一日目(2)
「……君は?」
目鼻立ちの整った顔は美人と言って相違なく、艶やかな亜麻色の髪は背中の中ほどまで流れるように伸びている。歳は二、三下で、高校生くらいか。
「あんたこそ誰よ」
予期していなかった高飛車な物言いに、思わず口をパクパクとさせてしまう。
「ちょっと、人の話を聞いているの? 私はあんたの名前を聞いているの。金魚の真似をしろなんて言ってないわ」
柳眉を逆立てて、数十センチ身長の高い俺に物怖じすることなく詰め寄ると、彼女は白い指を俺の肩につんと押し当てる。見上げる鳶色の瞳はまっすぐで、透き通っていた。
「……九戸孝允」
「孝允ね。私は安藤真子。真子って呼んで。苗字は嫌いなの」
真子はジロジロと俺の全身を見ると、「孝允は偽装者じゃないわよね?」と訝しげな眼差しを浮かべた。
偽装者とは何だ。
「偽装者を知らないってことは論外か。了解、気にしないで」とひらひらと手を振った。
そう言われると人間は気になるもので、「偽装者って何だ? そもそもここはどこなんだよ」と問うと、彼女は肩をすくめて「ついてきて」と歩き出した。
俺が逃げてきた道をなぞるようにしばらく進むと、真子は立ち止まって傍らの茂みに目をやった。その先には、サングラスをかけた半袖短パンの男――俺を襲った男がうつ伏せで倒れていた。心臓が跳ね上がり、数歩後ずさる。
「大丈夫よ。もう壊れているから」と男のそばでしゃがんで腕を掴み上げると、「ここに番号が書いてあるでしょ」と男の手首の内側をぐいとこちらに向ける。
一〇五九――と数字が黒で刻まれていた。タトゥーか?
真子はくすりと笑うと、「タトゥーね、うん、そうかもしれない」と楽しそうだ。
「けれど、これは彼――それって言った方がいいかな――それ自身が彫ったものじゃない。商品につけられるシリアルナンバーのようなもので、孝允の表現を借りるのなら、彼はタトゥーを入れられたって言えばいいのかな」と男の体を転がして仰向けにすると、首元を指差した。
鋭利な刃物で切られたのか、首元がぱっくりと裂けていた。けれど、あるべきものが見当たらない。血だ。裂けた皮膚からは一滴も血が出ていなかった。代わりに首元から覗いていたのは、幾重にも張り巡らされたコードだ。手前のコードは断線し、無骨な導線の束が鈍色の光を放っていた。
もう壊れているから――と先ほど真子が口にした言葉の意味をようやく理解した。
「ロボットだったのか」
走る速さが尋常でなかったことも頷ける。
「ロボットって言うよりも、アンドロイドって呼び名の方が正確かな」
それにしても誰がこのアンドロイドを壊したのか。
「この状況だと、どう考えても私に決まっているでしょ」トントンと胸を自慢げに叩く。
彼女曰く、偽装者というのは、俺や真子の着ている囚人服を身に着けて人間に偽装したアンドロイドのことで、俺たち人間を油断させて殺すのを目的としているらしい。
「この島のアンドロイドは、人間を見つけたら殺そうとしてくるの」
壊したアンドロイド男の頬を、真子はツン、ツンとつつく。その皮膚は人間と同様に柔らかいらしく、凹んでは元に戻る。
「……おい、今、《この島》って言ったか」
アンドロイドに命を狙われていることよりも衝撃的だったのは、彼女がここを半島や岬などではなく、島と言ったことだった。
「ええ。ここはICPを運営する機関が独自に作り上げた人工島で、アンドロイドの製造と試用を目的にしているの。機関の人間はこの島のことをこう呼んでいるそうよ――アンドロイド・アイランドと」
アンドロイドの試用とは、きな臭い。ひょっとすると、ICP受講者と言うのは――。
「人間を模倣したアンドロイドの機能向上を図るには、人間を相手にした方が手っ取り早いでしょ。そのための人間を集めるためのプログラムがICPよ」
確かにアンドロイドの機能を向上させるためには人間とのやり取りが重要かもしれないが、この島のアンドロイドが人間を殺そうとすることに何の関係がある。アンドロイドの機能向上が目的なら、単に人間と会話させたり遊ばせたりすればいいじゃないか。
「アンドロイド製造の究極の目的は何だと思う」
……科学技術の発展か?
