免許返納を拒否したら地獄のドライブをする羽目になっちまった!
免許を返納するも地獄!拒否するも地獄!地獄のラストドライブの顛末を見よ!
「お父―さん!お願い、お願いだからやめて!」
「やめてったら、やめて!お父―さん!」
「やめてよ!やめて下さい!お父―さん!」
幸恵の悲痛な叫び声がまだ常雄の鼓膜にこびりついていた。
テンションも極まった幸恵の叫び声は、家中に響き渡り、その顔はまるでサイコパスに追い詰められたホラー映画のヒロインにも見えた。
それも折悪しく、今は一家団欒のはずの日曜日。
「やめてよ!やめてお父―さん!・・」
たまたま聞き付けた近隣の住人からすれば、父親が娘に襲い掛かる凄惨な父子相姦の現場を想像した輩もいるのではないか。
徳島常雄は思わず大きく嘆息した。
父子相姦。父親が娘を力づくでレイプ。常雄はその光景を思わず想像し、さらにまた一つ大きく嘆息した。レイプといってもその娘はもう四十も半ば過ぎ、自分に至っては八十オーバーの超後期高齢者なのだ。
おまけにその夜は加勢のつもりか、男親にとっては天敵ともいうべき義理の息子、幸恵の旦那の康夫も同席していた。きっと加奈子が援軍として幸恵に招集をかけたに違いない。
妻の加奈子は昨年、食道ガンが見つかったが、幸い老骨の肉体にメスを入れることもなく、内視鏡によるオペだけで大事には至らず再発もしていない。そのことで俄然、勢いづいて一気に常雄に圧力をかけるようになっていた。
とにもかくにもその夜は、そうした面々が雁首揃えて、首を決して縦に振ろうとしない常雄が、その要求を受け入れるまで、敵も頑として譲ることなく持久戦に持ち込もうとした。
そして大軍に周囲を囲まれ、四面楚歌と化した瀕死の軍平の如く延々と諭された。だが、それでも徳島常雄はその責め苦に耐え抜き、ついに首を縦には降らなかった。
徳島常雄は居間に置かれたテーブルの上をじっと見つめた。
そこに五年前の自分がいた。手のひらにすっぽり収まるほどの小さな一枚のカード。その隅で神妙な面持ちでこちらを見つめている自分の顔。人間は五年ごとに年を取る、五年ごとに老境というフェーズにさしかかる。そして今、自分はその最終フェーズの晩年の辺境にいる。そのことを如実に思い知らせてくれるそのカードには、『運転免許証』と書かれてある。
それは、車というマシンを自分の力で思いのままに操ることが出来る文字通りの証である。この社会の成員として、車を乗りこなし、今、自分がいる地点から、遠い地点へと、自分の行動エリアを自在に拡大出来る自由を自分が持てるという、外ならぬ証明だ。
いわば、生きる人間として、いや、一家の長としての一つのプライドでもある。
しかし、その証明書を、そして、そのプライドを放棄しろと、こともあろうに自分の家族が「もう車に乗るのはやめてくれ」、「もういい加減にして」「もうドライブはあきらめて免許を返納して」などと今こうして自分に向かって責め立てているのだ。
確かに近年、高齢ドライバーたちの暴走事故には目が余るものがある。
運転中の過失、もしくは運転中に脳梗塞を発症するなどして、無防備な市民に車ごとそのまま突進し、何人も殺傷させる事故が後を絶たないのも事実だった。
それどころか、貧困のあまり、余生を送る終の棲家に刑務所を選び、ムショ活と称し暴走事故を引き起こす身勝手きわまりない連中も現れる始末だった。
だから加奈子や幸恵が、その唯一残されたプライドである運転免許証を返納しろというのにも一分の理がないわけではなかった。
しかし、徳島常雄には、徳島常雄としての断固たる意地もあった。
自分が車を操り走らせる、そして、それをコントロールし、道路を心ゆくまで滑走するという悦楽を覚える権利を国家に為すがままに剥奪されるわけには決していかなかった。
