第一章6 『私に任せて』
一体どうしたものだろうか。
やっとの思いで森を抜け出して、漸く人里を見つけたのだが、その人里は現在ルイたちがいる位置から随分と離れていた。
更に、状況を悪化させる道具として、眼下には高すぎる崖が広がっていた。
遠くに見える街を見て、現在地が分かる可能性があったのだが、あの街には一切見覚えがなく、未だ現在地が分からずじまいといったところだ。
「とりあえず、あの街に向かうか…」
「そうだね」
あの遠くに見える街へ行き、現在地を聞き出して、あわよくば助けてもらいたい。上手くいくかどうかは分からないが、詳しく事情を説明すれば助けてくれるだろうか。
「無理だな…」
そんな甘い思考を放棄して、ルイは現実に目を向けた。現在ルイとシエナが置かれた状況は意味不明そのものだ。先日まで城郭都市リーカナにいたはずなのに、急にシエナと共にこの森に転移したのだ。こんな話、誰が信じるのだろうか。
「なぁシエナ、あの街に行って、街の人に助けを求めるとしたらどうする?」
「私たちの今の状況言ったとしても、絶対信じてくれないよね」
「だよな、傍から見たらすげぇ怪しいやつらだからな」
「うん、だから街の人に助けを求めるのはちょっときついかもね」
シエナに訊いてみたが、ルイと同じ考えであり、街の人に助けを求めるのは無理だと結論づけられた。
嘘偽り無い話なのだが、やはり傍から見ると戯言を言っているとしか思えない。
「はぁ…」
一切希望が見いだせず、ルイは落胆を吐き出そうとため息をついた。
そして顔を上げて、前方に広がる広大な景色に目を向けた。眼下にある崖から再び森が広がっており、その奥には城壁に囲まれた街が見えている。
「あそこまで歩きかよ…」
森の中を歩いて結構な時間が経っており、漸く希望の光が見えたと思ったらこのザマだ。やっとの思いで山を登りきったら、目の前に再び山があった気分だ。
そんな絶望感に駆られて、ルイは愚痴を漏らした。誰しもが絶望するであろう状況だが、ルイの隣にいるシエナは───、
「まぁまぁ、頑張っていこう!」
シエナは有り得ないぐらい楽観的な態度で、ルイを励まそうとしてきた。
「なんでそんな楽観的なんだよ。おかしいだろ…」
「私が普通だし。逆にルイくんがおかしいんだよ。ルイくん兵士でしょ?だったら体鍛えないとじゃん。だからいっぱい歩いて足に筋肉つけるいい機会じゃん」
「だから楽観的すぎだろ!?」
気持ちが落胆しきっていたが、シエナのあまりの楽観さにルイは思わずそう叫んでしまうが───、
「まぁでも、シエナの言ってることもいいな」
こんな状況だからこそ楽観的でいれば、少しは気持ちも和らぐだろう。そこは素直にシエナを見習って、ルイは気持ちを落ち着かせた。
「こんなんだけど一応俺も兵士だからな。足を鍛えるいい機会だな」
「でしょ?そう気持ちも暗くしちゃったら駄目だよ?常に明るくしなくちゃ」
「だな、ありがとう」
シエナの教授に感謝を伝えてから、ルイは気を取り直して───、
「よし!行くかっ!っていっても早速崖なんだよな」
いざ出発となっても一歩先に歩けば、これまで続いていた地面が存在せず、代わりに無の空間が存在している。
一歩でも足を踏み出せば、すぐさま崖の終点へと真っ逆さまに落ちていく。
そして崖は非常に高く、もしここから落ちてしまえば、確実にルイは原型を留めずして死んでしまう。
「仕方がない…回り道するか……」
眼下に広がるのは崖であり、これ以上前には進めない。余計に時間が掛かってしまうが、やむを得ない。
ルイは回り道をしようと後ろを振り向き、再び森の中に入ろうとすると───、
「えっ?飛び降りないの?」
不意にそんな言葉がかけられた。シエナの発言を咀嚼して、何とか理解しようとするが無理だった。
こんな高い崖の上から飛び降りようだなんて、馬鹿でも考えるはずがない。しかも、冗談を言っている訳ではなく、本気で疑問に思っている様子なのだ。
「いや…あのさぁ、ここから飛び降りれるとでも思ってる?こんなに高いんだよ?もし飛び降りたら絶対無事じゃすまないよ?」
「大丈夫!私に任せて!」
