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第十話 昔々の昔のお話

 鬼があらわれてから数ヶ月。

 男は上役である普請ふしん奉行ぶぎょうからの要請で、川の調査に乗り出していた。

 山から湧き出た水の流れが、麓でどのように広がっているのか。大本である山の治水工事に着手した場合の影響範囲はいかほどか。

 過去の調査結果はあるが、鬼という厄災やくさいによって、異常が起きている場所がないかを事前に調べておかねばならない。

 そうして、枝分かれした分流に沿って、地図と川とを見比べていたときのこと。

 川の先のほうから女が流れてきた。

 下流から上流に向かって、ますだかあゆのように川を遡上そじょうしているのだ。

 まったくもって奇妙な光景に、男は自分の目を疑った。

 あお白い女が、四肢ししをだらんと川に預けて、ぷかり、ぷかり、と浮かんでいる。目を閉じて、眠っているみたいだ。女の周囲に発生した渦が、水車となって長い髪を巻き取って、流れに逆らい、せた体を上へ上へと押し運んでいる。

 呆気あっけにとられていた男であったが、自分の目の前を女が通り過ぎたあたりで正気に戻り、すぐに川へと飛び込んだ。

 陸へと引っ張り上げる。あまりの体の冷たさに、よもや土左衛門どざえもんではなかろうかと思ったが、たしかめるとまだ息があった。

 ややあって、ぱちりとまぶたを開いた女は、鋭い瞳でまっすぐに男を見返した。

 具合を聞くと、大事無いらしい。

 女は鱗の紋様を幾重にも重ねたような奇妙な薄衣を着ていた。それだけでは寒かろうと、男は自分の羽織を女に着せた。

 あらためて川の流れに目を向ける。川はたしかに上から下へと流れている。高いところから、低いところへ。逆流などはしていない。見ていると、水面みなもに浮かんだ枯れた葉が、浮き沈みを繰り返しながら、上流から下流へと勢いよく流れていった。女のように、下流のほうから流れてくるものなど、ひとつたりとも存在しない。

 わけのわからない出来事であったが、自然とはわけがわからなくて当然なのだ。男はそれをよく知っていた。だから、わけのわからないものを、わけのわからないまま受け入れた。

 どこから来たのかたずねると、女は下流を指差した。間違いではないのだろうが、男が求めていた答えではなかった。川を下っていった先に人里はない。あるのは広大な葦原あしわらと、それに囲まれた湖。そして、湖に浮かぶ鬼ヶ島ぐらいなもの。

 家を聞いても、名前を聞いても、女は首をかしげるばかり。らちが明かない。

 沈む陽を見上げて途方に暮れた男は、その日のところは女を自分の屋敷に泊めてやることにした。

 おかしな女だった。

 まるで君主かなにかであるかのような横柄な物腰。

 もしくは、世間を知らない生まれたばかりの赤子。

 きっと、どこかの武家の姫君だろうと男は思った。

 不始末により零落し、家を失ったのだとすれば、名を隠したがるのも当然。

 武士が不要の世の中に変遷へんせんしつつある昨今さっこん。刀を振る以外の自らの価値を見出せなかった者は生きる道を見失い、魔道にちることもあるのだとか。女の家の家長か、それに類する者が魔縁まえんの誘いに乗ってしまったのかもしれない。

 男も一応は武家の家柄。亡き父や、祖父などからそういった話をよく聞かされていた。だからこそ、普請奉行に仕えて、土にまみれて働く道を選んだのだ。

 泊めるのは一日だけのつもりであったのだが、女はそのまま居ついてしまった。行く場所がないという女を追い出すのも忍びない。仕方がないので、女中として雇うことにした。鬼が出現してからというもの、男の仕事は多忙を極めており、家事に手が回らなくなっていたのだ。

 やたらめったら広い屋敷に、男ひとりではさもありなん。本来ならば、もっと早くに誰かを雇うべきだったのだが、そうしていなかったのにも理由がある。男の父が、武士を捨てるからには節制に努め庶民の暮らしを知るべしと、なにごとも自らの手ですることにこだわっていたのだ。男もそう教育され、刀よりも畑でくわにぎって育ち、母が死んでからは家事全般をこなしていた。

 とはいえ、人命をおびやかす鬼をなんとかするためには、こだわってはいられない。

 鬼の対処に全力をかたむけられるように、父から受け継いだこころざしを少しばかり曲げるのもいたしかたなし。

 と、考えていたのだが、男の生活は余計に忙しくなるばかりだった。

 女にはありとあらゆることを一から教える必要があった。

 米の炊き方を知らぬ。服の干し方を知らぬ。箒の持ち方も、雑巾のしぼり方すら、なにもかもを知らぬのだ。

 箱入り娘にしてもほどがある。

 役所でそれとなく、最近没落した御家がないかと聞いてみたが、少なくともこの藩、もしくは近隣の藩にはなさそうだった。だとすれば、女はよほど遠くから来たのだろうが、こんな調子でよくいままで生きていられたものだと、男はあきれるやら関心するやら。

 妙な女ではあったが、性格は非常に素直。

 一度、教えたことは忘れず、覚えがいい。

 安心して家事を任せられるようになるまで、そう長い時間はかからなかった。

 ただ、ひとつだけ、困ったことが。

 男は、女に、人前では決して水に触れぬよう約束させた。

 そうしなければ、いらぬ不信をいだかれかねない。

 女は特異な体質をしていた。水に触れると、そこに渦を巻くのだ。

 指摘されるまで、女自身はそれを不思議なことだとは思っていなかったらしい。その渦を使って米を洗ったり、洗濯物をかき混ぜたりしていた。

 渦を作らないようにできないかと問うたが、無理だという。ならばと男は、人前で水仕事をするときのために、直接触れずに済むよう、専用の木の棒を何本も作ってやった。

 手間をかけることになるが、この屋敷に妖異がみついているなどと噂されてはたまらない。

 たとえ、それが事実だとしても。事実なればこそ。

 男は、女のことを妖異なのかもしれないと感じていた。

 だが、そのときにはすでに、女を憎からず思ってしまっていた。

 奇縁と呼ぶしかない巡り合わせ。

 ふたりのあいだにはやがて子が生まれ、太郎、と名付けられたのであった。

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