常雄は、尚も威圧的に自分を取り囲み、更に口々に責め立てる気配が満々な、加奈子や幸恵、それに幸恵の夫の康夫をクワッと目を見開いて睨み返すと、胡坐をかいていた姿勢から、いきなりその場ですっくと立ち上がり、腰に手をかけて毅然とした姿勢でこう高らかに宣言した。
「オレは国家などには屈しない。オレは決して免許の返納などせんぞ!」
「でもお父さん、そんな事言ったって」
「そんな事もこんな事もない。これは個人の自由の問題だ。個人の自由の権利を国家にみすみす剥奪などさせない。オレは国家、つまりこのニッポンという国と正面から戦う」
常雄はそう言い放つと、台所に行って冷蔵庫を開け、発泡酒の缶を引っ掴むと、あえてゴクゴクと喉を鳴らして呑んだ。
そのスタイルこそが、己の主張を分からせるパフォーマンスになると常雄は考えていた。
まるで風呂上がりにコーヒー牛乳を毅然と飲むようなその常雄の姿には、確かにどこか後光のようなものが差していた。
そして、常雄は飲み干した缶をアルミ缶用に設けたゴミ箱に放り投げ、そのまま寝室に行って意気揚々と高鼾をかいて眠ってしまった。
居間では加奈子と幸恵、義理の息子の康夫が呆然とした体で残されていた。
すると、幸恵がはっとして思い起こしたように顔を上げると、ひそひそと母親の加奈子と康夫に何事か耳打ちした。
それを聞き、納得したように三人でうなずくと、取り上げたスマホで幸恵がある場所に電話した。
「もしもし、あ、公安局でしょーか?」くぐもったメカニカルな声で相手が応答した。
「ウチのお父さんのことを御願いしたいのですが」再びくぐもったメカニカルな声で相手が応答し、電話は切れた。
幸恵はスマホを置くと、ついにある一線を越えたことの了解を無言で請うかのように二人の顔を見た。それに応え、二人も決心したように肯くと、常雄が引き上げて行った寝室の方を三人でおそろおそる見た。
その頃、常雄は、夢の中にいた。
夢の中で常雄はハンドルを握り、自分が運転する車のフロントバンパーがすべるように路面を呑みこんでいくのをうっとりと眺めていた。
常雄が運転する車は雲一つない真っ青な晴天の下、永遠に終わることがないようなハイウェイを快調に、ただひたすら疾走していた。
*文献注
[世界保健機構(WHO)が定義する高齢者の性格的特性は以下とされる]
レイチャードの5類型
1 円熟型 過去を後悔することもなく未来に対して希望を持つタイプ
2 依存型 物質的にも社交的にも他者に依存し、頼る傾向がある安楽質なタイプ
3 防衛型 装甲のように防御し、自らの老化を認めないタイプ
4 憤慨型 自らの老化への不満が他者への攻撃的行動として出るタイプ
5 自責型 人生が自らのせいで失敗したと思い、ふさぎ込むタイプ
*注 ちなみに本文献に登場する徳島常雄は右記のチャートの3と4を併せ持つタイプと思われる
徳島常雄が目覚めたのは、目を閉じたまま瞼を通して強烈な光を感じたからだった。
ハッとして目を覚ますとそこはロフトのような空間だった。
気付くと自分は椅子に座らされていた。咄嗟に四肢の不自由を感じ、見ると手足が半月形の金属のようなロックでがっちりと固定されている。
「ようこそ!」そう叫んだのは、常雄が驚いて目覚めた光の輪の中にいる人間だった。
あまりの眩しさに目を細めながら常雄は声がした方角をうっすらと見た。
そこには頭上から降り注ぐトップライトに照らされて、如何にもかくしゃくとした姿勢で立つ一人の男がいた。
「ようこそ!ワタシは免許返納公安局の乃木と申します」
面長で髪をオールバックに撫でつけ、堅苦しい黒縁メガネで政府公認とばかりに決め込んだ男はそう言った。
「免許返納公安局?警察じゃないのか」
「組織上は警察庁生活環境課直属ですが、警察ではありません」
常雄は自分が拉致同然に椅子に縛り付けられているのに改めて気付き声を荒げた。
「どういうつもりだよ、オイ。オレにこんなことして一体何をするつもりだよ」
「我々は、免許返納に関する手続き全般を執り行う組織です」
