一日目(1)
一日目。
目が覚めると、鬱蒼とした森の中にいた。大の字で地面に寝転がっており、木々に大半を阻まれた視界の向こうに少しばかりの青空が見える。
確か、先ほどまで部屋でゲームをしていて……そうだ、急に眠気が襲ってきて――咄嗟に頬をつねってみると痛みが走った。これは、夢ではない。
四肢の感覚を確かめながらゆっくりと身を起こして、辺りの様子を窺う。幾重にも見える高木の太い幹は褐色のグラデーションを作り出し、間に点々と生えた数メートルほどの背丈をした低木が青々とした緑を添えている。葉の擦れ合う音が風の存在を伝えてくる。耳を澄ますと、別の音が聴こえてきた。勢いよく何かがぶつかる音。規則的に繰り返している。固いもの同士がぶつかり合う甲高い音ではなく、沈み込むような深い音だ。まさか――。嗅覚を研ぎ澄ますと、確かにその独特な香りを感じ取ることができた。
指を湿らせて風の向きを調べ、風の吹いてくる方向へと走り出す。樹間を縫って、茂みをかき分けた先に見えたのは、海だ。一面に広がる灰色の砂浜に波が打ち寄せ、潮風が磯の香りを運んでくる。砂浜に足を踏み出すと、シャリと音が鳴り、磯の香りが一層強まった。
ここは、どこだ。
自宅は山間部にある。ここが家の近くでないことは明らかだ。
中空高く昇った太陽の眩しさに目を細めながら、シャリシャリと歩いて波打ち際に近づく。後ろを振り返ると、前面に広がるのは奥行きの知れない鬱然たる森だ。左右に続く砂浜の向こうに海が見えるということは、この場所は海に突き出した形になっているということだ。どこかの岬かとも思ったが、近くに灯台らしきものは見当たらない。まあ、岬に必ず灯台があるとも限らない。廃灯台になって壊されたということも考えられる。
とりあえず人に会って、ここがどこなのか聞かなければ。
木深い森に足を踏み入れることは躊躇われたため、人気のない浜辺を歩き始めた。周囲に注意を払いつつ、昨夜――あくまでも体感での話だが――のことを振り返る。
あの刺激臭と眠気は間違いなく吸入麻酔によるものだった。だが、自室が吸入麻酔で満たされるなど前代未聞だ。近くの工場で事故が起きて吸入麻酔が大気中に大量に放出され、窓枠の隙間などを通して部屋の中にまで入ってきた? いや、それほど多くの吸入麻酔を大量に取り扱う施設などあるだろうか。吸入麻酔の製造工場が近くにあるという話は聞いたことがない。それに、たったそれだけのことならば、どうして俺は森の中で目覚めたのか。
拉致――考えられる中では最もしっくりくる言葉だった。森という場所を選んだ理由は解せないが、家の中に何者かが侵入し、俺を攫って運んだというのであれば、この状況に説明がつく。それでも恐怖が背筋を這い上がってくることはなかった。視界の片側は鬱蒼とした森で覆われているとはいえ、反対側には茫洋たる海と空が広がっている。開放的な空間が恐怖を和らげてくれているのは間違いなかった。ここが牢屋であったのなら、たぶん話は違った。
進行方向に人影が見えた。この一年間部屋に引きこもって他人と会うことを避け、家族とさえ顔を合わせることを拒んできたが、このときばかりは嬉しくて顔が少しにやけてしまった。早まる歩調に合わせて、上手く会話できるだろうかという不安が湧き上がってきたが、一刻も早くここはどこなのか聞かなければという思いを盾にして人影に近づいていく。
半袖短パンという春先にしては夏めいた格好をした、サングラスをかけた中年の男性だ。彼はこちらを視認するや否やロケットスタートを切った。
向こうも人を探していたのか?
