四日目(3)
気づけば、辺りにいた他のアンドロイドたちの姿も見えない。
焼け野原に残されたのは、伊香巣と間歩隅と俺の三人だけ。
君は夢でも見ていたんだよと諭されれば、ああそうかい、と返事をしてしまいたくなる。
アンドロイドだったケイタは破壊され、人間である俺たち三人が生き残った。
結果だけを切り取ってみれば拍手喝采ものと思えてしまうからこそ、余計にたちが悪い。
疲れがどっと押し寄せてきて、その場に腰を下ろした。
まだ地面に残る熱に触れ、自らの生を改めて実感する。
「アンドロイドも一枚岩ではないみたいだね」
間歩隅は川に浮かんだ魚の死骸を見て、「今晩の食事は焼き魚かな」と冗談交じりに呟く。
一号、二号と呼ばれたアンドロイドはケイタの暴走を看過できなくなってやって来たと言っていた。彼女たちは島の管理者のような高い地位に就くアンドロイドで、俺たち人間に全く危害を加えることなく去っていった。それはつまり間歩隅の言うようにアンドロイドが一様に参加者である人間を殺すことを目的にしているわけではないということだ。彼女たちも時と場合によっては人間を殺すこともあるのかもしれないが、それよりも島の安全を守る方が重要事項だという感じだった。
島ではすでにアンドロイドが社会を形成している。
この考えは間違っていないように思えた。
「とにかく僕たちはあと一日をどうやって生き残るのか考えないとね。先ほどの火災でこの辺一帯をうろついていたアンドロイドも燃え尽きたというのが僕たちにとっての理想ではあるけれど、彼らは頑丈だし、火に巻き込まれたくらいではおそらく壊れない。工場もああして無事だしね」
木々が焼き払われ、灰色の四角い塊が無骨に立っているのがここからでもよく見えた。
「慎重に行動するに越したことはないから、ここは彼らがまだ周辺をうろついて僕たちの命を狙っていると考えるべきだろうね」
俺たち三人は工場とは反対方向に移動を始めた。焼け野原で視界が開けた状況では奴らに見つかる可能性も高まっていたが、逆に木々に隠れていた近くの岩壁が顕わになって簡単に洞窟に辿り着くことができた。
二人とも洞窟で休むのは初めてなのか、間歩隅は洞窟の奥にあったコンセントを物珍しそうに眺め、伊香巣は入り口のシャッターを下ろしてはまた上げてと何度もスイッチを押している。
日も暮れてきたし、ICP最後の夜はこの洞窟で休むとしよう。晩御飯について、爆弾で焼けた魚の死骸を食べるのは気が進まなかったが、かといって辺り一面焼け野原で食料を調達できる状況ではなかった。間歩隅の冗談をもはや実行に移すしかないのかと一人で苦悩していると、シャッターの開閉を終えた伊香巣が「晩御飯にする」と懐からおむすびを取り出した。
「待て、待て、待てーい!」
驚愕のあまり何やら時代劇じみた言葉遣いになってしまったが、とにかくこの状況でおむすびが出てくるとは一体どういうことだ。拉致されたときに所持品はすべて没収されたため、この島に来る前にたとえ懐におむすびを忍ばせていたとしても、今この場所で取り出せるはずがない。まして四日前のおにぎりなど腐っているだろう。
あまりにも目の前のおにぎりが美味そうで、思考がハイになっているのが自分でも分かる。
「二人の分」
しかも、おにぎりは一つだけではなかった。
伊香巣、イカしてる!