「何だ、ますますただの警察じゃないか。免許返納の申請書を受け付けて、ただその手続きを行う、ただそれだけじゃないのか?」
「ところがまるで違うんです」
「何が違うんだよ!」光の眩しさにも慣れ、公安局の乃木という男の表情がやんわりと見えてくるにつれ、そのメガネの奥の細い目が冷徹そのものに見える常雄は、尋常でない事態の予感を感じ、叫ばんばかりに声をいっそう荒げていた。
「でも、そもそもあなたはその免許返納を拒絶されているんですよね?」
乃木は、常雄の荒げた声に対抗するかのように、女のような高いトーンで常雄に向かってそう言下した。
「確かに・・それはそうだ。ワタシには免許を返納する気などない」
常雄は乃木に向かってそう明言したものの、手足が固定されているという自分が置かれている異様な状況を突然自覚し、さらに金切り声気味になって叫んでいた。
「まさか・・オレに拷問でもして、免許を返納させようというんじゃないだろうな」
「アハハハハ、まさかそんな」乃木は笑い飛ばさんばかりに上体をのけぞらせた。
「その逆ですよ」
「逆?」
「そうです、逆にあなたにパーマネントな運転免許を交付いたします」
「パーマネント?」
「はい、5年の更新など一切、不要です。あなたが一生を終えるその日がいわば免許の更新期限。終生、有効な運転免許です」
永久的な運転免許?そのまま鵜呑みにはし難いが、常雄はそれまでの恐怖心から、いささかの興味が湧いてきた。
「でも、ただ一つだけ条件があります」
「条件?」
「もしもその条件をクリアできなければ即刻、あなたの免許を没収します」
「何だよ?その条件てのは」
「ドライブです」
「ドライブ」
「そうです。あなたには運転免許の返納を賭けたドライブをしていただきます」
「・・・」
「もしも、このドライブでしくじればこれがあなたのラスト・ドライブになるのです」
乃木のその言葉と共に、ガクンという音がして、手足が固定されている椅子が、グルリと180度回転した。椅子がそこで停止すると目の前で閉じていたシャッターが開いた。
壮観な眺めだった。
そこはあらゆるといって云いほどの名だたる名車たちのショーケースだった。
ポルシェは言うに及ばず、フェラーリのレーシング仕様車から市販モデル、BMWにアルファロメオ、フォルクスワーゲンにジャガー、ロータスにフィアット、ビアンキ、シトロエン、それにランボルギーニといったスーパーカーまである。日本勢だって負けてはいない、三菱、ニッサン、ホンダにトヨタ、そして、そのどれもが車好きならヨダレが出そうなクラシックばかりだ。
「こ・・これに乗れるのか?」圧倒されていた常雄は思わず聞いていた。
「何といっても、ひょっとしてあなたのラストになるかもしれない大一番のドライブですから。あなたにはここに並んでいる中からお好きな車に乗っていただきます」
その瞬間、ガチンと音がして、常雄の手足を固定していたロックがはずれた。
常雄は立ち上がって、ふらふらと吸い寄せられるようにズラリと居並ぶ名車たちの森に分け入っていった。
「迷うな・・これだけの逸品揃いだと」
常雄はまるで車という人生の一世一代の買い物をする客のように、並んでいる名車たちを矯めつ眇めつ眺め感嘆し、時には撫でるように車体に触りながら進んでいった。
いつしか、その頭には若い頃、貯めた給料でようやく買った初めての車のことがよぎっていた。初めて買った車。それにその時、出会った、当時の加奈子を乗せてドライブのデートに出かけた甘い思い出。
うっとりとした陶酔の時間は尽きそうにもなかった。
その時、ピタリと足が止まった。
目の前にいたのは常雄の心の奥底に眠っていた獰猛なマシーンだった。
真っ黒なフォードファルコンGTベースの車体、いかにも屈強なタイヤを履いた頑丈な足回りに、前から見た面構えにはロボットのようないかめしいヘッドライトをたたえている。そして、フロントに長く伸びたボンネットのど真ん中には、エンジンルームにとても収まりきらない巨大なV8のターボエンジンがそのまま突き出て、如何にも凶暴そうなタービンがまるで獣の目のようにこちらを見据えている。
