二日目(1)
二日目。
凝り固まった背中に痛みを感じながら瞼を持ち上げると、隣に真子がいなかった。慌てて起き上がって洞窟の中を歩き回ったが、どこにも見当たらない。
騙されたのかという疑念が湧き上がってきた頃、シャッターを叩く音がした。
「あーけーてー」
シャッターの向こうから聞こえるのは真子の声だ。
ボタンを押して開けると、腕一杯に山菜を抱えた真子が立っていた。
「朝ご飯を採って来たよ」
二十歳にもなって情けないと思いつつも、真子が戻ってきてくれたことにほっと胸をなでおろさずにはいられなかった。
たらの芽、わらび、うるいなど多彩な山菜が並ぶ。中には珍しい赤こごみもあった。
「ちょっと待ってて」再び洞窟の外に出ていくと、手近にある小枝や樹皮、枯草などをかき集めて、せっせと洞窟の中へと運び込む。
僅かの間に火を起こすと、少し錆びた金属の入れ物を懐から取り出した。
「森の中に落ちていたの。湧き水で洗ってきたから」
山菜を詰めて焼き始めると、洞窟の中に山菜の香ばしい香りが広がっていく。
「天ぷらにできればよかったけれど、粉がないから勘弁してね」
火起こしの手際のよさや山菜の知識といい、真子はサバイバル生活に慣れているようだった。
「ICPのために習得したの。前回参加したときは火の起こし方や食べられる山菜の知識なんて全くなかった。都会生まれ都会育ちで、ただ与えられるものだけにすがって生きていたから。別にそれが悪いことだったとは思わないけれど、それでもこの人工島に身一つで投げ出されて、自身の生活環境に疑問を持ったことは確か。ICPで他の参加者たちを助けることに決めたときから、私はICPに役立つ知識や技術を身に着けることにした。その一つがサバイバル技術」
真子は山菜を一つ摘まみ上げて口に放り込むと、「うん、ちょうどいい具合に焼けているね」と入れ物を火中から取り出した。食べてみると、山菜の独特の風味がした。
「ふふ――その顔、懐かしいなあ。私も山菜を食べ始めた頃はそんな感じだった。山菜の味って独特で、美味しいとは言えないよね。食べ慣れた今では、これもそれなりにいけると思えるようになったけれど」
真子は再び山菜を口に放り込むと、「懐かしいなあ」と呟いた。
朝食を終えた俺たちは他の参加者を探すために洞窟を後にした。
辺りを警戒しつつ森の中を進んでいく。
昨日出会ったアンドロイドは一体だけだった。それについてもこちらから近づかなければ気づかれなかったはずだ。アンドロイド・アイランドと言うものの、この島をうろつくアンドロイドはそれほど多くはないのだろうか。
「奴らは人間と同じく集団で生活していることが多いわ。だから、昨日孝允が海辺で見かけたアンドロイドが一体だけだったのは、おそらく魚を捕りにでも来ていたのだと思う」
魚を捕りにって、あいつら食事をするのか? 機械なのに。
「生物学的にはする必要はないでしょうね。エネルギーはさっきあったコンセントで充電するわけだし。だけど、既存の人間と段階的に置き換わっている現状では、人間と同じように食事をする必要があるわ。ICPから帰ってきた家族が食べ物を口にしなくなったなんてことになったら、メディアに目をつけられて瞬く間に真相が暴かれてしまうでしょ」
魚を獲るのも、釣り人や漁師の模倣というわけか。
「奴らがどこに住居を構えているのかは分からないけれど、奴らはその拠点を中心に生活しているのでしょうね。そこに不用意に足を踏み入れないように、奴らの痕跡が近くにないかを確かめながら、他の参加者を探すのが賢明でしょうね。もちろん昨日のアンドロイドみたいに単独で行動しているケースもあるから、詰まるところ移動の際は気を抜くなってことになるのだけれど」
真子の止まれの合図で足を止める。微かだが、水の流れる音が聞こえる。川か。水場を見つけることができたのは幸いだ。しかし、真子の顔は険しく、鋭い目つきで木々の向こうを見つめている。
「……何かいる」
昨日アンドロイドに襲われたときの恐怖が蘇り、心臓が早鐘を打つ。
野生動物の可能性もある。そうであってくれ。