すんでのところで思いとどまったが、たとえ俺がその痛々しいダジャレを口に出していたとしても、全人類の誰一人として失笑する奴はいなかったに違いない。万が一にもそんな奴がいたとしたら、俺の手がそいつのとんがった口を引きちぎって食べていただろう。それほどまでにこの状況で米を口にできるというのは感極まる出来事であった。今まで生きてきた二十年間で一番美味かった食事と言って相違なかった。
ぺろりとおむすびを平らげて幸福感に包まれた俺は、しばらく放心した後、「ありがとう、美味かった。ところで、さっきのおにぎりはどうしたんだよ?」と膝の上で本の表紙に手を添えてぼんやりとしている伊香巣に尋ねた。
「もらった」
本の小口に親指を添えて、離して、を繰り返す伊香巣に、「誰から、どこでもらったんだ」と重ねて聞いた。
「アンドロイドから、村で」
続けて説明を求めると、アンドロイドたちの村を訪ね、そこでおにぎりをもらったと言う。
アンドロイドの村に行くなんて、自殺行為だろ。
「お世話になった村は小さかったけれど、住んでいたアンドロイドは皆、寛容だった。さっきケイタを取り押さえた彼女たちもそうだったけれど、別にこの島には殺人を目的とするアンドロイドばかりではない。私たちが三日目にアンドロイドたちに襲われたときも、別のアンドロイドたちが助けてくれた。彼らは美味しい食事と快適な住まいを提供してくれた。……ケイタは今朝、私に戦いを挑んできた。村にはできるだけ損害を与えたくなかったから、ケイタを拳銃で牽制しつつ村からの距離を稼いでいたところで、孝允と再会した」
俺たち人間に対して好意的に接するアンドロイドもいたのか、と喜ぶべきなのだろうが……胸の奥底で、ぴちゃり、ぴちゃりと恐怖が滴っていた。機関が多様な思考を有するアンドロイドの製造に成功しているということは、アンドロイドの支配する世界の実現が間近に迫っていることを意味していたからだ。
こつ、こつと、地面から歪に飛び出た石を蹴っていると、「九戸君、面白いものを見つけたよ」と洞窟の奥から間歩隅の呼ぶ声がした。
ちょうど膝くらいの高さに、手のひらで覆い隠せるほどの小さな壁画が描かれていた。
一匹の青い兎の周りで輪を作って踊る赤い兎たち。
「……これは」
「ICPに以前参加した人が描いたのか、あるいは――アンドロイドが描いたのか」
アンドロイドが絵を描く。
俺の知る限りでは考えられないことだったが、この四日間でアンドロイドの進化と真価を目の当たりにした今となっては、もはや俺の知識や常識が無用の長物と化していることを認めざるを得ない。
アンドロイドが絵を描いたとしても不思議ではない。
曖昧な結論しか出せない自分の浅慮さに嫌気がさしたが、どうしようもなかった。
それに――。
「この絵は何を表しているのだろうね」
そう。それが分からないことがますます自らの愚かさを浮き彫りにして、心をざわつかせた。大学受験をリタイアした俺は、大学なんて無価値の場所で無駄に時間を費やす同年の奴らを馬鹿にして、そうでない道を歩く自分こそが大成するに違いないと優越感に浸ろうとした。ゲームの才能があるからプロゲーマになるなんて一丁前の口を利いて、ゲームに逃げていた自分を家族の前で正当化したり、芸術を学んで広い視座を身に着けるんだと自分でも何を言っているのかよく分からないままにオンライン美術館で絵画を観まくって、絵画の深淵を覗いたと自分に酔いしれたり。そうやって、自分という柱を粘土で必死に塗り固めていた。そうでもしないと、あっという間に崩れてしまうと思ったから。
けれど、今こうして一枚の絵画を目にして何も理解できないということは、絵画も含めてこれまで学んできたと思っていたことはすべて、学んだ気になっていただけなのだ。
俺は無能だ。
分かっていたんだ。誰に指摘されるまでもなく、本当は自分自身で気がついていた。有能であれば大学受験に落ちるはずがないし、思慮深ければプロゲーマになるなんて嘯くはずがないし、学があれば――こうして絵画の前で呆然と立ち尽くすこともない。
「同じ兎だけれど、青と赤で塗分けられている点は気になるよね。それに、青い兎が一匹だけで、赤い兎がたくさんいるというのが何を表しているのか……待てよ、ひょっとしたら――」
「何だっていいじゃないですか!」思わず大声で口走ってしまう。
伊香巣がびくりと体を震わせたのが分かった。
軽々と思考を積み重ねていく間歩隅を見ているとますます自分が惨めに思えてきて、ドロッとした感情が溢れ出すのを止められなかった。
「……そうだね。今は最後の一日をどう過ごすのか、それを考えないとね」