ルイは子供に言い聞かせるような優しい口調で、そう言ってみたが、シエナの心には全く響いておらず、何故か胸を大きく張って、自信満々に自分に任せるように言ってきたのだ。
「はぁ…どうすんだよ」
ため息を吐いて、心底呆れた様子でルイはそう投げかけた。至極当然たる疑問だ。崖の下にはクッションとなる川など無く、硬い地面しか存在していない。安全に崖を降りる為に必要となる縄なども所持していない。
故に、安全に崖を降りる手段は何一つないのだ。
シエナは自信満々にそう言い張るので、何かしら良い手段を思い付いたのだと予想されるが───、
「とりあえずさ!私に掴まってよ!」
「は?」
シエナの意味不明な発言に、ルイは開いた口が塞がらなかった。
だってそうだ。シエナに掴まったところで何も変わらなく、ただ一緒に崖を落ちて死ぬだけだ。
ここまでいくと、馬鹿という枠を容易に越しており、既に手を付けられない状態になっている。
「え、いやぁ…掴まるって…どういうこと
…?」
「いいから!私に掴まってよ!」
シエナの発言に困惑を極めていると、シエナは一歩詰め寄ってきて、強い口調でそう言ってきた。
「あぁ…わかったよ」
シエナの気迫に押され、ルイは渋々了承したのだが、一体何処を掴めばいいのか、もっと具体的に言ってほしかったものだ。
非常に迷う。手があやふやなり、シエナの体に手が付けられない。
肩か、腰か、背中か、腕か、胸か、胸は駄目だ。自然と胸に視線がいってしまうのを何とか堪えて、ルイは掴む場所を探し続ける。
何処を掴めばいいのか迷っていると、痺れを切らしたシエナが一歩詰め寄ってきて───、
「早く掴まってよ!」
シエナは腰に手を当てて、怒ったような強い口調でそう言うが、ルイは「いや」と前置きしてから、心の内を明かした。
「いやぁ…あのさ、どこを掴めばいいのか分からなくて…ね?」
一概に体に掴まれと言われても、どの部位を掴めば良いか分からない。そして相手は女性である為、とても体に触れる行為は躊躇される。
そのため、ルイは血眼になって掴む場所を探しているのだが、何処を探しても見当たらないのだ。
その事をシエナに言うと、シエナは「あぁ」と納得したような素振りを見せて───、
「なら私に抱きついてきてよ」
「───ぇ?」
シエナが特大級の爆弾発言を出したので、またしても開いた口が塞がらなくなってしまう。
「いや…その…だって…抱きつくっていうのは…ね?ちょっと…ね?」
掴むならまだしも、抱きつくと言うならば余計に躊躇される。ルイは頬を少し赤らめながらそう言うが、シエナはまた一歩詰め寄ってきて───、
「いいから!早くしてよ!時間立っちゃうでしょ!」
シエナは腰に手を当てて、足踏みをし、先程よりも強い口調でそう急かしてくる。
シエナの言う通り、いつまでもシエナの体を掴むのに躊躇していては時間の無駄だ。早いうちに、あの街に着いていたいので、こんなところで無駄な時間を過ごしていられない。というわけで───、
「わ、わかったよ…」
時間の無駄であるのと、このまま渋り続けていると、シエナが激怒する未来が見えたので、ルイは仕方がなく了承する事にした。
すると、シエナはあと一歩でも後ろへ進んだら、崖から落ちてしまうほど近い距離に立ち、崖に背中を向けた。
「はい!早く!」
そして、シエナは両手を大きく広げて、ルイが抱きついてくるのを待っている状態となった。
「はいはい…」
ルイは頬を真っ赤に染めながら、シエナの元にへと進み、背中に手を回した。
シエナの背中に手を回すと、シエナの両手もルイの背中にへと回され、完全に抱き合っている状態になった。
体が完全に密着しているため、シエナの体温が伝わってくる。それに、シエナの体からは、花のような良い香りが発せられている。
花のような良い香りが鼻に入った瞬間、急にルイの鼓動が早くなっていく。
心に落ち着けと言い聞かせても、全く無意味であり、逆に鼓動が早くなっていると錯覚してしまうほどだ。
このまま抱き合い続けていると、やがて心臓が破裂して死んでしまいそうだ。
「────」
興奮した心を落ち着かせようと、ルイは大きく息を吸った。その瞬間───、
「それじゃあ!行くよっ!」
