第一話 桃から生まれた……
昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんが暮らしていました。
お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯にでかけました。
お婆さんが洗濯をしていると、どんぶらこ、どんぶらこ、と大きな大きな桃が流れて……
……くるはずだったのだが、そうはならなかった。
川の上流を辿れば、それは山中へと入り込んでいく。
村をかき抱くようにして影を落とす小高い山は、神がすまうとされる場所。
人々に大いなる恵みを与える鬱蒼とした緑の山肌。松の枝ぶりの如くに分岐する川の流れ。川面に浮かんだ大きな桃は、右に左に揺れながら、きまぐれな流れに導かれ、どんぶらこっこと運ばれていく。
これから訪れる数奇な運命を、川に見立てているかのように、いくつもの分岐、選択の連続を乗り越えて、遂に麓へと到着した。
お婆さんが洗濯をしているのとは別の川。隣村のほうへ、ぷかり、ぷかり、と流れていく。
薄紅色に熟したこの桃。ただの桃ではない。
そこには山神の御遣い、鬼を退治するという重大な使命を帯びた子供が宿っているのであった。
川を眺めていた女。
若くもなく、老いてもおらず、美しくも、醜くもなかった。なんの変哲もない平凡な女。
特徴を挙げるとすれば、幽霊のように蒼ざめた白い肌。猫のように鋭い目。それから、いささか長すぎて、渦を巻いている睫毛。ぐらいなものであろうか。
そんな女が、ぼけーっと日向ぼっこをして、傾きかけた陽を眺めながら、川辺の草原に腰を下ろしていた。
着物の裾から細い足を投げ出して、両の手のひらは瑞々しい草の上。
空は赤々と燃えるようだが、川から吹いてくる風はひんやりとして心地いい。
涼やかな空気を肺いっぱいに堪能して、そろそろ帰ろうかと考えていると、川の上流から、たいそう大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきたではないか。
「桃だ」
誰に言うでもなく、女はぽつりと言って、流れていく桃を見つめた。
桃はどんどん流されていく。女の目の前を通り過ぎ、まだ流れる。女はそれを、じっと目で追っている。
波がぶつかって桃が揺れる。川面から頭を出した尖った岩が、桃の行く手を執拗に阻む。桃はおきあがりこぼしのように頭を振って、あわや転覆寸前。山のてっぺんからここまで、長かった旅の苦労が水泡に帰す窮地。しかし、女はただ見ているだけで、川に近づこうともしない。
そのうち桃はぐるりと一回転。さかさまになった憐れな姿。岩にぶつかり、波にさんざん弄ばれて、へろへろになりながも、すんでのところで沈没だけはまぬがれた。川岸の砂利に乗り上げて、難破の末の座礁といったふうな幕切れ。
ここにきて、やっと女は腰を上げると、蒼白い足に草履をつっかけた。ころん、ころん、と川原の小石を蹴っ飛ばしながら、緩慢な足取りで桃のそばへ。首を伸ばして覗き込み、常軌を逸した寸法の果実に目をまるくする。
見れば見るほど大きな桃だ。お腹一杯どころか、二杯、三杯分ぐらいはある。
薄紅色に熟していて、いかにも食べ頃。ただし、川でたっぷり洗われたからか、甘い香りは薄くなってしまっている。
「あんまりおいしくなさそう」
がっかりしたみたいに言いながらも、女は腰を落とし、桃を両手で抱えこんだ。
どうやら、持ち帰ろうというつもりらしい。
えい、と腕に力をこめる。しかし重たい。漬物石のようだ。しかも水浸しなので滑りやすくて持ちにくい。
女は手を離し、びしょ濡れになった着物に顔をしかめる。あきらめたふうに土手を見上げたが、未練がましく振り返って、桃にぽんと手を置いた。
