四日目(1)
四日目。
キシキシと痛む関節に顔をしかめながら瞼を持ち上げると、灰色の塊が目に映った。
徐々に頭のピントが合ってくる。青空を背景にして黒い影を身に纏いながら鎮座するそれが、建物、特に工場に分類されるものだと分かった。
川に流されて……その後のことは上手く思い出せない。
ちぐはぐになった四肢の感覚を一つにまとめながら身を起こすと、「起きたかい」と渋いバリトンの声がした。
精悍な顔立ちをした初老の男性が鉈を肩に担ぎ、傍らには割られた薪が丁寧に積み重なっている。頭髪に所々白髪が混じっていたが、綺麗に整えられており、むしろ清潔感を漂わせていた。囚人服から覗く脚や腕には程よく筋肉がついており、元アスリートといったところか。
「残念ながらハズレだ。僕は元歌手の間歩隅誠司。歌はそれなりに得意だけれど、スポーツはからっきし駄目だった。この筋肉は単に健康維持のための筋トレでついたものさ」
聞き覚えがあった。親父が車の中で昔よく流していた曲の歌手が、確かそんな名前だったはずだ。親父はミーハーだから、目の前の男性は人気歌手なのだろう。
「それは光栄だね。だけど、今はもう歌手ではないから、元人気歌手と覚えてくれると嬉しいかな」冗談めかして言うと、間歩隅は手を差し出した。
握った手の感覚が記憶を呼び起こした。
「真子――女の子は一緒じゃないんですか?」
「女の子? 河原に倒れていたのは君だけだったよ。連れがいたのかい?」
手を放してしまったのだ。あれほど強く握りしめていたのに。
俺は幸運にも河原に打ち上げられて、これまた幸運にも参加者に助けられたが、彼女にも同様の幸運が手を差し伸べていると考えるのはあまりにも楽観的。あれほど流れの速い川に飛び込んだんだ。死んでいない方がおかしい。でも、あのときはあれが最善だと思ったんだ。
川に飛び込んで逃げようと言ったのは俺だ。
俺が、真子を殺したんだ。
何を今更。お前はこれまで数多くの人間を殺してきたじゃないか。そう、FPSだ。今回も同じだと思えばいい。
馬鹿が。ゲームと現実は違うだろ。
いいや、同じさ。それに、大事なのはそこじゃない。望んだ死か、望まなかった死か――今回はそれが違うのさ。お前は、自分が望む死だったら現実だろうと受け入れるさ。人間を模倣したアンドロイドが目の前で死んだときだって、特に何も感じていなかったじゃないか。
……そんなことはない。それに、アンドロイドと人間は別物だろ。
本当にそう思っているかい? そう思おうとしているだけなんじゃないのかい? だってお前は中年のアンドロイド男が下劣な言葉を吐いていたとき、人間に対して抱くのと同様の嫌悪感を抱いていたじゃないか。それをどう説明するつもりだい。
それは……。
ほら、今更だろ。後悔なんてしている場合じゃないんだよ。お前は自分の命を守ることさえ考えていればいい。崇高な孤独こそ、人間のあるべき姿なのだから。
「――ちょっと、大丈夫かい?」間歩隅が気遣わしげな表情で俺の肩に手を置く。
「気分がどこか悪いとか? 昨日からずっと目を覚まさなかったから心配したよ。そういえばまだ名前を聞いていなかったね。思い出せるかい?」
「九戸孝允です。今日は何日目ですか?」
「九戸君だね。君を見つけたのは昨日、ICP三日目のお昼時だった。河原に上半身を乗り上げて倒れていたんだ。上の服はまだ濡れていたから、流れ着いてそれほど時間は経っていないなと感じたのを覚えているよ。実際のところ、九戸君はいつ川に流されてしまったんだい?」
川に飛び込んだのは三日目の朝だから、丸一日も気を失っていたことになる。数時間も流されていたら流石に溺死しているに違いないから、飛び込んでから河原に打ち上げられるまでに、それほど時間はかからなかったのだろう。それから昼に間歩隅に見つけてもらうまで河原に倒れ続けていたと。
「意識を取り戻して本当に良かった。念のためICPが終わったら一度病院に行った方がいい。そうだ、今から朝食を作ろうと思っていたんだ。よかったら一緒にどうだい? お腹も減っているだろうし」
お腹が、ぐう、と返事をした。
「はは! のんびりと待っているといい」
割った薪を組み、慣れた手つきで火種を作ると、あっという間に焚火が出来上がる。真子にも引けを取らない手際の良さだった。
倒れていたという河原に一度行ってみてもいいかもしれない。ひょっとすると間歩隅が見落としていただけで、近くに真子も流れ着いているかも。
伊香巣とケイタのことも気になる。一緒に逃げているのか、バラバラになってしまったのか。あるいは、考えたくはないが、アンドロイドにやられてしまったのか。
それにしても、俺がこれほど他人のことを気に掛けるなんて、と苦笑する。