「そんな抽象的な答えを求めているわけじゃないわ。アンドロイドは人間の模倣でしょ。つまり、アンドロイドの製造は、究極的には人間とイコールの存在を創り出すことを目的にしているの。少なくとも機関の人間はそう考えたみたい。人間に置き換わる存在を創りたいとね」
つまりそれは――人間を創りたいというのと同義ではないのか。
「正確には、《自分たちの科学技術で一から》人間を創りたい、かな。新しい人間を生み出したいだけなら、子供をつくればいいし……」
真子は薄赤く染まった頬をごまかすように、手近な枝についていた葉をちぎって手のひらに乗せ、ふうっと息を吹きかけた。薄緑をした葉は上空に舞い上がったかと思うと、くるくると回りながら彼女の手に舞い戻る。
「アンドロイドはどんな人間にもなりきる能力を持っていなければならない。世界最速の陸上選手でも、世界最強の格闘家でも、世界最狂の殺人鬼でも、世界最悪のハッカーでも――何者にでもなり得る力を有していなければならない。でなければ、人間の代わりを務めることはできない。けれど、そんな超一流の人間たちを実験のために集めることは難しいから、一般人で何とかできないかと考えられたのが、アンドロイドに多くの一般人たちを殺させることだったの。火事場の馬鹿力というように、人間が最も力を発揮するのは自らが死に直面したときだからね。質より数でアンドロイドの機能向上を図ろうとしているってわけ」
そんなの、馬鹿げている。
「私もそう思う。けれど、機関の人間は本気みたい。機関の最終目的は、人類全てをアンドロイドに置き換えることらしいわ。現に孝允の周りにも置き換えられた人間は少なからずいるはず。例えば、ICPに参加して帰ってきたものは十中八九アンドロイドよ」
真子はさらりと衝撃の事実を口にする。
「今私たちも参加しているこのICPでは、殺しに来るアンドロイドたちから五日間逃げ切らなければならないの。少なくとも一般人よりステータスの高い奴らから逃げるのは容易ではないわ。参加者はこの島に運ばれてくる間にあらゆる生物学的情報を取得されて、参加者がアンドロイドに殺された場合はそっくりのアンドロイドが元の環境に送られるってわけ」
ほんと、笑えないわ――彼女は手のひらの木の葉をくしゃくしゃに握りしめる。
「ひょっとすると、機関にはもう人間は一人もいないのかもしれない。全員アンドロイドに置き換わっているのかも」
冗談よ――と彼女は笑った。
「長々と話したけれど、つまり、私たちが元の生活に戻るためには五日間この島で生き延びなければならないってことね」
ICPが孤独を矯正するプログラムだというのは、偽りだったわけか。
「いいえ、あながちそうとも言えないわ。自分一人だけで奴らから身を守るのは難しいけれど、孝允を追っていたこいつを私が不意をついて倒したみたいに、参加者同士で協力すれば奴らの魔の手から逃れられる。ICPで生き残るためには、参加者たちは孤独ではいられないの」
こじつけに聞こえなくもないが、肯定的にでも捉えなければやってられないのだろう。前向きに生きていこうと踏み出した一歩が実は死の淵へと続く一歩だったなんて、受け入れ難いにもほどがある。
それにしても、真子はどうしてこれほどICPに詳しいのか。届いた封筒に入っていた資料には一通り目を通したが、情報はあってないような事柄しか記されていなかったはずだ。
「二回目なの、ICPに参加するのは」Vサインにした人差し指と中指を、くい、くいと顔の横で折り曲げる。
「元の生活に戻ることのできた私は、しばらくは元通りの生活を送っていた。ある日、曲がり角を曲がるときに自転車とぶつかりそうになっちゃって……。結局自転車とは衝突せず、避けるときにちょっと頭を電柱にぶつけた程度で済んだのだけれど――」
彼女はそのときぶつけたのであろうこめかみを、トン、トンと指の先で示した。
「自転車に轢かれそうになったとき、ICPで命をかけて過ごした五日間を思い出したの。それで、ICPを生き残った私になら、理不尽にもICPに放り込まれてしまった人たちを助けられるんじゃないかって。それこそが、この世界に生まれてきた私の生きる意味なんじゃないかって、そう思ったの」
大袈裟かな? と真子は恥ずかしそうに白い指先で頬をかき、足元に転がっていた小石をぽんっと蹴り飛ばす。
「いいや――生きる意味は人それぞれだからな」がらんどうの胸に、自ら発した言葉が反響する。俺は、自分の生きる意味すら分かっていない。真子が本当に幸運だったのは、ICPから生還したことではなく、生きる意味が見つかったことではないのかと、そんなことを思ってしまった。
「この島に今どれくらいの参加者がいるのかは分からないけれど、前回参加したときには少なくとも五人はいたわ。だからこれから私は他の参加者を探して、彼ら彼女たちが生き残るのを手助けしたい。できれば孝允には一緒についてきてほしいの。無理強いはしないけれど、複数で行動した方が生き残る可能性が上がるのは確か。さっきみたいにね。悪い話ではないと思うのだけれど、どうする?」
