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見えない溝  作者: 幸野高志
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見えない溝

 世の中の仕組みとは、実に複雑怪奇である。特にその罠に落ち込んでしまったものにとってはそうであるらしい。僕が最初、株式会社キューエムティーの門を叩いたとき、そんなことは露も知らなかった。ただS電機という大手電機メーカーで、ヘルプデスクという仕事があるというだけで、まさかそこには致し方もない、見えない溝が潜んでいようとは露も知らなかったのだ。ところが不覚にも、僕はのっけからその溝に落ち込んでしまった。既に最初に門を叩いたときから、足を取られていることも知らずに。

 蛙のような目をした男は言った。株式会社キューエムティーの担当の男である。

「それではこれから営業アシスタントの案内で、あるところへ行って頂きます」

 営業アシスタントとは、まだうら若い、小柄の女性だった。僕は半ば照れ気味に彼女に挨拶し、そのある場所へと連れて行ってもらうことになった。道中、彼女はいやなことを聞いてくる。

「今まで、どんな仕事をされてたんですか」

「ええ、まあ、いろいろ」

「いろいろ……」

 しがないフリーター生活を転々としていた僕は、そう聞かれても何も答えようがなかった。その頃、世に出始めだしたウインドウズパソコンというものを買い、ウインドウズ95を使えるようになってからは、パソコン関係の仕事につこうと思い始め、アルバイト情報誌を見て、株式会社キューエムティーに電話したのだ。ヘルプデスクという仕事は、オフィスでパソコンを使う人のための、エンドユーザー的なサポート業務だと蛙のような目の男は言った。僕は単純に、すぐにS電機に連れて行ってもらい、すぐにその仕事に就けるものだと思っていた。ところがそうではなかった。アシスタントは全く別のところに僕を連れて行った。そこは株式会社マンユーズというところで、どうやらキューエムティーとは付き合いのある会社らしい。しかしそれも後々分かったことで、当初の僕は何がなんだか、わけが分からないままだった。

「それじゃなにい、今回はパソコン覚えてえ、そっちのほうでやっていこうかと?」

 マンユーズの担当の男は、名刺によると営業部長で、名を真田と言った。細身で五十代くらいで、頭髪は短く刈り、顔は空豆のようである。営業アシスタントは、うちの戸橋をどうぞよろしくお願いしますと言って、さっさと帰ってしまっていた。うちの戸橋とはどういうことだろう。とにかく僕はわけが分からないまま、真田の質問を受けていた。

「ふうん、二十八歳ねえ。大学出たあとはT通信に入って、このT通信は半年でやめちゃったけどお、なんでやめちゃったの?」

「はあ、夜勤もあったりして、仕事が合わないというか……」

真田は、「あ、そう」と声を低めながらうなずくと、鼻から煙を吹いた。

「ええと、じゃあねえ、どうしようかな」

真田はしばらく眉間にしわを寄せ、思案している様子だった。けれどもやがては踏ん切りをつけるように、自分を納得させるように言ったのだ。

「分かりました。それじゃあ、やってくれる方だと判断して、考えることにしましょう」

 物事が順調に運ばれていく様子を、僕は何の感動もなく眺めていた。そしてただ形ばかりに、「ありがとうございます」と礼を言ったのだ。早速明日時間取れるかと真田は聞いてくるので、僕は当然、S電機に行くものと思いそう聞いた。ところがそうではないと真田は言う。

「いや、S電機じゃない。その前に色々勉強してもらわなくちゃならないからね。うちと付き合いがあるところで、堂島情報システムというところがあるから、そこでしばらく、そうだなあ、二週間くらい研修したほうがいいと思う。うちからも、もう三人行ってるしね、S電機。そこだと色々機材や環境もそろってるし、専門家もいるからさあ。ある程度力つけてから行ったほうがあれでしょ。会社にとっても戸橋君にとってもいいわけだからあ」

 そう言われると、僕は素直に相槌せざるを得なかった。何も知らないまま、僕は真田がしゃべることを黙って聞いていた。

「やっぱりほら、向こうも大手だからさあ、ある程度のスキルは望むしね。まあ、戸橋君は自信あるかもしれないけど、やっぱりきちんとした形で行ったほうが、後々いいから。それに学校じゃ教えてくれないこととかもあるしね。それにだってほら、今までの仕事とは違うわけだしい」

 真田はバイトで散りばめられた履歴書の職歴欄を指でなぞりながら言った。僕は静かに苦笑するしかなかったが、ただこの時には既に、条件的には悪くないと感じていたのも確かなのだ。真田はシガレットケースをくるくるいじりながら言ってくる。

