぞれの山女魚の大きさを見比べて、
「兄ちゃんの魚のほうが大きくないかい? おれ、そっちが食べたいな」
「こらこら桃次郎」
優しく父が言って、自分の皿を差し出す。
「それならこの父の魚を食べるといい。これが一番大きいぞ」
すると、桃次郎は途端に遠慮して、箸をぎゅっと引っ込める。
「いや。父ちゃんは仕事の後で疲れているだろうから……」
「それなら手伝ってくれている桃次郎も同じだ。さあ遠慮することはない」
ぐいと押し付けられると、断り切れない。それを見ていた太郎は、自分の皿を父に差し出した。
「では父上、こちらの魚をどうぞ。ぼくはあまり食欲がありませんから、少しでも小さな魚のほうがよいのです」
「それはいかん。食べることは健康の第一歩だ。よく食べ、よく動けば、おまえの持病の癪もきっとよくなるであろう」
「そうよ」
同調する母に、するりと父の矛先が変わって、
「おまえもだ。きちんと食べねばならんぞ」
母は蒼白い首を竦めて「はあい」と軽く息を吐く。
「でも、わたしも太郎と一緒であんまり食欲がないのよ」
「母親として、子供たちに模範を示すと思って食べなさい」
「そうですよ。母上が食べるのなら、ぼくも頑張って食べます」
「おれ、母ちゃんがたくさん食べてくれないと心配で飯が喉を通らないんだから」
母の体を心配する男三人が、堰を切ったみたいにやいのやいのと言い出す。
ひとり矢面に立たされた母は面白くなさそうに口を尖らせて、
「なら桃次郎、今日はおかわりをしないってことね」
「そんなあ」
しょんぼりと桃次郎が箸を咥えると、食卓にふわりと笑いがこぼれた。
「冷めないうちに食べよう」
父が促すと、もう待ちきれないとばかりに桃次郎が焼き魚にかぶりつく。父は漬物をぽりぽりと噛み、茶碗に盛られた米を掻っ込んだ。太郎は蜆汁の風味をゆったりと堪能し、母は箸の先で米粒をちまちまと摘まんで口に運ぶ。
本当に食欲がなさそうな母を、しげしげと眺める父。部屋の隅に置かれた行燈に目をやって、懐かしむような調子で、
「おまえも昔はよく食べたのになあ」
「いつの話よ」と、母。
「ほら。ここにおまえが来たばかりの頃、大猪が出たことがあっただろう。山から下りてきて、このあたりで暴れまわった。屋敷の門に穴を開けるぐらいの凄まじく狂暴な奴であった。仕留めた猟師が大きな肉の塊を分けてくれたので、その晩牡丹鍋にすると、おまえは丸呑みという勢いでぺろりぺろりと何杯も……」
聞いているうちに恥ずかしそうに俯いた母の頬がほんのりと赤らむ。
「やめてちょうだい」
「食べたいものはないか。明日は隣村に行く用事があるから、ついでになにか買ってこよう」
「おれは果物がいいな」と、桃次郎。
「うん。柿にはちょっと早いが、栗ぐらいならあるかもな。良いものがないか向こうで聞いてみよう……太郎はどうだ?」
やや逡巡して、口のなかのものをごくりと呑み込んでから、
「ぼくは……卵団子かな」
と、太郎。
卵団子というのは隣村の菓子屋で売っている銘菓。たっぷりの卵が使われたなめらかな食感の団子で、口に入れるとほどける甘さ。なんでも”ぷでぃんぐ”とかいう南蛮菓子を参考に、先代だか先々代の店主が作ったという話。”からめるそぉす”なる薄い膜状の飴で包まれており、鶉の卵ぐらいの大きさ。飴色の膜が卵の殻のようにパリッとしていて、噛み砕くとなかから団子がトロッと出てくるというわけであった。
「おお。卵団子か。隣村に行くのも久方ぶりであるし、たまには少々贅沢をしてもよかろう」
頭のなかで勘定をしながら、父は母を見やって、
「卵団子はおまえの大好物だものな」
母は曖昧に頷く。それから、気遣わしげに、
「太郎。他に食べたいものはないの?」
「ええ。まっさきに思い浮かんだのが卵団子でした」
「……そう。欲しいものは遠慮せずに言うのよ」
「はい。母上」
一家団欒がなごやかに過ぎ去り、夜が来て、朝になった。