それはあの映画「マッドマックス」で、主人公のマックス・ロカタンスキーが駆って、暴走族たちを血みどろに蹴散らしていたインターセプターだった。
「こ・・これはあの・・マッドマックスの?」
「そうです。マックスが劇中で乗っていたインターセプターを細部に至るまで忠実に再現しました」
「ということはレプリカか?」
「もうここまで来るとレプリカとは呼べません。映画の世界そのままの実車そのものと言っていいでしよう」
常雄は自分の胸が動悸で高鳴っているのを感じていた。常雄がほんの青二才の頃、いっぱしの走り屋を気取っていた頃、猛スピードでオーストラリアの平原を突っ走るマックスのインターセプターを見て「ひゃっほー」と血を滾らせていた当時の自分の姿がありありと脳裏に浮かんだ。
今なら想像もつかないが、当時の常雄は若気の至りで、むしゃくしゃしたことがあれば酒を呷った無茶な飲酒運転を繰り返しては、それで憂さ晴らしをするような人間だった。そんな時、「マッドマックス」という映画と出会い、映画というストレス解消の手段もあることを知ったのだ。
常雄の耳に、自分の唾がゴクリと喉仏を通過した音が聞こえた。
「これに決めた」常雄は乃木の二の句もまたずにそう言っていた。
常雄の目の前にプロジェクターで投影されたスクリーンが現れた。
会議用のパイプ椅子に座ってそれを見る常雄はすでにレーサーが着るようなお仕着せのレーシングスーツを着用させられていた。とはいってもまるで自分がいっぱしのレーサーになったようで、それはそれで気分が高揚するものがあった。
「それでは今から今回のドライブのルールをご説明します」スクリーンにくっきりと影を映した乃木がそう云った。
すると、乃木の影が消えて真っ白だったスクリーンにマップのような図形が現れた。
その図形の真ん中に真っ直ぐな道のような図形が描かれていた。乃木がその図形を指差して言った。
「これは全長100kmにわたって特設された高速道路です。それも速度無制限のアントバーンのハイウェイです。今回のルールは簡単です。この一本道の高速道路を思う存分走っていただきます」
何い・・一本道を走る?常雄はそれを聞いていささか拍子抜けした。だが、常雄を見透かしたように乃木はこう言った。
「ただし、もう一つルールがございます」
乃木が図形いっぱいに斜めに描かれている一本道の右上方部を指差した。
「これがこの高速道路の入り口です」
次に乃木は一本道の左の下側の部分を指差して言った。
「そして、これがこの高速道路の出口です」
常雄は次に乃木が言う言葉を瞬間的に察してハッとした。
「徳島常雄様にはこの高速道路の出口から進入して、全長100kmのハイウェイを走り切っていただきます」
常雄は思わず叫んでいた。
「バカな!高速を逆走する。前から走ってくる車はどうすんだよ」
「対向車は勿論、前から前から次々とやって来ます。かわさなければ衝突します」
「バカ野郎!殺す気かよ」
「でも、安心してください」
「何だよ」
「このハイウェイを前から走って来る車はすべてオートドライブの無人車です。生身の人間が運転する車はあなたの車だけです。あなた以外の人間が傷つくことは一切、ございません」
冗談は止せ・・と常雄が言おうとした時、いつの間に寄って来たのか、屈強な二人の男に両脇をがっしりと掴まれた。
「何するんだ!」
叫ぶ常雄のみぞおち辺りに男の一人が膝打ちをくれた。常雄が「うっ」と前のめりになるや男たちは有無を言わせず常雄をインターセプターの方に引き摺って行った。
「オ・・オレはドライブなんかしないぞ・・」と言い終えるまもなく、常雄はいきなり、インターセプターの運転席に押し込まれ、シートベルトで固定されていた。