「え?」
シエナはルイと抱き合った状態のまま、崖に身を投げ出した。あまりにも唐突な出来事に、ルイは呆けた声を漏らした。
ルイの認識が遅れても尚、時間は刻々と進んでいき、そのままルイとシエナは崖の下へと転落していく。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
ルイは自分が崖に転落していると認識し、恐怖で悲鳴を抑えきれずにいた。
頭から真っ逆さまに落ちていく感覚を全身に味わい、全身の毛が総立ち、体中にある内蔵たる内蔵が、浮いているような感覚に襲われて、強い吐き気がルイの胸を襲う。
あまりの恐怖心に、思わずルイは目を瞑ってしまう。逆にその行為が、いつ地面に到着するのかを不明にして、恐怖心を増大させる行為だと分かっていても、目を塞がずにはいられなかった。
ルイは胸の中にいるシエナを強く抱きしめていた。早くどうにかしてほしいと言う懇願だったのかもしれない。
「ふふっ」
ルイの強い抱擁を受けたシエナは、転落している最中とは思えない余裕ぶりで、含み笑いをした。そして───、
「ほら、やっぱり大丈夫でしょ?私に任せてって言ったじゃん」
シエナのその声が聞こえたと同時に、ルイは困惑に脳を埋め尽くされていた。先程までルイとシエナは抱き合った状態のまま、崖の下へと転落していたはずだ。
だが、今は何故か浮遊感が完全に消滅しており、体に地面の感触が伝わっていた。
恐る恐る目を開けると、何故かルイは地面に倒れていたのだ。
「ほらね?大丈夫だったでしょ?」
ふと、そんな声が上から掛けられた。上を見ると、シエナが笑顔でルイの顔を覗いていた。それと同時に、ルイは自身の目を疑った。
「─────ぇ?」
シエナの顔を見上げると同時に視界に映ったのは、目の前に佇んでいる高い崖だ。それは先程までルイがいた場所であり、そして何故か今、ルイは崖の下で倒れているのだ。
理解が追いつかない。否、追いつくはずがない。何故ルイは無事な状態で崖から降りられている。
崖の下から上の方を見上げると、軽く二十メートルほどの高さだと推測される。
こんな非常に高い崖から飛び降りたら、無事でいられる筈が無いのにも関わらず、ルイの体には怪我のひとつも無い。
シエナの体も、パッと見た感じだと体に怪我もなく、完全に無傷な状態であった。
ただ一緒に崖から飛び降りただけだ。それなら、確実だ二人とも無事で済まないだろう。だが、こうしてルイとシエナは無事に崖から飛び降りられているのだ。
「なんで俺たち無傷なんだよ…こんな高いところから飛び降りたのにさ…」
崖から飛び降りる前に、シエナは自分に任せるように言っていた。ならば、シエナが何かしらの行為を行ったのは間違いない。
そんな疑問をシエナにぶつけたが、シエナは指を立てて、それを口の前に置き───、
「ひ・み・つ!」
「秘密ってなんだよ。ちゃんと教えてくれよ。すげぇ気になるんだけど…」
無駄に一語一語を強調しながらそう答えてきた。だが、ここで諦めるほどルイは単純では無い。頭の中のモヤを解消させるため、再度シエナに疑問をぶつけるが───、
「もぅ、女の子って色々秘密を抱えている生き物なんです!だから、そんなに女の子の事情を追求したら嫌われちゃうよ?デリケートな生き物なんだからさ、大切にしないといけないよ?」
シエナは眉を顰めながら腕を組んで、怒り口調でルイに説教を始める。
男であるルイには到底理解出来る事では無いが、ともかく───、
「あぁ、もう分かったよ。ごめんごめん」
シエナの説教が一生続く予感がしたので、ルイは早いうちに謝罪しておくことにした。
「分かってくれたのならそれでよし。次からは気をつけるように」
「はいはい」
疑問は晴れないままだが、これ以上追及すると、確実に面倒臭いことになるので、辞めておく事にした。ルイは服に付いた土の汚れを手で払ってから───、
「まぁいいや、無事崖から降りられたんだし。早く行こうぜ」
「うん!」
ルイがそう急かすと、シエナは大きな声で返事した。その声が森中に響き渡ったと同時に、ルイとシエナは遠くにある街を目指して、再び森の中を歩き出していた。