第十三話 自然とはわけのわからぬものである
広大な葦原に囲まれた湖の畔に、太郎と桃次郎が並んで腰を下ろしていた。
「どうしてあのとき、わかったんだ?」
水面の波紋を眺め、尋ねる兄に、弟は空を見上げ、
「家族だからだろ。説明できないよ」
「……生き残ったぼくのほうが、実は桃太郎だったらどうする?」
問いかけられた桃次郎はぞくりと肩を震わせて、
「おれが斬ったのはたしかに鬼と同じものだった」長い息を吐いて「……兄弟殺しだ。もっとも、さんざん鬼を斬ったんだから、いまさらという気がするがな。結局は鬼もおれの兄弟みたいなものだった」
「しかし、そのおかげでぼくは生きている。あのままだときっと、ぼくと桃太郎の両方が死んでいただろう。おまえは殺したのではなく、生かしたのだ。それに、鬼に苦しめられていたたくさんの人々を救った。それは、まぎれもない事実だ」
兄の慰めを、弟は素直に受け取ることができない。悪行が善行によって赦されるのなら、人を殺し、薬草で癒した栗之丞、柿之丞も赦さなくてはならなくなる。それに納得ができなかった。
振り返って、小高い葦の頭上を越えた先にそびえる荘厳な山へと目を向ける。
「おれは山神に勝負を挑む。親子喧嘩だ」
「神にはどうやっても、かなわぬだろうよ。霊木刀だって、力の源は山神なのだ。それで山神を斬ることはできない」
折れた霊木刀は太郎が持ち帰り、屋敷の蔵にしまってある。
「けれど、父ちゃんを殺した代償を払わせなきゃあ、おれの気がすまない。桃太郎だって、憐れなやつだった。山神はこの湖の支配が十分に得られれば、桃太郎におれを殺させるつもりだったんだ。そういう定めを背負わさていたんだ。兄弟殺しの運命をな」
「山神を恨んでも仕方がない」
「じゃあどうしろって言うんだ」
ふたりは押し黙って、また湖を眺めた。やわらかな風が吹き、水鳥が湖面をかすめて横切っていく。湖面には遠い山々、野原、青空、すべてが映り込んでいた。
太郎が静かに口を開く。
「父上の日記に書いてあった。自然とはわけのわからぬものである、と。人はそのわけのわからぬものに生かされ、殺されもする。それが当然のことだ。理解を怠ってはならぬが、理解できると思ってはならぬ。生かされ、殺されながら、共に暮らすしかない。必要なのは、寛容だと」
「……母ちゃんのことも、なに考えてるのかわからん、って、よくこぼしてたな」
懐かしむように目を細め、かすかに笑うと、力を込めて見開く。
「でも、おれはそんなふうに達観はできない。生かした人の分、殺してもいいなどと山神が考えているのなら、それは正さねばならん。人は、神の力を誇示するための道具ではないのだからな」
「ならば父上の死に対する復讐ではなく、そのために山神と戦うといい」
兄の言葉に考え込んだ桃次郎は、胡坐に腕組みで小さく唸った。父の仇を討つべく、共に鬼ヶ島に乗り込んだあの日から、兄の心は少しばかり変化したらしい。
そばの草花を撫でながら太郎が言う。
「ぼくは、ぼくなりの方法で山神と戦う」
桃ヶ島での一件の直後、太郎はむごたらしい傷もそのままに、藩主にお目通りを願い出た。そして、長く藩を苦しめていた鬼の真相について話して聞かせたのだった。
はじめは信じようとしなかった藩主であったが、祠に残されていた栗之丞、柿之丞、それから桃太郎の死体が確認されると、山神の関与を認めざるをえなかった。
だが、藩には、山神がもたらす豊穣によって支えられてきた歴史がある。いまさら、その関係を変えることは難しい。そう判断した藩主は、この一件を闇に葬ろうとした。
ところが、すでに話は村々に広まっていたのである。
藩の者は保守派と革新派、つまるところ、山神派と、山神の子である桃次郎派、桃神派に二分された。そこに水神派という新派閥まで加わってくる。
板挟みどころか三方を取り囲まれて頭を抱えた藩主は、太郎を大使として任命。
太郎もまた神の子である。神と人との橋渡し、状況改善を指示したのだった。