常雄はベルトをほどこうとロックに手をかけやみくもにストッパーをリリースしようとした。しかし、まるで接着剤で固定されているかのように一向に動く気配はなかった。
「いい加減にしろ!どういうつもりだ」そう叫んだ常雄が振り向いた時、乃木の姿はもうなかった。次の瞬間、ガクンと音がして常雄が乗ったインターセプターがゆっくりと動き出した。
「ああ、そうそう。もう一つ言い忘れておりました」
すでにパニックになりかけている常雄とは裏腹な、乃木の抑揚のない声がロフトの中のどこかに設えられたスピーカーを通して聞こえてきた。
「あなたが乗るそのインターセプターもまた完全なオートドライブでスピードのコントロールはすべて我々が行います。その車で唯一のマニュアル部分はあなたが握るハンドルだけです」
常雄は思わず目の前のハンドルを見た。気付くとインターセプターはゆっくりと進行し、小さな小部屋のようなガレージの中に入っていく。
インターセプターがすっぽりとそのガレージのコンパートメントに収まると、車がそこに進入した後部のガレージが音立てて閉まり、完全な密室となった。
常雄は車の中で、尚もシートベルトをはずそうと懸命にもがいていた。だが、それに追い打ちをかけるように再び乃木の声が狭いガレージの中で響きわたった。
「あなたの目の前にあるシャッターが開けば、そこはもうハイウェイの出口。つまりあなたの運命の扉です。走り出した途端、そのインターセプターは特別にチューンナップしたV型8気筒エンジンによってわずか数秒で初速100キロに達し、そのまま平均時速200キロでハイウェイを突っ走ります」
がっちりとシートベルトで固定された常雄の大きく開かれた目はすでに血走っていた。
「猛スピードで眼前からやってくる対向車を全てかわし、ハイウェイを走り切れるかは、すべてあなたのハンドルさばきにかかっています」
必死に抵抗し、わめき叫ぶ常雄の声は、完全デスプルーフ仕様のインターセプターのボディに封じこめられ、もう誰にも聞こえなかった。
その時、常雄が触りもしないアクセルが勝手に踏み込まれ、まるで獣の咆哮のような耳をつんざくエキゾーストノートがガレージの中に響き渡り目の前のシャッターが開いた。
そこはもうハイウェイの出口だった。スピーカーから最後の手向けの言葉のような乃木の言葉が発せられた。
「免許の返納をかけた最高のラストドライブを心ゆくまでお楽しみください」
アクセルが自動で踏み込まれ、車が貪るように路面を呑んでいくのを常雄は、ハンドルを縋るようにして握りしめ、みじろぎもせず見つめていた。
乃木が言うように早々と初速の100キロを突破したインターセプターの速度はすでに200キロに達していた。
もうやるしかない。これを走り切るしかない。常雄に選択の道はなかった。そう腹を括ってハンドルを握る手に力を込めた時、前方からまず一台目の対向車が現れた。
だが、常雄のインターセプター同様、速度無制限で走る対向車は、すぐに流れるように視界から消え後方へと消えた。しかし、それがよぎる瞬間、垣間見えたそのシルエットに戦慄が走った。
デスプルーフなんてものでは到底なかった。まるで戦車のような装甲を備えた改造車だった。どいつもこいつもこんな奴なのか?常雄がそう思った時、すでに目の前に次の対向車が迫っていた。
「うわ!」そう叫んで常雄はハンドルを切った。時速200キロもあいまっって僅かなハンドルの動きで車に凄まじいバウンドの衝撃が走る。
しかし、何とか対向車はかわしていた。その対向車も脂ぎったパイプがボディの全身に巻き付いた特殊な改造が施された凶暴なルックスのカスタムカーだった。
まさにそこはマッドマックスの映画の中の世界そのものだった。
と思う間もなく、まるで湧きあがるウェーブのように対向車が群れを成して現れてきた。
フロントバンパーに、ノコギリのようにエッジがギザギザになった鉄板をあしらったもの、全身に鋭いとげのような鉄の槍をまとったもの。そのどれもが常雄の車を真正面から粉砕すべく地獄の底から現れたような改造車だった。