森の中で野生動物よりもアンドロイドに遭遇することに恐れを感じるというのは何だか奇妙な話だったが、やはりそれだけ昨日向けられた明確な殺意は俺の精神を擦り減らしていたのだろう。
足音を殺して進み、二人で茂みの向こうに顔を出すと、そこにいたのは俺たちと同じ囚人服を着た女性だった。肌は陶器のように白く艶やかで、海より深い群青色の髪がさらさらと揺れている。岩に腰掛けて読書する姿は絵画的で、彼女の存在を作り物めいたものに見せていた。歳は俺と同じくらいで大学生か。
真子は地面に指で「偽装者」と書き、自らの袖口を指差す。そこには一本のナイフが仕舞われていた。昨日俺を襲ったアンドロイドが持っていたものだ。真子は自分が出ていくという合図をした。もし相手が偽装者であってもナイフを持つ自分であれば応戦できると言いたいのだろう。
俺の返事を待つことなく真子は茂みから川辺へと出ていった。
その女性は真子の姿を一瞥し、再び本に目を落とした。その態度が気に入らなかったのか、真子はいきなりナイフを取り出すと、一気に彼女のもとへと詰め寄り、鼻先にナイフを突きつけた。
「あんたは誰? 人間? アンドロイド?」
彼女はゆっくりと顔を上げると、まるでナイフを目にしたのは初めてだと言うようにその刃を隅々まで見た後、「伊香巣ほまり。人間だ」と口を開いて、再度本に目を向けた。
「……人と話をするときは、目を見て話すようにと教わらなかったの?」
真子はぐいと刃先をさらに近づけたが、伊香巣が体を逸らすことはなく、「お前こそ、人と話をするときは、ナイフを突きつけるようにと教わったのか?」と平坦な口調で返した。
真子はため息をつくと、「……ごめんなさい、私が悪かったわ」とナイフを引き、袖口に戻した。
「それで、あなたは本当に人間なの?」
伊香巣は本を閉じると、「どうやったら私が人間であると証明できる」と真子の瞳を初めて見て話し、岩から降りた。
「あなたがアンドロイドであれば体のどこかに番号が刻まれているはず。だけどいくらなんでもここで服を脱げとは――って、え?」
伊香巣は来ていた囚人服を上も下も、ついには下着までも脱いでしまった。全身の艶やかな白い肌が陽の光に照らされ、ある種の神聖さを身に纏った姿は、お伽噺に出てくる妖精を思い起こさせた。
「ちょ、ちょっとあなた、正気? ――孝允、見ていないわよね?」
もちろん見ていたが、「ああ、どうした?」としらを切って、その妖精の姿を目に収め続けた。これほど美しい光景を目に焼きつけずして、何が人間か。
真子は戸惑いの声を上げながらも伊香巣の全身をチェックし、「確かに、あなた――伊香巣は人間のようね」と疲れ切った声で終了の合図を告げた。
「孝允、出てきても大丈夫よ」
伊香巣の囚人服姿までが何故か神々しく見えてしまう。できるだけ直視をしないよう何気なさを装って二人に近づいたつもりだったが、「見ていたでしょ」と開口一番に真子に見抜かれてしまう。
ここで、「え、何のこと」と素早く切り返せばよかったのだろうが、あいにく俺は自らの視線を制御するのに必死で、当意即妙に答えるなど不可能だった。
ジト目を浮かべる真子から視線を逸らすと、伊香巣と視線がぱちりと合う。
「私は別に構わない。見たいなら好きなだけ見るといい。何なら今ここでもう一度――」と脱ぎ始める伊香巣を真子が「ちょっと、待ちなさい」と止めにかかる。姉妹のようにわちゃわちゃする二人を見ていると、先ほどまでのピリピリした緊張感が嘘みたいだ。
「伊香巣はどうして本なんて読んでいたわけ」
「本が川辺に落ちていたから。本を読むのは習慣。目が覚めたら見知らぬ場所にいて、本が手元になくて困っていたけれど、見つかってよかった。昨日から寝る時間以外は、この岩の上で本を読んでいる」
どうやら重度の読書好き――読書オタクであるらしい。歳は二十歳で、大学には通わず家に籠って本を読む生活を一年以上続けていたそうだ。俺たちと同じく昨日からこの島にいて、始めは本の世界にでも迷い込んだのかと思ったらしいが、アンドロイドがやけに多いし、あまりSFは読まないから、ここは現実世界だと判断したという。判断の仕方が独特だ。
「アンドロイドと会ったのか?」
伊香巣の指差した茂みの中を見ると、四体のアンドロイドが積み重なっていた。いずれのアンドロイドも額に直径一センチほどの穴が開いていた。