「何かいいことでもあったのかい」所々メッキの剥がれた鍋に水と山菜を入れ、火にかける。
ICPが孤独者を矯正するというのは、真子の言っていた通り、あながち間違いでもないのかもしれない。アンドロイドに命を狙われる極限状態で人間同士の絆が育まれる。第三者が聞いたら、狂っていると断言すること間違いなしだ。
「間歩隅さんは、どうしてICPに申し込まれたのですか」
鍋をかき混ぜていた手を止めて、「英雄になるためさ」と青空を見上げる。
その真意を問うと、「歌手では救うことができない人もいるけれど、英雄なら人を選ばない。誰だって救える。僕は、英雄と言うのは孤独な存在だと思うんだよ。誰もが諦めた状況でも英雄は諦めずに一人で立ち向かう。孤独者を矯正するICPを受けて、それでもなお孤独者であり続けることができたのなら、僕は真の孤独な存在になれると思ったんだ。僕は孤独を手放すために参加したわけではなく、より強い孤独を手に入れるために参加した。憧れの英雄に近づくための一歩としてね」と言って、鍋を再びかき混ぜ始めた。
山菜の独特な香りが辺りに広がっていく。
「もし九戸君が孤独者であることを矯正するために参加しているのなら、何をふざけたことを言っているのかと反感を買ってしまったかもしれない。けれど、これだけは分かってほしい。僕は別に君たちのようにICPを本来の目的で受講した人たちを馬鹿にしているとか、そういったことは全くない。僕はただ自分の夢を叶えるための手段としてこのICPを利用させてもらっているだけだ。そこのところは誤解しないでほしい。せっかくこうして出会った君と仲違いはしたくないからね」
木のお椀にすくった山菜を受け取り、口に含む。一日ぶりの食事に胃が喜んでいる。
「美味しいです」声に出すと、ますます美味しく感じるのはどうしてだろうか。
「それはよかった」
山菜を食べ終えて一息つくと、頭の中の歯車がゆっくりと回り出した。
背後に建つ工場らしきこの建物は、もしかすると――。
「アンドロイドの製造工場さ」
途端に工場がおぞましいものに映った。何十、何百、下手をしたら何千ものアンドロイドが壁の向こうで造られている。今にも工場の壁を突き破って蟲のようにわらわらと這い出して来るのではないか。嫌な想像が頭をもたげた。
「初日、この近くでアンドロイドに殺されそうになったときは正直驚いた。だけど考えてみるとこの場所は僕が孤独を極める打ってつけの環境だと分かったんだ。こっちに来てみてよ」
工場を壁伝いに進み、曲がり角の向こうに顔を出すと、アンドロイドたちが蟻のように工場内から森の中へと列をなしていた。
「いつでも好きなときに、好きなだけアンドロイドと戦える。一人でアンドロイドとやり合っていると、どうしても誰か他の人の手を借りることができればという気持ちが芽生えてしまうけれど、何とかそれを土に還して僕は戦い続けている。孤独を身体に馴染ませるのにこれ以上の機会はないよ」
少し離れて――そう言って足元に転がっていた小石を拾い上げると、ビュンとサイドスローで放り投げた。小石がアンドロイドの横顔に命中する。ぐるりと首を向けてこちらを視認するや否やその小石を拾い上げて投げ返してきた。間歩隅の目と鼻の先をビュンと音を立てて小石が横切る。間歩隅が顔を逸らしていなければ頭蓋に穴が開いていたと思わせるほどの威力だった。
「ほら、来るよ」
外見は二十代半ばの女性で一見すると油断してしまいそうになるが、その身体能力は人間では考えられない。何せ地面を蹴ったかと思うと、二、三十メートルほどの距離を数秒で走破し、間歩隅の顔目掛けて回し蹴りを繰り出したのだから。
「九十七体目!」紙一重で躱して脚を掴み、蹴りの勢いを利用してアンドロイドを背負い投げる。地面に直撃する手前でアンドロイド女は受け身をとると、地面を転がって素早く体勢を立て直した。
「君みたいな可愛らしい子に倒されるのも一興だが、あともう少しで百体に届きそうなんだ。勝たせてもらうよ。僕はあくまでも人類限定の英雄志願者だからね」
腰を落として相手の一挙手一投足に目を向ける間歩隅の姿は英雄よりも達人と言った言葉が相応しい。先ほどの流し技といい、元人気歌手は嘘っぱちで実は格闘家でしたと告白されても驚かないほどの柔術の使い手である。あれほどの技をどこで身に着けたのか。
「ここだよ」目はアンドロイドに向けたままで間歩隅は答えた。
「目の前のアンドロイドを含めると、この四日間で九十七体と戦ってきたことになる。多くの経験値を積んで、ここまで戦えるようになったんだ。四十歳にもなってまさかこれほどの適応力が残っているとは僕自身も驚いたよ。だけど人間本気になれば何でもできるらしい。英雄になるために肉体的に強くなろうとは思っていなかったけれど、思わぬ副産物を手に入れたよ。肉体的な強さもないよりはある方がいいからね」