ハリネズミのような車をすんででかわすと、常雄の車の後方でそれがふらついた瞬間、別の改造車と衝突し横転した。
ドンという衝撃音と共に爆発した鮮やかなオレンジの炎がバックミラーに瞬間、映ってすぐに消えた。気を取られる間もなく、矢のように前から走ってくる次の車を紙一重で躱す。もはやそこは戦場だった。
息が上がって呼吸が出来ない。でも、ハンドルは手放せない。動体視力を試されているような死の実験場だった。
車は次々に迫っていた。乃木が言うようにオートドライブで加速し続ける車は、ブレーキを踏んでもまるで反応しなかった。ただ、対向車を躱して走り続けるしかなかった。
だが、常雄は自分の中に昔の勘のようなものが芽生えているのを感じていた。次々と矢のように迫って来る対向車をわずかなタイミングで躱す。
いつの間にか自分がリズムのようなものを刻んでいるのに気が付いた。
若い頃、レーサー気取りで週末になると山道を高速走行して達成感や昂揚感を味わっていた自分の姿がいつの間にか蘇っていた。
これならいける。このハイウェイを走り切れる。
そんな自信が常雄の中に芽生え始めていた、
その自信通り、次々にやって来る対向車を常雄は躱していった。
全長100kmだったはずのハイウェイの長さの目盛りが急激にカウントダウンしていくのが自分にも分かっていた。
ゴールは目前だった。
その時だった。目の前に次の対向車が現れた。常雄はハッとした。
その車だけが、改造車でも何でもない、普通の自家用車だったからだ。そして、ハイウェイにも関わらず、その車は明らかに一般道路を走るような標準速度で走っていた。だから、まるでスローモーションの映像のようにゆっくりと自分に向かって迫るフロントガラス越しのドライバーたちの姿がくっきりと見えた。
それは加奈子や幸恵、そして幸恵の子供、常雄の孫の明、そして運転しているのはまだ初老にさしかかった頃、自分に「オジイちゃん、オジイちゃん」と言ってはまとわりつく、その頃、ヨチヨチ歩きだった孫の明が可愛くて仕方がなかった頃の自分だった。
皆が笑っていた。それもいかにも幸福そうにニコニコと。
だが、その幸福感をかみしめるように束の間、思いを馳せたその時、自分がその対向車をとても躱せないことを瞬時に悟った。
「あ」と声を上げた時はもう遅かった。
ズン!という強烈な振動を感じ、見ると対向車のフロントガラスが粉々に砕けていた。
まず助手席に乗っていた加奈子の首がけし飛んだ。次に娘の幸恵の顔面に砕けた部品がモロに突き刺さって目玉が飛び出した。
そして孫の明の頭部がパッカリと割れるとその中から脳みそが飛び出して赤黒い破片が血の尾を引きながら周囲に飛び散った。
常雄はその破片が長々と描く軌跡を目で追い、ただひたすら口を開けて自分が引き起こした惨劇を見つめていた。
でも、スピードは待ってはくれなかった。次に自分の番がやって来るのはすぐに分かった。
その時にはすでに車の外に放り出され空中を舞っていた常雄の鼻先にアスファルトのザラついた路面が迫っていた。
そして、すべてが暗転した・・・
「いかがでした?特設ハイウェイのラストドライブは」
乃木はそう言うと、ゆっくりとガレージに停まったままの漆黒のインターセプターに近付いた。しかし、その歩き方はいかにもぎくしゃくとして、その足が健常者のものではない、明らかに義足であることを物語っていた。
「とは言っても、車はこの車庫から1mmたりとも動いていない。すべてが車のフロントガラスやリアウィンドウに投射されたスーパーリアルなドライブシュミレーションの映像で、加えてその映像と絶妙にシンクロする振動や体感を生み出した車のコントローラーの賜物だったわけですが」
そう言って乃木が覗き込んだ車のコックピットには、恐怖が極まった表情が張り付いたままの常雄が口を開けたまま、ピクリとも動かず座っていた。