俺が彼の立場だったら、果たしてこれほど達観した振る舞いができただろうか。
問うまでもない。
俺だったら間違いなく何も言えずに沈黙を返していた。
間歩隅に背を向けて洞窟の入り口に向かって走り出す。間歩隅の呼ぶ声を振り切って入り口近くのスイッチを押し、開くシャッターを潜り抜けた。
夜の荒野にぽつんと浮かぶ月は眩しかった。
走っても、走っても、月は追いかけてくる。
瑞々しい葉を失った木々が、子供たちを返してくれと叫んでいた。
焼けたぼろぼろの体で、必死に両手を上げて。
横を通り過ぎるたび、風の音に交じって彼らの体が崩れる音がする。
ひゅー、からから。ひゅー、からから。
自分の体から、同じ音が聞こえ始めた。
ひゅー、からから。ひゅー、からから。
風がこの身を攫ってはくれないだろうか。
そうすれば、いつまでも風の音に酔いしれるのに。
足を止め、風の音をそっと手放す。
背後から近づいてくる足音に振り返ると、伊香巣がパンッと俺の頬を叩いた。
驚いた。彼女が追いかけてくるとは。それに、突然頬を叩かれたことにも。
「逃げるな」
彼女は体の前で本をぎゅっと両手で抱きしめる。
「私は閉じた世界が好きだ。隙さえあれば閉じた世界に逃げ込んで生きてきた人間だ」
胸元の本は今にも潰れてしまいそうなほど小さく見えた。
「向き合うことを忘れてしまうんだ。逃げてばかりだと。そういった人間は遠からず憂き目を見ることになる。……ケイタだって、私がきちんと向き合っていれば、救えていた」
背後に浮かぶ月が、彼女の輪郭を切り取って、焼け焦げた土に影を落とす。
「昨夜、ケイタは私に言った――いじめられている子を見かけたらどうしたらいいか、と。そのときはまだケイタがアンドロイドだと確証があったわけではなかったし、むしろそんなことを聞いてきたケイタはやっぱり単なる小学生で、学校で気になっている出来事を話しているだけなのかもしれないと思いもした。……これは言い訳だ。分かっている」
彼女に、自虐的な笑みは似合わない。
「私は何て答えたと思う? 《いじめている奴が悪い。そいつを懲らしめるべきだ》って大人ぶった他人事のような答えを返したんだ。ケイタの話を詳しく聞くこともせずに。……正直なところ、踏み込んだ話をするのが面倒だった。これまでも何か煩わしそうなことがあれば閉じた世界に逃げ込んできたから、そのときもすぐに読書に逃げたのを覚えている。逃げるのが当たり前になると、目の前の出来事と面と向かうことをしなくなる。周りの出来事が流れゆく川の水と同じく代わり映えのしないものに映ってしまって、分岐点を見極めることができなくなる」
荒漠とした山地に吹く夜風は音もなく、肌に冷たい痛みを運んでくる。
「ケイタの質問は彼にとっての分岐点だった。ケイタの最期を見て、私はようやくそのことに気づいた。ケイタの奴、首を切られる直前にどんな表情をしたと思う? 笑っていた。晴れやかに、笑っていたんだ。島に送られてきた人間たちを《いじめてきた》ケイタは、懲らしめられることで心の平穏を取り戻そうとした。……暴走などしていなかった。彼は最期まで演じ切ったんだ。懲らしめてもらうためのストーリーを、描き切ったんだ」
目の前の伊香巣もまた、晴れやかな表情をしてズボンのポケットから拳銃を取り出す。
そして、自らのこめかみに銃口を押し当てた。
「孝允、私のようになるな。苦しいことから逃げてばかりでは、本当に大切な場面で選択を誤ってしまう。私は一線を越えてしまったが、お前はまだ引き返せる。やり直せる」
安全装置を下ろす音が響く。
俺の頭の中で火花が散る。ああ、そうか――ゆっくりと、レンズで像が結ばれるように、ぼんやりとしていた思考の火がはっきりと形を持ち、脳内を照らし出した。
「逃げるな」点火された神経を伝って口から紡がれた言葉は、単純でいて明快だった。
彼女が始めに口にした言葉で、俺に向けられた言葉であると同時に、彼女自身にも向けられた、彼女自身が何よりも他人から突きつけてほしかっただろう言葉だった。
手のひらがじんじんと痛む。
伊香巣は頬を押さえて目を丸くしている。
まさかはたき返されるとまでは思っていなかった――彼女の気持ちを代弁するとこんなところか。
ぶたれた際に落とした拳銃を彼女は拾い上げて――腰に戻した。
彼女が分岐点を無事に通過して、続く道を歩く決心をしたことに、ほっと胸をなでおろす。
いつの間にか、先ほどまで胸の内に蔓延っていた自己嫌悪は消えていた。
分岐点は一つではなかった。
彼女だけでなく俺も分岐点に差し掛かっていたのだ。何とか無事に通り過ぎることができたのだと遅まきながら気がついた。
「行こうか」
彼女には、晴れやかな笑みがよく似合う。