仮にそうだとしても、ぐんぐんと近づいてくる彼の姿は異様なほどに迫力があった。距離数百メートルのところで刹那に速度を緩めたかと思うと、腰に手を当てて一振りのナイフを引き抜いた。
突然向けられた殺意に、今回ばかりは恐怖が背中を駆け上がってきた。気づけば体はその身を翻して走り出している。足には自信があった。高校の頃は三年間リレーのアンカーを務めたほどだ。しかし男との距離は縮まるばかりで、背後を振り返ると残り五十メートルを切っていた。一年間の自堕落な生活で足が鈍ったのかもしれない。いずれにせよこのまま浜辺を走り続けていてはいずれ追いつかれてしまう。
素早く方向転換して、森の中に身を投じた。茂みを突っ切り、左右の動きを最小限に抑えて木間を走り続ける。心臓がはち切れんばかりに拍動し、喉の奥はひりつくほどに熱く、脚の筋肉は激しい伸縮を繰り返して、悲鳴を上げていた。
どれくらい走ったのかは分からない。振り返ると、男の姿はなかった。
しばらくしても男がやって来ることはなかった。
頽れた体を転がし、大の字で地面に横たわって荒い呼吸を整える。
あの男は一体何者だ。ナイフを持って突然襲ってくるなんて。もしかしてあいつが俺を拉致した犯人か。だとするとどうしてあいつは森の中ではなく浜辺で待ち伏せしていたんだ。俺が浜辺に向かうとは限らないじゃないか。それに、殺すつもりなら始めからこんなまどろっこしいことをする必要がどこにある――ああ、もう、わけ分かんねえ。
手のひらを下に向けて、グッと握りしめると、地面の土がガリガリと削れて音を立てた。持ち上げた握りこぶしから茶褐色の土が零れ落ちていく。
とにかく、あいつには見つからないようにしなければ。さっきは何とか逃げ切れたが、あの足の速さは尋常じゃなかった。次はない。慎重に行動して、誰かに助けを求めなければ――そうだ、警察だ。
上着やズボンのポケットをまさぐってみたが、携帯はどこにもなかった。何ならポケットには何一つ入っていなかった。所持品ゼロである。そういえば、と今更ながらに着ている服が自分のものではないことに気がついた。上下ともに白と黒の縦縞の入ったそれは、囚人服を彷彿とさせる。自室にいたときは黒のスウェット姿だった。犯人はご丁寧にも服を着替えさせてくれたってわけか。ふざけやがって。
先ほどまで感じていた恐怖はすでに鳴りを潜め、今胸の内で湧き上がっているのは怒りの感情だ。この場所に俺を運んできた犯人とあの男が同一人物かは分からないが、あの男が一枚噛んでいることは間違いない。出会って即ナイフを持って襲い掛かってくるなど、一般的な状況ではまずあり得ない。俺は何らかの理不尽な状況に置かれていて、あの男も関わっていると考えるのが妥当だ。正直に言うと、さっき男に襲われたのは偶然だったと思いたい。もし本当に俺が今何らかの理不尽な状況に置かれているというのなら、これから出会う人が皆、あの男のように襲い掛かってくる可能性があるということで、それはつまり人を探して助けを求めることが困難な状況にあるということだからだ。
遠くで微かな音がした。体中の筋肉が一気に収縮する。ゆっくりと上体を起こし、気配を殺して耳をそばだてる。
ザク――ザク――。
繰り返し聞こえてくるのは、足音だ。さっきの男か。
近づいてくる足音とは反対方向の地面に目を走らせる。所々に枝葉が落ちており、踏まずに逃げることは難しい。相手が俺の存在に気がついていないのなら、このままここで身を潜めていた方が得策かもしれない。だが、もしも居場所がすでにバレているのであれば、枝葉を踏み鳴らしてでも一刻も早く逃げるべきだ。
数瞬の思考の末、足音の主が男でないことに賭け、茂みに身を潜めて様子を窺うことにした。
心臓がうるさいほどに拍動している。一歩一歩と迫りくる足音を聞くたびに肺がひくつく。こっちに来るなという思いと、早くその正体を現してくれという思いがせめぎ合い、身体が内側から破裂してしまいそうだ。
ザク――ザク――ザク。
すぐそばで足音が止まる。まるで心臓も止まったかのように、静かになる。
静けさが大気に溶け込むのを待って、最後の足音がした方へとやおら顔を向けると、女の子がこちらをじっと見つめていた。口から心臓が飛び出しそうになる。しかし、よく見ると彼女も自分と同じ囚人服を着ていた。