「技術的にはあんまり深くない。だいたい広く薄くがベースだから。とにかく今の時代はどんどんオーエーは入ってくるし、その意味では過渡期だから。戸橋君も知ってると思うけどね、今はだいたいウインドウズでね、もちろんマッキントッシュとかあ、ワークステイションとかもあるけど、だいたい事務系じゃウインドウズ主流だから、少なくともS電機ならそうかな。オフィス環境だともう大きいところじゃあ、LANが当たり前だからね。LANて知ってる?」

「聞いたことはありますけど。ローカルエリア……」

「うん、そう、ローカルエリアネットワークね。オフィス内のパソコンだけローカル的につないじゃうやつ。世界中つないじゃうのがインターネットだけどね。だからLANの管理なんか出来るようになればさあ、これから需要もあるし、スキル上げればどこでも重宝がられるから。もちろん明日行くところにもLAN環境あるから、教えてもらえるしね」

 真田はそう言って一息つくと、また新しい煙草に火をつけた。すると皆出払っているらしいオフィス内では、急に方々の電話が鳴りだした。そんな時間なのだろうか。真田は電話を取りながら、まったくどうしようもないなあと、部屋にいる別の男と笑い合った。天井を見るといつの間にか蛍光灯が点っていた。真田との面談も、どうやらそれで、打ち切りになるようだった。

「ごめんごめん、なんか立て込んできちゃったからさ、とにかく明日ね、D駅に一時、南口の改札のところにいるからさ、すぐ分かる」

 それが溝に落ちた最初だったろうか。こうして僕は真田の口に押され、S電機には行かず、どうやら堂島情報システムでそのまま研修ということになりそうだった。しかしそれもまた、一筋縄ではいかなかった。僕はそうして、あの見えない溝に、のっけから足を絡めとられてしまったのだ。



 あくる日、D駅の南口に行くと、真田は既に来て待っていた。僕は近づいて挨拶すると、じゃ行こう、こっちだからと言って、真田はカーキ色の革の鞄を肩から提げ、勝手にすたすた歩き出した。追いつくように並んで歩き出す。すると真田は声を潜めて言う。

「それで戸橋君ね、やっぱりあのT通信のところね、半年だったけどお、やっぱり一年いたってことにしたからさあ。紹介書もそう直しといたから、了解しといてくれる?」

「あ、そうなんですか」

 僕はかすかに動揺した。経歴を詐称するというのだ。僕は思いもよらなかったが、そんなことまでしなくてはならないのだろうか。しかし真田の口に逆らう余裕は既になかった。そんなものかと思うしかなかった。

「それでね、きょう行くところはあ、昨日も言ったけどさあ、うちと違って設備もそろってるし、事業的にもネットワーク長いし、歴史もあるから。それにきょう会う人もね、霧原さんていって、役員も兼ねてるけどね、れっきとしたSEで、ネットワーク長いし、その道では大家だから」

 ソフトに言ってくる真田の隣で、僕ははいはいとただ肯いていた。しかし胸にはまた素朴な疑問が浮かぶと、刻々近づく相手先を前にして、さすがに聞かざるを得なかった。

「あの、じゃあきょう行くところは、S電機とはどういうあれなんですか」

「うん、S電機とは直接取引きしてるところだからさ」

「じゃあ、そこからS電機に派遣ということですか」

「うん、そう、そういうことになる」

「じゃあ、名刺とかは、どこのを持つことになるんで」

「うん、名刺も一緒、きょう行くところの名刺持ってもらうことになる」

「じゃあ、そこの社員という形で行くことになるわけですか」

「うん、そう、形はそういうことになるね」

 矢継ぎ早に質問を続けると、真田は全て高めの声で愛想良く言った。僕は質問をやめたが、そのときには自分の置かれようとする立場が、今更ながらなんとなく分かった気はしたのだ。それは確かにあまりさっぱりとはしないものらしい。けれども乗りかかった船だと思えば、今更降りるわけにも行かない。結局、僕はそうして、とりあえず真田に身を預けるしかなかったのだ。

 やがて堂島情報システムの入るビルが見えてくると、真田はあれだと言って指を差した。赤褐色のそのビルはマンユーズの建屋よりは大きかった。観音扉の戸を開け、階段を昇り二階のドアを開けると、入り口に立ち真田はいやに丁寧に挨拶した。すぐに姿を見せた霧原は、おそらく四十代半ばでもおかしくはなかった。けれどもそのふさふさした髪の毛も手伝ってか、まだ青年らしさは多分に残していた。かけている銀縁の眼鏡からも、確かに有能なSEという感じはした。しかし真田が腰低く切り出しながらあの紹介書類を渡すと、眼鏡の奥から見つめているその顔は、残念ながら曇りだした。