「わたしに持って帰ってほしかったら、軽くなるんだよ」
やわらかい産毛の生えた桃の肌を優しくなでながら言い聞かせる。
そうしてもう一度、桃を、えいや、と持ち上げた。すると今度はさっきよりも、ほんのちょっぴり軽い気がする。
えんやこら、えんやこら、と桃を抱えて帰路を往く。道中、近所の猟師に会ったので、運ぶのを手伝ってもらった。
やっとのことで家に着く。女が住むのは武家屋敷。けれども、正しくは”元”武家屋敷。戦無き世になってから、武士などという職業は何代も前に廃業済み。屋敷といっても無駄にたくさんの部屋と、無駄に広い庭と、がらくたが詰まった蔵があるだけ。生活に使うのはほんの一部分なのに、掃除ばかりが大変で困っている。
猟師に礼を言って別れる。別れ際、桃を一緒に食べないかと誘ってみたが、甘いものは苦手だからと断って、帰っていった。
「ただいまー」
木戸を開け、土間に桃を置きながら家の奥へと呼びかける。すぐに、ぱたぱたと軽い足音がやってきて、小さな男の子が顔を出した。
「おかえりなさい母上」
まだ幼いながらも、舌っ足らずを感じさせないハキハキとした喋り。礼儀正しい物腰。肌の蒼白さや瞳の鋭さなどに、女と似た雰囲気がある。
この聡明そうな男の子、女の息子で、名は太郎といった。
桃を見た太郎は、面食らいながら、
「どうしたの、その桃は?」
「えへへ、これはね……」
言いかけたとき、勢いよく玄関が開いて、壮年の男が入ってきた。
「あら、あなた。おかえりなさい」と、女。
「帰っていたのか。探していたのだぞ」
この男は女の夫。出かけっぱなしの女を心配して、いまのいままで駆け回っていたのだ。泥で汚れた小袖や袴の裾を見れば、随分とあちこちを探していたことがわかる。懐から手拭いを出し、額を垂れる汗を拭く。着物の上からでもわかる屈強な体躯と、こんがりと焼けた肌は、長い時間を野山で過ごしている証拠。痩せぎすで色白の女とはまるで正反対の男であった。
「ほほう。大きな桃だな」
桃を見た夫が感嘆。太郎と同じように目を白黒させる。親子だけあり、よくよく似た表情。
「なんと立派な。まるで西瓜のようだ。いいや、西瓜よりもでかい」
「川で拾ったの。山のほうから流れてきたのよ」
「このような大きな桃、さぞかし重かったであろう」
「猟師さんが運ぶのを手伝ってくれたから大丈夫」
「そうか。また今度、礼にいかねばな……体は平気か?」
気遣わしげな視線。女はひらひらと薄っぺらい手を振って、
「お医者さんの言いつけ通り、川辺の澄んだ空気をいっぱい吸ってきたから、とっても元気。あんまり気分がいいものだから、時間を忘れてしまったぐらいよ」
「ならばよかった」
夫は胸をなでおろす。
それから、桃は部屋へと運ばれて、食卓の真ん中に置かれた。
「ぼく、こんなふうに大きな桃を食べるのが夢だったんだ」
太郎のはずんだ声に、女は顔をほころばせる。包丁を手に取ると、ようく研がれた刃を、ふっくらとした薄紅色の柔肌にぴたりと当てた。
刹那。
刃を通したわけでもないのに、桃の表面に亀裂が走った。
ぱかりと左右に真っ二つ。
ひとりでに割れると、甘い果肉と果汁にまみれた赤ん坊が、おんぎゃあ、おんぎゃあ、と力強い泣き声を響かせたではないか。
太郎と夫はびっくり仰天。言葉を失い、放心状態。
けれども、女はすぐに赤ん坊を抱き上げて、桃の汁で着物が汚れるのも構わず、優しく優しくなだめてやった。
「よし。よし。元気な子だこと」
赤ん坊が泣きやむ。梅干しみたいだった顔が、母を見上げて無邪気な笑顔。
かくして、山神の御遣いである桃の子供は、この屋敷で育てられることになったのであった。
桃の子供がどのように育ち、なにを為すのか。それらはすでに決められている。
山神が定めた運命通りに鬼を討ち、そして……