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勿忘草のティールーム  作者: 斎賀弓
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婚約破棄したいけど相手に隙がない

 

 バルコニーに置いた大きな鉢植えの葉が、いくつも重なって美しい薄緑の光を室内に届けている。午のさなかに仄暗い場所でじっと座っている微かな鬱屈も、瀟洒な刺繍の入ったレースカーテンを揺らす涼風に浚われていく。お気に入りの香草をブレンドしたお茶を、この世に一点ものの陶器に注いでそっと傾ければ、完璧。


 コンコン、コン。

 

 自信がなさそうに3度、扉に触れた人間の指の骨。

 にっこりと笑ってネヴィアは立ち上がった。


 「いらしてくださって光栄です。あら、午後の講義は現代史でしたの?」

 パタパタと、優雅さを保ったまま手際良く向かいの大窓を閉じながら、寄越された視線の先、たしかに自分は現代史の教科書とノートと、見慣れた青い装飾の入ったペンを持っている。その贈り主の顔を思い出して、つい吐き出したくなるため息を堪えて、ロマーノはどこかぼんやりとする頭を緩く左右に振ってみた。


 「すまない。考え事をしていたみたいだ。なぜこの部屋に入ってしまったのか…」

 それどころか、今自分がこの手で開いたはずの扉に通じる廊下すら、歩いた記憶がない。

(よっぽど重症だな…)

 重くなる頭痛に、眉間に皴を集めて、後ろ手にドアノブを探す。ここがどこかも、彼女が誰かもまったく分からないが、招待も許しもなく見知らぬ子女の居室で二人きりになるなど。


 (居室?)

 虚を突かれたように、ロマーノの頭が現実へ戻ってきた。

 ここは、王都で唯一、爵位の継承者たちが男女共に通える王立学園。裕福な生徒が家の財を投じて、社交場たるティールームを設けた、といった話は何件か聞くが、そのような令嬢が供も連れず、一人きりで居るのはおかしい。テーブルの上を見るに、ティーポッドは小型で、カップは2つ。その内、扉側の1つはソーサーの上に伏せられていた。


 先ほどまで居たはずの大講義堂の半分ほどにも感じる広さの、緑がかった不思議な空間に立ち尽くして、ロマーノは夢でも見ているような気持ちになった。


 「どうか、楽になさってくださいね。どうぞこちらへ」

 穏やかな微笑と手振りに促されて、操られたようにオフホワイトのソファへ腰を下ろす。その途端、心や頭に溜め込んでいた疲れがどっと溢れて、それがそのままどこかへ吸い取られていくような、抗いがたい安堵を感じた。あまりに劇的で、ゾッとするほどに強い脱力感。

「それで、今日はどんなお話がございますか?」

 味方の顔で、親しみを込めて問う見も知らぬ少女を、ほとんど眠気に負けそうな幼児と同じ表情でロマーノは見上げた。

 

 「ジュリアンヌにはおよそ瑕疵というものがない。」

 告白は唐突に始まった。

「5歳で互いの顔をその家名と共に親から躾けられた時から、彼女は完璧だった。同年代のどの子女よりも安定したカーテンシー、屋敷に呼び集めた中から自分で選んだという青薔薇のリボンは金の巻き髪によく映えて、俺が古代の医者の名前を出しても異国の革命家の伝記を見せても、教師よりよほど流暢に話を繋げてくる」

「すばらしいかたですのね」

「いっそ憂鬱になるほど優秀なレディだ。」

 

 皮肉げに口端が歪んだ苦笑に、ネヴィアはゆっくりと自分のカップをソーサーへ戻した。

「つまり、あなたは国中の人間が羨むほどに理想的なご婚約を結ばれながら、その片翼たるジュリアンヌ様に対して、あまり良い感情をお持ちではいらっしゃらない」


 コトリ、という硬質な音を、ロマーノは諦念と共に聞いた。誰にも話したことはない。だが、何の落ち度もない婚約者を一方的に疎んでいるなど、聞き苦しいと蔑まれて当然だ。

「よくある話でございますね」

 明るい少女の声を聞いて、思わず顔を上げる。


 「そも、己が一生を共にする伴侶を、親が選んで決めてしまったのです。自立心の強いかたや、大人の不手際が目につきやすい時期には、それだけでも自然と反発心が湧こうというもの。

