藍色と紅
「ええー!紅子センパイ、留学するんですかあ?」
なだらかな坂を降りていく途中、藍里が振り返って声をあげる。パッチリした大きな目はさらに大きく見開かれて、顔からはみ出そうにも見えるほどだ。
あたしはため息をついて、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「だから言ってんだろ、夏休みの間だけだって。学生の短期留学なんてそんなに驚くことか?」
「だってぇ〜、寂しいんですもんヤですよー。私たち美大生ですよう?外国で何学ぶんですかあ」
藍里が歩みを進めるたび、肩の上で切りそろえた黒のボブカットの髪が揺れる。
ところどころ赤のハイライトを入れた派手なヘアスタイルは、『これが私の自己表現なんです』だそうだ。
「今まで留学してきた美大生に謝れ!……まあ、学ぶことは色々あんだろ、日本とは何もかも違う環境で言語も変われば、世界の見方も変わるんじゃないかと思ってな」
少しうつむき気味に、自分にも言い聞かせるように言った。
気に入って着ているミントグリーンのパーカーと、黒のホットパンツを履いた自分の足が視界に入る。
「あっ、センパイ危ないっ」
視界に藍里の赤いスニーカーが飛び込んで来たかと思うと、ぐいっと後ろに引っ張られた。
どうやら車が来ていたのに気づかなかったらしい。
あたしを横から抱きしめるような態勢を崩さないまま、藍里は愛くるしい顔を歪めてニマッと笑う。
「これ、女子がデート中にキュンとくるランキングの3位くらいですよ!どうです?胸に来ました?」
「助かった、サンキュー。あとまったくキュンと来ねえ」
藍里の妙に暖かくて暑苦しい手を振り払い、また足を踏み出す。
「ああんいけず〜」
「置いてくぞ」
またため息をついて、曇り空を見上げた。天は一面真っ白だ。
……なんのインスピレーションも湧かない。
田舎から都会に出てきて、気づけば大学も3年目。
作品の制作もそこそこに、入ったゼミの後輩に妙に懐かれていることだとか、去年から続けているライブハウスのバイトに少し疲れてきただとか、特にこれといって面白くない日常。
制作に行き詰まったので大学近くのコンビニまで行こうと思ったら、その奇妙な後輩の藍里にお供します!と捕まったのが今日。
藍里は、中身はともかく外身はそれはそれは可愛いのだ。非常に腹の立つことだが。
だからこそ制作のモデルとしてもモテるし、男子にも恋愛対象としてよく好かれている。
それに、藍里の描く作品はどれもこれも今までにない色遣いや斬新な構図で、批評会なんかでも高い評価を受けてる。
そんな藍里が、女としてもひとりの芸術家としてもパッとしないあたしにつきまとう理由がちっとも分からない。
「ねー紅子センパイ、紅子センパイが鈴原センパイと付き合ってるってウワサ、マジですかあ?たしかおんなじトコでバイトしてましたよねえ?」
「ッ!」
慌てて振り向くと、勝ち誇ったような、憐憫のような、とにかくヘラヘラしている藍里がいた。
あたしよりずっと背が低いくせに、坂道のせいでヤツの方が目線が上だ。
あたしが何も言えないのをいいことに、藍里はぺらぺら話し続ける。
「鈴原センパイ、かっこいーけどヤリチンって評判やばいですよね?なんで付き合ってるんですかー?」
「やめろ!お前、何を急に」
あたしが4年の鈴原先輩と付き合っているのは事実だ。彼が恥ずかしいというので、かれこれ1年近く周囲には伏せているが。
声を荒げても藍里は動じることなく、むしろ間合いを詰めて顔を近づけてきた。
「私、こないだ鈴原センパイに告られたんですよ〜。でもなんとなく紅子センパイとの仲を知ってたんで断ったんですけど〜」
「!」
藍里のにまにました笑顔がじわじわ距離を詰めてくる。唇と唇が触れ合いそうなほどの至近距離だ。
「紅子センパイって、サバサバしてて、そのピンクの髪色がよく似合ってて、背も高いし、女から見ても超かっこいいじゃないですか」
「藍里、本当に何言ってるんだ……?」
鈴原先輩の浮気癖は付き合い始めの頃から知っている。何度も謝られて、何度も傷つき、許した。それでも、あたしは、
「私、そんなカッコよくてクールなセンパイが、どーしようもない男に引っかかって本気になっちゃって、うだうだ別れられなくて、留学とか言い訳にして海外逃亡して必死に冷静になろうとしてるの」
両肩を掴まれ、藍里は背伸びして私の耳元に口を寄せる。
「たまらなくかわいいんですよ」
「はっ?」
藍里はあたしを追い越して坂道を下り、落書きだらけの白い壁の前で満面の笑みを作った。
「ねーだから紅子センパイ、私と付き合いましょ?」
白い壁の色とりどりの落書きが眩しく見える。青、黄、赤、オレンジ、緑、紫。藍里ごしに見る世界は極彩色だ。
「鈴原センパイの21億倍、あなたを愉しませてみせますからあ」
「…………」
急に、創作のヒントが頭に降ってきた。いや、湧き水のようにアイディアが吹き出てくる。
あたしは肩をすくめて、片頬だけで笑った。
「……留学はやめにすっかな」