ICP経験者とともに行動できるなんて願ってもない話だ。
「そうと決まれば、まずは今夜の寝床を探さないとね。陽も落ちてきたし、辺りが暗くなってから行動するのは危険だから。奴らはセンサーで夜目がきくけれど、私たち人間はそうはいかないし」
海から離れる方角に森を進む。三階建てのビルくらいの高さをしたごつごつとした岩場にぶつかると、それを視界の片側に収めながらしばらく歩く。すると、不自然にぽっかりと岩が抜け落ちたように半径三メートルほどの半円型の穴が開いていた。洞窟である。入り口の横の岩には赤く点滅するボタンが取りつけられている。
「中を見てくるから、孝允は奴らが来ないか見張っておいて」と言って、真子は真っ暗な洞窟の中へ、内壁に片手をつけながら入っていった。数分もしないうちに洞窟内部の明かりがついたかと思うと、真子が戻ってきた。
「人間もアンドロイドもいなかったわ。今晩はここで休みましょう」
孝允に中に入るように促し、真子は洞窟の内にあったボタンを押した。上からシャッターがゆっくりと下りてきて、外部とは遮断された。
「どうしてこんなところにシャッターがあるんだ」
触れたシャッターは冷たかった。洞窟自体が人工的なモノかどうかは不明だが、少なくともこのシャッターは人間が後から作ったものだ。ひょっとすると取りつけたのはアンドロイドかもしれないが。
「奥を見れば分かるわ」
洞窟には似つかわしくないコンセントが奥の壁に取りつけられていた。一、二、三――十個はある。無骨な金属を丸出しにしたコンセントは、充電できればそれで十分という作り手の考えが如実に表れていた。
「ここは奴らが充電するための場所よ。充電と言っても、今どきのバッテリーだと一週間は持つし、奴らがここに充電しに来ることはめったにない。シャッターを内部の入り口近くにあるボタンで閉めたら、再びそのボタンを押さないと開けることはできないから、一度中に入ってシャッターを閉めてしまえば、外部から奴らが入ってくることもない。奴らがうろつく夜の森で眠るなんて自殺行為だからね。こうして上手く使わせてもらっているわけ」
この島には同じような洞窟が他にもあるらしい。いっそのこと夜だけでなく昼もここで過ごせば、五日間を乗り切ることなど簡単ではないか。
「確かに前回のICPで終盤に洞窟を発見したときは、もっと早く見つけることができていればと思ったわ。だけど、洞窟にいても食べ物ばかりは外に出ないと手に入らないし、今回のICPでは他の参加者の力になるって決めたもの。洞窟に隠れてばかりではいられないわ」
拳をぐっと握る真子は、女子高生とは思えないほどに大人びた表情を浮かべていた。
「あなたは、どうする? やっぱり、ここで五日間を過ごす?」
この洞窟の存在を知った今、真子と行動を別にしても五日間を乗り切れるかもしれない。食べ物は五日間であれば何とか我慢できる。水だけは何とかして調達しなければならないが、今朝に比べて生存のハードルが下がったのは間違いない。だが、一度交わした約束を破りたくはなかった。破った途端に俺の内部に亀裂が走り、この暗い洞窟に飲み込まれてしまう気がした。
「いいや、俺は真子と一緒に行くよ」
真子が大人びているというのは、勘違いだったのかもしれない。彼女は整った眉尻を下げると、「私は卑怯だわ」と呟き、目を逸らして言葉を続けた。
「孝允に森の中で一緒に来ないかと話を持ち掛けたとき、私の頭の中には何とかしてあなたを仲間にしたいという思いがあった。こう言っては失礼かもしれないけれど、あなたは比較的まともな性格の持ち主だと思ったし、ICP経験者の私でも一人で五日間を乗り切るのは難しい。まして他の参加者を助けながら生き残るなんて至難の業。この洞窟の話を先にしてしまえば、間違いなく孝允はここに残ると言い出すと思ったの。だから、こんな卑怯な順番になってしまって……ごめんなさい」
頭を下げる真子に果たしてどのような言葉を返すべきか。アンドロイドであれば即断即決で真子の後ろめたさを吹き飛ばす返答ができるのだろうが、残念ながら俺の頭はそれほど優秀ではない。結局のところ、俺は真子の肩に手を置いて、「これからよろしくな」と言うことしかできなかった。
夕食は彼女が昼間に採ってきた木の実を食べた。正直に言うとまだまだお腹は空いていたが、たぶん彼女も同じだ。貴重な食料を分けてくれたことに礼を言うと、「私たちはもう孤独ではないわね」と笑った。
地面は硬かったが、程よくならしてあるだけましだった。服の生地をできるだけ背中側に寄せて仰向けになると、背に感じる硬さが幾分か和らいだ。
「明日は日が暮れる前に枝葉を探した方がいいわね」同じく仰向けになると、地面を指の背でこん、こんとノックする。
「おやすみ」
その言葉を耳にしたのは実に一年ぶりだった。
ぎこちなく挨拶を返す自身の唇に心の中で苦笑し、目をつむった。