 この場では私から具体的な名前をお出しすることはできませんが、そういった不承服、不愉快を抱えていらっしゃるかたは、多うございますよ」


 それを聞いて、ふっと心が軽くなったのをロマーノは感じた。


 「その上で、敢えて問います。あなたはジュリアンヌ様を、なぜ厭うていらっしゃるのですか?」

 厭う、という言葉がはっきりと耳に届いて、それは胸の奥の方まですんなりと落ちていった。深い納得があった。

 単に『他意なく慕えない』、という程度の不審ではない。この躊躇の裏には、もっと多層的に、拭いがたい嫌悪感があった。

 ジュリアンヌは美しい女だ。常識があり、身なりや人品も清く、知性がある。およそ、世で理想とされるに相応しい淑女。そこに異論はない。ロマーノとて、彼女が家族や友人に穏やかな笑顔を向けている時、不意に見惚れることがある。はて、あれはどこの令嬢であったろうとまで心を逸らせて、そして沈黙する。

 視線に気づいたジュリアンヌが、ロマーノを見て瞳から温度を失くした瞬間。

(ああ、『これ』は俺の婚約者だった。)

 数分前に恋に落ちたかと思った相手に、一分の隙もなく腰を折って頭を下げられ、そういう絶望を何度も味わった。

 

 「あれは、俺の前でだけは決して笑わない。画家に描かせたなら完璧な笑顔になるであろう角度で、口許を歪めて目を細め……あんなものが笑顔であるものか。あれは獣の威嚇と同じだ。

 礼節を知る淑女の形をしている。それでもあの女の瞳は、必ず命を獲ると決めた小鼠の挙動を酷薄に監視する猛禽、そうしてあの唇は、可憐な花弁と同じ慎ましさ、華やかさで、人の生き血にまみれる瞬間を待つ鋭く細い牙を隠している。

 あの女がもう幾人も手にかけた異常者だと言われて、国中の老若男女から正気を疑われても、俺だけは信じる。

 彼女は、たとえ俺が目の前で切り裂かれ、息絶えようとも、眉一つ動かさずにそれを見降ろしているだろう。」

 

 ネヴィアは何も言わず、しばらく暗い目で哂う青年を眺めた。

 

 「――では、あなたはどうなさりたいの?」

 

 顏を上げたロマーノは、一切の迷いのない声で己の望みを口にした。

「この婚約を破棄したい。あの女とこれ以上縁が続くのは危険過ぎる。」


「何か実際の危険を感じたできごとはございました?」

「ない。我々の交際は、穏当そのものだ」

「では、どのような理由で、両家を説得するおつもりですか?」

「そのような材料はない。十年間どれだけ探し考えても」

「……困りましたね」

「ああ。だから一つ、案がある」

「…案、とは?」

「俺は君を、この部屋の外で見たことがない。学園のどこでも」

 ネヴィアは黙って微笑んだ。ロマーノも微笑んで続けた。

「いつか、君をこの部屋の外で見かけたら、実行しようと思う。」


 (思っていたより肝の据わった『王子様』でしたねぇ)

 少し困ったな、と思いながらネヴィアは小首を傾げた。

「どのような案かは、教えていただけないのですか?」

「事前に話してしまえば、君に共謀の疑いがかかるぞ」

「……穏やかではありませんね」

「仕方がない。実際に、俺の胸中はもう何年も『穏やか』ではなかった」

「これが恋のお話でしたらよかったのに」

「ある意味で、あいつ以上に俺の心を乱す女はこの世にいない。」

 

 覚悟を決めて、すっきりとした面持ちで対面に腰掛ける貴公子に、ネヴィアは小さく息を吐いて。

 流れるような自然な動作で、伏せたままだったカップを上向け、ポッドのブレンドティーを注いだ。

「お心が定まったようで。幾許かのよすがに、あなたとあなたを愛する人の幸運を、お祈りさせてくださいませ」

 その言葉と同時に勧めれば、ロマーノは杯を受けて飲んだ。


 目覚めた時、ここでの記憶は失っている。


 「ああ、厄介な。」

 ひとりきり、斜陽で斑模様にどす黒くなる部屋で、ネヴィアはひっそりと俯いた。

 

 

 

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