「うーん、どうかなあ、実務経験はないわけだし、この経歴だとなあ」

 霧原は脇に肘をつき口に手を当てては、紙を見てそう言った。すると詐称をしてさえ、どうやら話はそう甘くはないらしいのだ。そんな彼に向け、真田はまた静かな売り込み口調で訴える。

「でも彼もね、今回自分でもパソコンかなり覚えてきてますし、年齢も年齢ですしね、ここは一つふんどし締めなおしてね、今後を見据えてといいますかねえ……」

 真田の言うことはもっともだったが、それも何だか妙にくすぐったかった。霧原はいわゆるスキル関連を聞いてきたが、残念ながら、僕は彼を信用させるものなど何も言えなかった。学校時分はパソコンを使っていたかと霧原は聞いた。しかしその頃は今ほど庶民的ではなかったし、そもそもパソコンは高級品で、マニアのものという印象しかなかった。プログラムもしたことない?と彼は聞いたが、それもほとんどないし、興味もなかったと言うしかなかった。

「でもね、今回彼もとりあえず、エンドユーザー的に覚えてきてるということですし、ワープロソフトなんかも結構使ったと言うんですよ」

 真田がそうフォローすると、霧原は見ている紹介書類をこちらに見せては、少し厳しい口調で言った。

「じゃあ、これと同じもん、何分で作れる?」

 書面は履歴書のようにいろんな枠線や表組になっている。僕は少し考え、とりあえず十五分あればと言った。「十五分もかかっちゃうか」と、霧原はぼそりと言った。

「どうでしょう。彼も一応勉強してますし、こちらで少し勉強させてもらってからということでね、可能性探れないかと思うんですけどね」

「うーん、そうですね。もちろんそれはいいんですよ。ただねえ……」

 霧原は相変わらず口を手で握り、書面を見ては考えていた。それからまた口を開けるが、彼が気にしているのは、どうやらT通信の部分らしいのだ。

「でもねえ、一年てところがねえ……」

 そう言って彼は顔を曇らせると、なんで辞めたのかとまた面倒なことを聞いた。僕は仕方なく、真田に言ったことと同じことを繰り返した。

「まあ、彼もね、色々事情もあるようですが、反省してる部分もあるようですしね。それにまあ、とりあえず、前の仕事でオペレーション的な作業も一年やってますしね、人間的にも悪くないと思うんですよ」

「うん、まあ僕もいい子だとは思うんですよ。ただね、一年じゃちょっとアピール的にね、弱いと思うんですよ。辞めてからも二、三年経っているわけですしね」

 霧原は少し低めの若々しい声でそう言った。しかしそう言われれば、僕は半ばだるい気分で下を見やるしかなかった。霧原は続けた。

「まあT通信なら大きいですし、S電機が採用するとしたらね、だいたいこの経歴だと見られるのはこの部分だと思うんですよ。T通信にいた人間ということでね。でもそれならそれで少なくとも三年、つまりついこないだまでいたということじゃないと、難しいと思うんですよね」

「やっぱり厳しいですかねえ」

 僕は既に帰りを気にしていた。まるで他人事のように話を聞くばかりだった。しかし煙草を吸い出した二人の間で、話はどうやらまだ終わったわけではないらしかった。

「ですから、一応そういうことにして、S電機のほう当たってみるならみるでいいんですよ。ただね、その上で向こうさんがどう判断するかですしね。僕としては保証はできないんですがね」

「じゃあ、霧原さんのお力添えで、何とか可能性探って見て頂いて、その上でという形になりますかね」

「うーん、そうですね。まあS電機も別に調査まではしないと思うんですよ。だからとりあえずね、本人紹介という形で一度向かい合ってもらって、うちのフォローもあるという形で、見てもらってからですかね」

 会話はそうして、辛うじて水面下では命脈を保ちながら、いつの間にか二人の間では手ごろな地点に降り立っていた。

「じゃあ、申し訳ありませんが、一応そういう方向でお願いできれば、ありがたいですが」

「そうですね。じゃ、一度こちらからアポとってみて、それからですかね」

 真田は隣で軽く頭を下げ、霧原は紙を見ながら軽くうなずいた。すると後は日時の話だけだった。明日あたりアポとって見るから、たぶん来週になると霧原は言った。D駅へ向かう帰りの道では、既に西日が影を作っていた。僕は当然あのことが気になるので、真田に疑問をぶつけた。しかし真田は相変わらず同じ調子で、なだめるように返してくる。

