エピローグ
目を覚ますと、そこは森の中ではなく、眼前には真っ白な天井が広がっていた。
「おはよう。と言っても今はお昼だから、こんにちは、かな」
これは、夢に違いない。
なぜって――彼女が生きているはずがない。
俺の目の前で殺されたのだから。
いや、その表現は適切ではないか。
彼女は壊されたのだから――そうか、造り直したということだろうか。
「いいえ。私は造り直されてなどいないわ。正真正銘の安藤真子よ。間違いない。けれど、私はあなたの知る安藤真子ではない」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「そうでしょうね。順を追って説明するわ」
ベッドの傍らの椅子に腰掛ける真子は囚人服ではなく白衣を着ていたが、その顔や体つきは紛れもなく俺の知る真子だった。
「まず始めに――ICPクリアおめでとう。このところ滅多に生存者が出なかったから、機関の一人として、とても喜ばしいわ。あなたは元の世界に人間として帰る権利を勝ち取ることに成功した」パチパチと笑顔で拍手する。
「あなたにはこれから二つの選択肢が与えられる。一つは、言ったように元の世界に帰る選択。もう一つは、私と同じように、機関で働くという選択」
私と同じように――彼女はそう言った。それは、つまり。
「ええ。あなたは知っていると思うけれど、私はICPを一度クリアしているの。そのときに、私は機関で働くことを選んだ」
白一色の病室に、窓は一つも見当たらない。目を凝らすとようやく蛍光灯でできた陰影がドアノブの存在を教えてくれるほどに、この部屋は白で覆いつくされていた。
「これから私が話を終えた後にあなたがどちらの選択をするのか――私としては同僚が増えるのは喜ばしいわ。まして私の分身が導いた生存者となれば尚更ね」
分身。それはつまり、アンドロイド。
「ええ、理解が早くて助かるわ。ここにいる私が人間の安藤真子で、あなたとICPで一緒に過ごした彼女はアンドロイドなの。私は機関で働くことを選んだから、元の世界には私の分身とも言えるアンドロイドが送り返されたってわけ。ここまでは予定通り。あとは分身のことなんて忘れて、機関での充実した日々を満喫しようと思っていたのだけれど、何と私の分身がICPに戻って来た! これには驚かされた。他のメンバーに聞いても前代未聞だって言っていたし。面白いデータがとれるかもと思って、彼女の参加を承諾したの。結局のところ思ったほどに興味深いデータはとれなかったけれど――あなたを合格へと導いてくれた。彼女の生きる意味だった《他のICP参加者を助けること》は無事達成されたわけ」
彼女自身は自分がアンドロイドであることを知っていたのか?
「もちろん知っていたわ――と答えたいところなのだけれど、どうもそうではないみたいなの。普通アンドロイドは他のアンドロイドと電波で互いにコミュニケーションをとることができるように作られている。常に意思疎通を行うことで、個々の経験の価値最大化を図るためにね。そして、人間という存在を模倣して造られたことを理解している。だけど、先ほど彼女の頭部を開いて見ると、該当する部品が故障していることが分かったの。どこかに頭を打ちつけたのかもしれない」
そういえば、自転車に轢かれそうになったときに電柱に頭をぶつけたと言っていた。ICPに再び参加しようと決めたのもそのときだったと。
「とにかく彼女はイレギュラーだった。自分がアンドロイドであることを知らないアンドロイド。だけど、私たちの目指すアンドロイド像に近い部分を持っていたことも確か。それは、孤独を感じていなかった、という点よ」
彼女の視線は白い病室を彷徨って、再びベッドの上の俺へと向けられた。
「アンドロイドは本来孤独な存在なの。ネットワークですべての個体の知識や情報が共有化されているということは、詰まるところ誰もが自分であり、自分が誰もであるということになる。分かりやすく言えば、アンドロイドの脳は一つしかないってこと。だから、孤独なの」
そもそも、アンドロイド自身は孤独を感じる機能を持っているのか?
