第1話「とんでもない勢いでそのまま」
「え?勾坂さん、まだ結婚してないの?」
「え、ええ。まぁ」
「結婚はいいぞぉ。ちゃんと大人になったって感じがして」
結婚してなかったら大人じゃないのか、このセクハラ上司が。
……という言葉を飲み込んで何とか口角を上げる。
「は、はは、そうですか~~頑張ってみます」
我ながら棒過ぎたか?とはいえここでは名女優でいないと。
でもホント勘弁してほしい。人類みんな仲良しこよしだったら、世の中に独身なんていないと思うんだけど。
「勾坂さんから彼氏の話とか全然聞かないですけど、いないんですかぁ~?」
黙れぶりっ子。今日も香水臭いからあまり近づかないでほしい。
……という言葉もまた飲み込んで口角を一層上げる。もう痙攣しそう…
「い、いなくはないんだけど―」
「いるんですかぁ!?初耳ですぅ!!」
う……近い……あと香水臭い…あまり追及されたくないし何とかして話逸らさないと…
「私の話聞いてもつまんないと思うよ?あ、薫子ちゃんにはいたんだっけ?」
「あ……最近別れたんだ」
「あ、そうだったんだ!ごめんね…」
知っとるわ。打開策効いて良かった。香水地獄から解放されたし、
恋バナももう終わるだろう……
「えーーー昌ちゃん彼氏いんの~~??ちぇ、つまんねぇの」
……あーーーーーーっどいっつもコイッツも!!!酒が入ればそんな話しか出来ないんだぁぁああああ!!!
……という言葉も飲み込むけど、もう口角は上げられない。
飲み会なんだから黙って酒でも飲んでろっての!!…はぁ…名女優はもうやめた…
居酒屋の喧騒の中、飲み会の極意を知らないであろう後輩や上司共に見せつけるように、私はビールジョッキを持ち上げた。
●
うぇぇ……飲み過ぎたかも。
歩き慣れている筈の帰り道。中心街から離れた暗い住宅街を、等間隔で街灯が照らしてるけど、どこか頼りなく感じる。私以外、人っ子一人見当たらない。
こんな日によりにもよって土砂降り…腕時計をちらりと見る。ただいま時刻午後十一時前、びしょ濡れだし寒いし気分も最悪だ。恋愛尋問を我慢しながら無理して飲み会なんて参加するものではない。だけど、交流の輪に加わらない人間はどうも会社でも上手く馴染めないし…。はぁ、世知辛い社会だ。
「にゃあぁぁ…」
お、車の下にネコ発見。こんな寒い冬の日に外にいるなんて、不思議な生き物だなぁ。いいなぁ、ネコ…彼氏持ちとはいえ、一人暮らしだとやっぱり寂しい時もあるし。時々出迎えてくれる誰かが恋しくなる三十路手前の私…。あぁ…純朴真面目な学生時代はこんなこともちろん予定外だったのに…
どすっ、と何かが足に当たった。ぼうっとした頭を動かし、ゆっくり視線を向けていく。そこには黒毛の―
そうそう、今ちょうどそんな感じのネコが欲しかったんだと思った。
●
……ああ、なんてことをしてしまったんだ。
ちなみにうちのアパートはペット禁止だ。
浴室から聞こえるシャワー音で酔いが覚めてきた。いくら雨に濡れた少年が哀れに見えたからって、寂しさのあまり拾ってきてしまうのには我ながらドン引く。
目の前には、あの少年の学生用カバンが置いてある。女性の中でもそこそこ高身長な私より頭半分くらい高かったから、恐らく高校生くらいだろう。
…カバン濡れてるし、干すか。ちょっと拝借しよう。
…今どきの学生って何持ち歩くのだろう…。ついでにちょっとだけ覗かせてもらおう。
……意外と普通だ。筆箱に教科書にノート……。あ、このノートに何かやましいことでもあったら創作のネタになりそうだな。ノート一冊見てみるか。
ノートの表紙には繊細で小さく「数学Ⅱ」と名前が書かれていた。
まつしま、しゅう……ふーん、これがあの子の名前か。ノートちゃんと書いてんのかな?……うわ、真っ白。私が学生時代なら信じられないノートだ。
「勝手に人の持ち物見ないでよ」
悪いことをしていたわけではないが、体がビクついた。顔を上げると声の主は暗がりの廊下からこちらに歩いてきた。