「うん、やっぱりそうするしかないみたいね。こないだまでいたってことにしてさ。霧原さんもそう準備するって言ってるしね」

 T通信にいた半年の期間は、そうして一年はおろか、どうやら三年にまで伸びてしまうようだった。しかし既に足を絡め取られていた僕にとっては、やはりそんな彼らに追随するしか、他にやりようもなかったのだ。


 

 霧原の言うとおり、真田からの電話が示したのは週明けの月曜日だった。月曜の朝九時にA駅の西口で霧原が待っているから遅れないようにということだった。朝の九時とは予想していなかったので僕は多少戸惑った。しかしそれ以上にT通信のことがやはり気にかかっていた。本当に大丈夫なんだろうか。とにかく僕は慣れないスーツを着て家を出たが、電車の中では父親の言葉がしつこく思い出された。

「とにかくお前のためを思ってやってくれてるんだろうに」

 T通信にいた期間を偽ることについて父親に話すと父親はそう言った。どうやらそれも、親らには好意としか受け取られないらしい。

 A駅の西口に着くと、霧原の姿は見当たらなかった。向こうのデッキ上を見ると、近年出回り出したらしい携帯電話で話す真田の姿があった。真田に近づくと、背後から霧原が迫ってきた。すると僕はどうやら失敗してしまった。西口の人ごみの中で、霧原の姿を見分けられなかったのだ。僕らに気づくと真田は携帯をやめた。霧原に向かって、それじゃ、よろしくお願いしますと言った。そしてそのまま消えてしまった。僕は霧原と並んで歩き出した。しかし道中無言だった。僕が電信柱を避けながら歩く横で、霧原はわざとらしく堂々と歩いた。やがて十階建てくらいのガラス張りのビルが見えてきた。エレベーターで七階に上がると、受付の前から、霧原は殊更低姿勢だった。

「堂島情報の霧原ですが、井沢さんいらっしゃいますか」

「少々お待ちください」

 しばらくしてやってきた井沢は、三十くらいで体格のいい、元気そうな男だった。僕らはすぐにオフィスの応接室へと案内された。すると井沢のほかに年輩二人が入ってきた。名刺を見ると一人は業務部長、一人は営業企画課長で、井沢はどうやらその部下らしい。きびきびとした営業口調で霧原は話を始めた。T通信の部分も任せながら、僕は自然とその手並みを聞いているしかない具合だった。けれども年輩らの顔は初めから穏やかだった。それも社風なのか、人柄なのか、或いは立場上の落ち着きだろうか。業務部長は紙を見ながら、「T通信から」と、温和に言い、少なくとも好意的に見える。それも書き換えが功を奏したか、或いは霧原への信頼だろうか。

「これからうちのほうで最低限教育いたしまして、一応ゴールデンウイーク明けくらいを考えておりますんで、差し支えなければ、そういうことでよろしくお願いしときたいと思いまして」

 霧原の訴えに部長は頷くと、隣を見て笑いながら言った。

「僕はだいたいいいんだけど、井沢君はどうかな、井沢君の問題でもあるから」

 すると井沢は人がよさげに笑いながら、じゃあ、もう少し話してみてからと言った。自社のネット環境云々と井沢が言い出すと、それを制して、課長が口を出す。

「じゃあ、あとは井沢君に任せて。何しろ宇宙人みたいな話だから」

 軽く笑いが起こった。皆それぞれ席を立った。霧原は即座に井沢に向け、見せてもらってもいいですかと、丁寧に言った。

 だだっ広いオフィスは棒状に机が並べられていた。部長らしき机が四つそれらとは離れて窓を背に置かれている。僕と霧原は井沢に案内されながら、井沢がしゃべるにただ任せていた。

「うちもN社製なんで、DOS覚えてもらって、ログインから管理、設定までのレベルで頼みたいんですよ。ええそうです。アクセス権もディレクトリ単位なんで。あとサーバーとかプリンターとかはこちらにあるんですが、あとルーターがこれです」

 パーティション越しの壁際には、足元にはサーバー、台上にはプリンターが並んでいて、表面は少し汚れていた。女子社員が何か印刷しているそばで、台の端にあるカバーを井沢がめくった。するとケーブルが生えたルーターが現れた。霧原が覗くように見たが、それらも薄く汚れていた。

「イーサネットはテンベースティーなんで、ツイストペア線でハブでつないで、なるたけ机の下にまとめてあります」

 井沢はそばにいた社員の机上にあるノートパソコンを丁寧に借りると、それを立ち上げながら画面を見つつ話をした。

「立ち上げもDOSじゃないとだめとか、けっこうトラブルあるんですよ。バッチファイル使わなきゃだめとかね。ウインドウズも95に変えたいんですけどねえ、まだまだ移行段階でして、ほとんど3.1なんで。DOSコマンド知らないと、どうしようもないとかあるんですよねえ」