その口の端から唾液が垂れていた。しかし、息をあえがせて呼吸しているのか、上下する肩から死んではいないことが分かった。
常雄はただ、廃人のようになって身じろぎもせず座っている。
すると、少し、間を置いて乃木がポツリと言った。
「まだ三才でした。娘の沙也加があなたが運転する車に殺されたのは」
乃木が少し顔を上げ、遠くを見つめるようにして話し出した。
「私もまだ若かった。休日に妻と沙也加を連れてドライブに出かけた帰りだった。夕暮れ時の山道を走っていると、猛スピードで対向車線をはみ出して走って来る車が見えた。でも、その時はもう遅かった。次の瞬間、その車と正面衝突し、その衝撃で私は車の外に放り出された。そして妻と沙也加はひしゃげた車の中で死んだ。しかし、衝突した車は大破しながらもそのまま逃げて行方をくらました。運悪く周囲には監視カメラも目撃情報も一切なく、犯人はその後も逮捕されることなく。ただ、その時すでに実業家として一角の財を成していた私は、自分の富を駆使して自力で犯人の行方を追った。そして徳島常雄さん、あなたがひき逃げの犯人であったことを私は突き止めた。そして、あろうことか、その時、あなたは事故当時、まぎれもなく大量のアルコールを摂取した飲酒運転だったことも」
乃木は一息つくようにコックピットの常雄をチラリと見た。しかし、常雄はまだ止まった機械のように口を開いたままみじろぎもしていなかった。乃木は構わず続けた。
「私の財力を以てすれば、復讐心に任せて、あなたの息の根をすぐにでも止めて、死体から何から揉み消すことは簡単に出来た。しかし、私はそれをしなかった。それよりもその復讐の火種を育んでさらに燃え上がらせ業火に等しいものにする方を選んだ。ただ、殺すよりももっと苦しみを与えるものを、そして生きながらえて生き地獄のような苦痛を与える手段を考えた。その間、何も知らず生き延びたあなたは孫まで出来て幸福な晩年期を迎えた。結局、妻も娘も一瞬にして失った私はそれ以来、結婚もせず、家族も作ることもなく、ただ一人遠くからたった一人でそんなあなたの姿を見つめていた。そんな私の孤独があなたには分かりますか?」
同意を促されても常雄が何の返答もしないことは分かっていた。それを意に介さず、乃木は一件の最後のくだりを話した。
「その時、私には浮かんだんです。あなたにふさわしい復讐の方法を。そこで私は、免許返納公安局なる架空のNPO法人を作り出し、そこでワナを張ってあなたを待ち受けした。どんなに時間がかかっても構わなかった。いや、時間がかかればかかるほど、私の復讐心は私の脳内で増殖した。そして、あなたの家族がまんまと私が張った復讐の網に引っ掛かった」
いつしか大きく開かれた常雄の目からひとすじの涙が流れていた。乃木はそれを見てニヤリと笑って言った。
「あなたの網膜には永遠に自分の家族を殺した映像がエンドレスで映り続ける。そして、あなたの脳の襞に刷り込まれた恐怖のループはあなたが最後の瞬間を迎えるその日まであなたを苛み続けるでしょう」
すでに常雄の脳内では、鮮烈なクラッシュの瞬間が何度も何度も炸裂していた。そのループに終わりがないことを半ば悟りながら。
乃木はそれを見届けると常雄の乗ったインターセプターに背を向け、不自由な足を引き摺りながらゆっくりと歩き出した。
そして、最後にコックピットでおそらくそのまま最後を迎える常雄に向かってこう言った。
「人間は誰でも必ず老いる。そして、知覚も、運動能力も必ず衰える。その宿命は決して避けられない。そして人間は誰であれ、それを受け入れなければならない。でも、それを受け入れようともしない身のほど知らずの走る凶器には、これ以上ないお仕置きと言えませんか?常雄さん」
常雄の脳内には巨大なエンジンが奏でるエキゾーストノートの響きだけがいつまでもこだましていた。
過去の罪の償いは永遠に・・・