素っ裸で。
自分の顔が熱くなり強張っていくのが分かった。
「ちょ、タオル一枚くらい巻いてから来てよ!一応異性なんだか、ら…」
その後の言葉が続かなかった。
見えたのだ。ところどころ包帯が巻かれ、絆創膏がパッチワークのように貼ってあるしっとりと濡れた白い肌。少し力を加えたら折れそうな華奢な手足。
そして、薄っすらと浮いたあばら骨を谷とした、二つの小さな丘を。
●
「服までは言わずともバスタオルくらいは欲しかった」
「…動転してたのよ。猫どころか人間なんて拾ったことないし。それにまさか、男子高校生じゃなくて女子高生だとは思ってもなかったよ」
「欲しいのは言い訳じゃない」
「…ごめんなさい」
…随分生意気な口を利くJKだな。可愛げが無い。私の華の十七歳の頃が可愛かったと言っている訳ではない、ということは勘違いしないでほしい。
ともかく、JKを家に連れてきてしまったのは少し犯罪の香りがすると思ったが、この様子なら何となく安心できる、気がする。
生意気JKの服は洗濯機の中で頼りなく回っているので、取り敢えず引き出しから引っ張り出してきたジャージを渡しておいた。当の本人はにこりともせず、乾かす気があるのかないのかよく分からない手つきで髪を拭いている。
「ちょっと、しゅう…ちゃん?」
「あまね」
「え?」
「周って書いてあまね。松島周。それが名前」
あ、あれ…あまね、って読むのか…。なんか一人で勘違いして恥ずかしい…。
「おねーさんは……え~っと…」
そういって着用しているジャージの胸元を見た。
「…匂い、ざか?」
「こうさか!そんな香水臭そうな名前じゃない!」
「あ~勾坂ね!よく見えなかった」
絶対わざとでしょ…。
「私のことは昌でいいよ」
「呼びづらいからおねーさんでいいや」
っっこんんの、クソガキっっ!!……という言葉が出かかるのをなんとか飲み込む。
ついアルコールのせいでキレやすくなってしまっているが、一応私の方がオトナなのだ。ここはJKを拾ってしまったなりの責任を果たさねばならない。
「あのさ、周、ちゃん」
「ちゃん付けで呼ばれるの嫌い。初対面ならさん付けで」
やりづらい。会話すら進まない。
「周、さん…なんであんなところにいたの?」
「家出」
「親御さんは……?」
「母さんしかいない」
「し、心配とかしないの?」
「しないよ」
無感情に話しているが目はどこか遠くを見つめている。そういえばもう日付も変わるような時間なのに、周の携帯に着信がない。ソファの上で縮こまる彼女の姿がどこか悲しげで、小さな黒猫のようだ。私は押し黙ってしまい、こじんまりとした居間に暫しの沈黙が降りた。
髪を拭き終わりタオルを首にかけると、顔をぱっと上げ私をじっと見つめてきた。
「なっ……なに?」
「おねーさん。耳、片方はどうしたの?」
「あ」
そう言われて気づいた。いつも付けているイヤリングの片方が無くなっていることに。
「全然気づかなかった…」
「失くしたんだ。それイヤリングでしょ?ピアス開ければいいのに」
周の耳には沢山のピアスが付いている。
「これは彼氏に貰った大事なものだし…それに」
「それに?」
「…ピアス、痛そうだし」
「だからいいんでしょ」
「え、そういう趣味…?」
「ちがうよ」
不意に周の瞳から光が消え失せた。
「死の片鱗に触れられる気がするじゃん。痛みって」
その目は部屋の隅に溜まった小さな暗闇を見つめている。あの暗闇が大きく広がって彼女を飲み込んでしまうのではないかと、突如として不安に駆られた。
「あのさ!周さん!」
「なに?」
「ここで、暮らさない?」
私はまた、とんでもない勢いをしでかしたかもしれない。
魔が差した、ということではない。それだけは分かってほしい。
けれどどうしてやったのかと尋ねられても納得させられる理由を話せる自信は毛ほどもない。
(昌のあきらめ日記から一部引用)