アンドロイド女の素早く力強い攻撃をいなして、自身の攻撃へと変えていく。決して間歩隅から攻撃を仕掛けることはない。あくまでも防御からの攻撃だ。しかしながらその威力は絶大。人間の腕力だけではどうしても敵わない奴らに致命傷を与えるには、真子や伊香巣のように武器を使うか、あるいは目の前の間歩隅のように相手の強力な攻撃をこちらの攻撃に変えるか、そのどちらかだ。前者は確かに派手さがあるが、何度も相手の攻撃を見切る必要のある後者の方が高い技量が求められることは言うまでもない。
腕、脚、腹――間歩隅のカウンター攻撃が次々と決まり、アンドロイド女の動きにぎこちなさが表れ始める。
「もう終わりかい、お嬢さん」
挑発の言葉に激怒したのか、アンドロイド女は大きく跳躍すると今日一番の速さと威力を兼ね備えた回し蹴りを放った。間歩隅の首が飛ぶ光景が頭をよぎったが、すんでのところで蹴りを躱すと、彼もまた今日一番の柔術を披露して相手を破壊へと導いた。
「いやー、間一髪だったよ、今のは。まさかあれほどの攻撃がくるとは。挑発はよくないね、自分にとっても、相手にとっても」
激しい運動後のストレッチとでもいうように、間歩隅は四肢の伸びを始めた。
機能を停止したアンドロイド女の瞳には、空虚さが映っていた。今まで会ってきたアンドロイドとは違って、武器を使っていなかった。ひょっとすると工場から出てきたばかりのアンドロイドは武器を持たされていないのかもしれない。
ストレッチを終えると、「河原に行こうか。昼食は魚にしようじゃないか。九戸君が倒れていた場所だし、連れの手掛かりも何か見つけられるかもしれない」と歩き出した。
河原までの道のりは短く、五分とかからなかった。
川の流れは思っていたほどに穏やかでなかった。
「君が倒れていたのはここだよ」小石が大半を占めている河原に鎮座する一際大きな石、というよりは岩を指差す。一部が川に浸かっている。流れてきた俺の体は幸運にもこの岩にぶつかって止まったというわけか。
間歩隅は岩を縄の一端で縛りつけ、もう片方を自分の体に巻きつけると、「魚を捕ってくるよ」と川へと入っていった。
辺りを歩いてみたが、小石がごろごろと転がっている中に時折空き缶やペットボトルが見つかるだけで、真子の行方を知る手掛かりはなかった。
手際よく魚を捕まえて鍋に放り込む間歩隅を河原に腰掛けて眺めていると、がさごそと茂みの向こうから音がした。
瞬時に立ち上がって茂みから距離をとる。
「どうかしたのかい?」
俺の様子を見てただ事ではないと感じたのか、縄を伝って川から出てきた間歩隅は俺の隣に並び、依然として音を立てている草むらに鋭い目つきを向ける。
ぴょんと飛び出してきたのは一匹の兎だった。
続いて飛び出してきたのは、なんとケイタだ。
「お兄ちゃん」ケイタは兎に目もくれず俺の背後に回ると脚にしがみついた。兎を追いかけていたわけではないらしい。
ケイタの体はぶるぶると震えていた。怯えているのは明らかだ。
再三がさごそと茂みが揺れた。ケイタとともにゆっくりと後ずさる。
姿を見せたのは、伊香巣だった。
「え?」てっきりケイタはアンドロイドに追われて逃げているとばかり……なぜケイタは伊香巣に鋭い視線を向けているのだ。喧嘩でもしたのだろうか。
それにしても二人とも生きていてよかった――そう俺が声を掛けるよりも早く、伊香巣が「そこをどいて」と黒々とした銃口を俺の脚、すなわちケイタへと向けた。伊香巣の顔は真剣の二文字に覆われ、冗談なんて言葉が入り込む隙は全くなかった。この一日で二人の間に何があった。
「そいつはアンドロイドだ」伊香巣は目でケイタを射貫いた。
「アンドロイドなのは、お姉ちゃんの方でしょ」ケイタは手で伊香巣を指差した。
互いが互いのことをアンドロイドと主張する。
茶番はよせ、と笑って口にできたらどれほど楽だろうか。そんな言葉を許してくれる雰囲気ではなかった。ピリピリと張りつめて、今にも伊香巣が発砲してしまうのではという一触即発の空気が目の前に、何なら俺を挟んで、広がっていた。
二人とも何かよくないものに取り憑かれたのではないか。思わずそう思いたくなる。
ケイタには気をつけた方がいい――真子の言葉が思い出された。彼女はケイタが偽装者だと疑っていた。伊香巣とケイタ。可能性としてはケイタの方が高いだろうか。何か、何か大切なことを見落としている気がする――。
「アンドロイドかどうかなんて、こうすれば一発で分かるよ」横で見ていた間歩隅は手と首をぽきぽきと鳴らすと、伊香巣に向かって駆け出した。疾風のごときスピードで近づき、彼女の持つ拳銃を掌底で叩き落とす。間髪おかずに俺の背後に回り込むと、脚にしがみつくケイタの頭に踵落としを放った。