広島県呉市
広島県呉市は、明治時代以降海軍と共に発展をしてきた。明治22年呉鎮守府が開庁。さらに、戦艦大和等を建造した日本一の海軍工厰が置かれた。最盛期には40万人の人口を擁したが、昭和20年には米軍の空襲で、軍港・工厰共に壊滅。市街地も廃墟と化した。
GHQの占領に伴い、呉は軍港から貿易港へ。海軍工厰は、臨海工業地帯へと転換。そして、昭和29年の自衛隊法施行に伴って「海上自衛隊呉地方隊・呉地方総監部」が発足した。
戦後一時の中断を余儀なくされた呉基地だが、それでも長きに渡る西日本の守りの拠点であり、戦前からの歴史の繋がりを感じざるを得ない。呉と言う町は帝国海軍軍人、海上自衛官にとっては、聖地の様なものである。それは、今も昔も変わりがない。
西の呉地方隊は東の横須賀地方隊と共に海上自衛隊の二枚看板である。勿論、佐世保や舞鶴に大湊と言った軍港も重要であるが、いずれの軍港も帝国海軍の時代から継承されたものである。
最も呉もその昔は軍港ではなく、普通の港であった。大きな船でも接岸可能な好立地条件にあった呉では、元々造船・海運業は盛んであった。そう言った背景もありながら、呉では海軍の軍港と言った新しいスタイルを見出だした。
それは、開国後の日本人が最も力を入れた一等国に成るためのステップであった。一流の海軍力こそが、日本の富国強兵の政策を推し進めた。その結果が日清・日露戦争であり、破滅的な日米戦争へと突入していった。結果的には、破れたが日本はいずれ遅かれ早かれ何処かで、米国とぶつかりあう宿命にはあった。
だから、第二次世界大戦が失敗の戦争だったと言う様な類いの議論はまるで意味がない。その日本人が世界に進出する起点となったのが、広島県呉市であり、赤レンガのある江田島であっただけの事である。我々日本人がその事に全く無頓着な事は残念な事である。