そんな話を聞いた桃次郎は、
「丸投げされただけじゃないか」
「まあそういうことになる」苦笑して「しかし、色々と融通が利くようになったのはありがたい。ぼくは山の水の流れをできるだけ元の状態に戻すように藩主様に進言しようと考えている。もちろん、山の裾野の村々に不便がおきないように留意しながらだ。父上の日記に、もし鬼なき世になったとき、野山の歪を正したいという旨の考えが書いてあった。先に相談した普請奉行様には協力を約束していただけている」
「それで山神が倒せるのか?」
「倒そうというわけではない。お諫めするのだ。藩主様はこの地を栄えさせたいと考え、多くの川を求めた。それは多すぎた。過剰だ。ぼくは思うのだ。行き過ぎた河川工事こそが、山神の心を湖に向けさせた原因なのではないかとな。山の裾野を流れ、どこまでも広がる川に、自らの領分を超え、水をも支配したいという欲が出た」
「神にも欲があるのか?」
「あるさ。欲がなければ愛もなかろう。愛があるなら欲もある。ぼく自身が、その証明だ」
「……そうだな」
母もまた神であった。神と人のあいだに生まれた子、太郎。
「桃次郎は屋敷に帰ってこないのか」ほのかに寂しそうにして兄が聞く。
「おれはもうちょっと爺ちゃん、婆ちゃんの世話になろうかな。屋敷に母ちゃんはもういないし、兄ちゃんの顔をあんまり見ると……桃太郎のやつのこと、思い出すから……」
あれから、桃次郎は隣村の村長夫婦のところで暮らすようになっていた。山神派に対する桃次郎派の筆頭。桃次郎の鬼退治の英雄譚を熱心に広めていたふたりであり、桃ヶ島の祠の建て直しの音頭を取ったのもこの夫婦。いまでは桃次郎の一番の味方を自負し、山神に屈するべからずと役所に陳述書を提出したりしている。少々過激なところはあるものの、善良な人たちでもあった。
「いつか、気持ちの整理がついたときでいい。帰ってきておくれ」
「ああ」小さく頷いて「……桃の木を探してみようかな。おれを産んだ母親だ……桃太郎のこと、謝らなきゃだし……そうしたら、兄ちゃんの手伝いをしてもいいかもな……」
「待っているぞ」
「……うん」
うなだれていた桃次郎であったが、ふと、風呂敷を持っていたのを思い出した。草を払って広げると、
「忘れてた。婆ちゃんがこれくれたんだ。水神様の大好物って聞いたらしくてさ」
話しながら卵団子の箱の包みを開けて、
「いまではすっかり山神じゃなくて水神様だって、宗旨替えしちゃったんだ。川で洗濯する前にも手を合わせたりしてさ。呆れちゃうよな。でも、兄ちゃんがさっき言ってたみたいな、わけのわからないものに対して折り合いをつけるために、神にすがらなきゃだめなだけで、決して軽薄な人じゃあないんだ」
和紙に包まれた鶉の卵ほどの菓子を取り出す。
「わかっているさ」
太郎は葦の葉っぱを一枚ちぎってそれで舟を作った。
卵団子を乗員にして湖に浮かべる。
「沈まないかな?」と、桃次郎。
「沈んでも問題なかろう。母上は湖底にいらっしゃるのだから」
葉っぱの舟に乗って、飴色につやめく卵団子が滑るように流れていく。
どんぶらこ、どんぶらこ。
波にも負けず、風に転覆することもなく、伸びやかに湖面を渡る。
桃次郎が空を指差した。
「兄ちゃん。虹だよ」
「おお。きれいだな」
ふたりが見惚れていると、ぱしゃりと水が跳ねる音。
見れば卵団子を乗せた舟はなくなっており、小さな渦がぐるぐると、流れと流れを混ぜ合わせ、虹の根本で踊っていた。
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活動報告にあとがきを投稿していますので、こちら私のマイページから2024/9/19付けのものをご確認ください。
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2024/9/19の井ぴエetcでした。