「これは?」穴を指差して問うと、伊香巣は岩陰から一丁の黒光りする拳銃を取り出した。安全装置を下げてトリガーに指を掛けると、そのまま近くの木の幹に目掛けて発砲する。弾丸は電光石火のごとく空中を一直線に切り裂き、幹を穿つ。できた穴の周りは焼け焦げて黒く変色していた。
唖然とする俺たちに、「彼らが持っていたので、使わせてもらった」と涼しい顔で積み重なったアンドロイドたちの亡骸を一瞥する。
ナイフを突きつけられても動じなかったり、躊躇いもなく拳銃を発砲したり――伊香巣の頭のネジは外れているに違いなかった。
行動をともにするには危険すぎるのではと思ったが、真子の頭の中では当初の目的が優先したようで、「私たちと一緒に来ない? アンドロイドたちから身を守るために」と伊香巣を誘った。
てっきり、ここでずっと本を読みたいから、などの理由で断られるかと思っていたが、彼女は「ええ」と即座に首を縦に振った。俺たちが置かれた状況についての説明は皆無の状態で承諾するとは、やはり彼女の判断基準はよく分からない。
昼食には少し早い時間だったが、目の前に川があるということで、魚を捕って食べようということになった。川は深いところでも膝が浸かるくらいで、流れも穏やかだった。俺と真子が泳ぎ回る鱒に必死に手を伸ばしては逃げられるという甲斐ないことを繰り返している間に、伊香巣はひょいひょいと鱒を捕まえては河原に放り投げていく。コツを聞いてみると、「水の流れを読めばいい。文脈を読むのと同じように」という意味不明な答えが返ってきた。
結局、十を超える鱒が河原に打ち上げられたわけだが、すべて伊香巣の手によるものだった。当の本人はと言えば、今は元居た岩場に腰を落ち着けて本を読んでいる。真子が火の準備をしている傍らで、俺は真子から借りたナイフで鋭くした木の枝に鱒を突き刺していく。調理を手伝わない奴に食わせる飯はねえ、と言ってやりたいところだが、すべて伊香巣のおかげで手に入った食材なので、俺が彼女に何かを言えるはずもなかった。
程よく焼けた鱒にかぶりつくと、じゅわっと濃厚な旨味が口に広がった。とれたての魚が美味しいとは話に聞くが、まさかこれほどとは思わなかった。真子や伊香巣も同じ感想を抱いたのか、真子は幸せそうに頬に手を添えて、伊香巣は少し頬を上気させて、ぱくぱくと食べていた。
全てを食べ終えて満腹になった俺たちは、岩に背を預けてぼんやりと空を見上げる。命を狙われている状況とは思えない、ゆったりとした時間が流れていた。
少しすると、伊香巣は本を手に取ってページをめくり始めた。本当に本が好きなのだろう。
「本を好きになったきっかけはあるのか?」
ページをめくる手がピタリと止まる。何か気に障ることを言っただろうかと心配が頭をもたげるほどの間があった。
「きっかけは分からない。本を読むことが好きなのかどうかも分からない。ただ、どうしていつも本を読んでいるのかと聞かれたら、閉じた世界がそこにあるから、と答えるようにしている。私たちの住むこの世界は開かれていて、それが私にはとても息苦しく感じられる。私が何かをすると誰かがそれを見て反応する。誰かが何かをしたときに私がそれの目撃者になる。数えきれないほどの組み合わせがあって、私はいつも相応しい私になることを求められる。色んな私が身体の中でぐちゃぐちゃになって、何が何だか分からなくなって、最後には黒く染まって干乾びてしまう。一方で、本はいつだって最初のページと最後のページがあって、始まりと終わりがある。シナリオは既に決まっていて一本道。私のせいで物語が変わることはないし、作者が私の心の機微を知ることもない――閉じた世界。だから、私は本を読む」
動的な世界と静的な世界。
これからの世界とこれまでの世界。
始まる世界と終わった世界。
どの対比も彼女の感覚を正確に表現できているとは思えなかったが、それはそれでいいのだと、俺と彼女それぞれの胸の内で閉じたままで構わないのだと、たぶん彼女は言っているのだ。
彼女がページをめくり、俺と真子が肩越しに覗き込む。
そこには、三人の閉じた世界が広がっていた。