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Red brick story~赤レンガの青春~  作者: 佐久間五十六


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米内光政海軍大将

 米内光政海軍大将は、海軍兵学校卒業(125人中68番目)で、条約派として活躍した日本海軍の軍人である。目立たないが、おおらかでその風貌から"金魚大臣"と言うあだ名をつけられた程である。2・26事件の時には、横須賀鎮守府司令長官であったが、後に2ヶ月だけ連合艦隊司令長官を務め、予備役となるが、昭和12年から海軍大臣と内閣総理大臣を経験した手腕が買われ、昭和19年7月からは2度目の海軍大臣に就任した。

 昭和20年11月30日、日本海軍最後の日に、最後の海軍大臣として、挨拶した時には、「では皆様さようなら。」と一言だけ喋って終わった。

 口下手で、東北訛りを気にしていた米内大将だったが、昭和天皇からは高評価で、最後の最後で我を出す。その様な点で米内大将は、日本海軍を象徴する様な存在であった。

 国益よりも海軍省の省益を重視していても仕方の無いとする、陸海軍統一問題で米内大将は、着目を浴びる事になる。

 井上成美海軍大将(盛岡藩出身)との名コンビは有名で、歌が上手く東北人らしく、口数が少なく首相演説なども相当に短いのが、米内大将であった。

 「見るも良し、聞くも良し、世の中には言わぬが花と猿はいらない。」

 「ねそふりをしても動くが猫のみ。」

 と言う句が残されている。そんな米内大将の意向もあって、日本海軍は解体されたが、その気風や美風を後世に残す組織の創設に尽力した。

 つまりは、海上自衛隊と言う新組織の根幹精神に残した。それはつまり、日本海軍のDNAを絶やしてはいけないと言う米内大将の強い意向があった。実際、陸空各自衛隊よりも、海上自衛隊は日本海軍の伝統を残していて、基地や施設も海上自衛隊は同じ場所を利用している。

 少なくとも海上自衛隊幹部候補生学校には、色濃く伝統が残っている。"赤レンガ"には米内大将が残したかった、日本海軍の気風や美風が残っている。戦後の海軍再建に尽力した米内光政海軍大将の事は、"赤レンガ"を語る上では欠かせない人物である。

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