「その通りよ――と断言したいところなのだけれど、今のところは《おそらく》と答えるだけに留めておくわ。アンドロイドの研究はあなたが思うよりも遥かに進んでいる。孤独感を人間のように表現することはないけれど、当該テーマの研究者の一人である私の意見としては、十中八九アンドロイドは孤独を感じる能力を有していると考えている。機関にいる人間の大半が私と同じ意見を持っていると思うわ。何せ機関の目的が《アンドロイドが孤独でない世界の実現》だからね」
彼女は頬を上気させて熱弁を振るう。
「私の分身が《機関の最終目的は、人類全てをアンドロイドに置き換えること》とあなたに話していたけれど、あれは間違いよ。あくまでも目的は、アンドロイドが孤独でない世界の実現。そのための手段が、人類全てをアンドロイドに置き換えること、が正しいわ。世界中全ての人間がアンドロイドに置き換わり、孤独を感じていない人間という存在が一切いなくなれば、アンドロイドにとって孤独は当たり前になり、引け目を感じることではなくなる。孤独はその言葉の持つ意味を失って、世界から孤独はなくなる。それが、私たち機関の目指す未来よ」
真の敵はアンドロイドじゃない。人間だ――東堂の言葉が頭の中で繰り返される。
参加者とアンドロイドの戦いは、あくまでもミクロな視点で現象を捉えたに過ぎなかった。本当のところは、機関に属する人間とその他の人間の戦い――いや、機関の人間による人類の蹂躙と言った方が相応しいだろう。
一匹の青い兎の周りで輪を作って踊る赤い兎たちの壁画。あれは青い兎がアンドロイドを、赤い兎が人間を象徴していたのではないか。別々の思考を持つ人間たちを見て、自らの孤独を知ったアンドロイドが描いた作品。
それにしても、機関の人間はどうしてこれほどまでにアンドロイド開発に対して熱意を燃やしているのか。世界中の人間をアンドロイドに置き換えるということは、自分たちも例外なく死ぬということだろうに。
「アンドロイドが世界を支配すれば、死という言葉すら意味を持たなくなるわ。彼らは決して死ぬことはない。部品を入れ替えれば、永遠に生き続けることができる。それに、私という人間はいなくなるけれど、私の頭脳はネットワークに組み込まれて、永遠に生き続ける。アンドロイドの開発は不老不死への挑戦でもあるの。これほどたぎる研究は世界中を探しても他にないわ」
二十歳にも満たない彼女が未来について熱く語る姿は、とても魅力的に映った。島でともに過ごした真子が生きる意味を照れ臭そうに話してくれたときのことを思い出す。
今の俺はまだ生きる意味を見出せていないが、機関で働き、彼女たちの熱意に触れていれば、いずれは――。
「さあ、あなたはどうするの?」
差し伸べられた手を取ると、彼女は「ようこそ」と固い握手をして晴れやかな笑みを浮かべた。
「また後で」と背を向けた彼女を見て、言葉を失う。
彼女のうなじにシリアルナンバーが刻まれていたのだ。
――あの女、騙しやがったな。
東堂の言葉が頭をよぎった。東堂が真子を切ったときの反応は、東堂が彼女をアンドロイドではなく人間だと考えていたことを示していた。《あの女》からそのように聞かされていたのだろう。あの女という存在に最も近いと思われるのは――。
病室を出ていく直前にこちらを振り返った《あの女》の微笑みが、とても不気味なものに感じられた。
おそらくあの女は東堂に自らがアンドロイドであることを明かし、ICPに参加しているのは人間である私だと説明し、彼女を含めて参加者全員を殺してほしいと取引を持ち掛けたのだろう。
――孤独に殺されるのはゴメンだ!
しかし人間だと思っていた彼女も実はアンドロイドであることを知った東堂は、生き残れば自らもアンドロイドに置き換えられ、孤独に苛まれながら生きることになると悟ったのだ。
けれど、東堂――。
先ほど目にした彼女のシリアルナンバーを思い出す。
五一〇九――孤独。
世界が孤独で満たされる日は、そう遠くはなさそうだ。