 確かに目前にあるPC画面は、僕の持っているものより一段古かった。前のバージョンらしい。僕は気になると初めて口を出した。

「ウインドウズって、だいたい95じゃないんですか」

 すると霧原が顔を緩めながら、まだ信頼性が定まってないし、企業じゃまだ広まっていないと教えてくれた。ただそう言いながら浅黒い顔は真っ赤に染まっているので、僕は軽く驚きつつ、どうやら愚問だったと知った。

 壁際に長く伸びるパーティション越しには、小さめのテーブルが並んでいた。そこに場所を変えると、井沢の指示により女子社員の持ってきたコーヒーを啜っては、井沢と向かい合った。井沢は目の前で愛想良くしゃべったが、煙草を持つ手は小刻みに震えている。

「そうですね。ブラウザもIEより、だいたいネットスケープ入れてます。今のところまだ安定性違いますしね。バージョンなんかは、ブラウザだとやっぱり文字化けとかあるんで、最新のものにしてます。いや、ワードエクセルは、まだ7.0じゃなくて、6.0と5.0です。本当はアクセスとかパワーポイント辺りも知ってるといいんですけど、まあだいたいワードエクセルなんで。主にマクロですね、大事なのは。あとはエクセルだと関数とか、マクロプログラムが組めるとさらにいいんですが」

「じゃあ、そこら辺押さえとけば、しばらく食いっぱぐれないね」

 霧原は僕を見て笑って言う。しかし僕はただ苦笑するしかない。プログラムは組んだことがあるかとまた聞かれたが、首を振ると井沢は不思議そうな顔をした。「そうかそのレベルかあ」と言う井沢の判断では、所詮僕は要研修もいいところなのだろう。霧原は当然サポートの万全を訴え、井沢を安心させようとした。心配したT通信については、井沢もあまり聞かなかったので、既にどうでもよくなっていた。井沢は仕事好きで幸福そうな、人のいい青年だったが、そんな彼と別れた後でも、いずれ彼の下につくのかどうかは、全くわからなかった。

 S電機を辞した帰り道では、霧原が打ち解けた感じで話しかけてきた。けれども僕にはそんな会話もただ面倒にしか思えない。勉強の意味でこれから来ないか、などと霧原は不意に誘ってきた。僕はやおら驚いたが、既に一仕事終えた気でいたので、それも面倒にしか聞こえなかった。

「もうだいたい、決まったということですか」

「いや、まだ分からないけど、決まるにしても、決まらないにしてもね」

 それを聞けばなおさら行く気はせず、僕は適当なことを言って断った。霧原の顔は冷めている。僕は一人駅に降り立った。人並みに紛れふわふわと歩くと、時折いかにもまだ着慣れない背広を着た若者を見かけた。そういえばそんな季節だったと、今更気付く始末だった。



 駅で霧原と別れてからというもの、僕は家で時折パソコンをいじりながら、ただ電話を待つ身となった。電話はなかなか来なかったが、こっちから連絡しようと思っていた矢先、ようやく電話が来た。真田である。

「ちょっと間空いて悪かったけどさ、予定が立ったんでね、霧原さんのところで研修できるから」

 その日、僕はまた紺の背広を着て朝からD駅に向かった。実際決まったとはまだ聞かないはずだが、そんなことを勘繰る余裕は既に失くしていた。とにかく僕は真田に従い、研修に通わなくてはならない身となったらしい。改札口で真田に会うと、真田はすぐにビルへは向かわず、すぐ先にあるカフェに行こうと僕を誘った。コーヒーを啜りながら、なにやらアドバイス的に話し出す。

「とにかく二三週間かけて、基礎的なこと覚えるのが大事だから。ワードエクセル、それからアクセスも必要になるから。そこら辺のアプリケーションの基礎から、印刷関連とか、アプリケーション周りまでね。それからソフトだけじゃなくて、これからはハードの時代、ハード面も大事だから。ハブとかルーターとか、ケーブルとかね。何を使うかとか、どこがトラブってるかとか、ハード面の知識も大事になってくるから」

 横断歩道の向こう側では桜はもうほぼ散っていた。それを尻目に歩く道中、ビルが近づいてくると、真田は煙草を携帯用の灰皿に揉み消した。階段を昇り、焦げ茶色の扉を開けると、右の部屋から霧原が出てきて、応接場でまた向かい合う。けれども彼らはしばらく話をするものの、S電機の反応についてはなぜか何も言わなかった。それも単なる世間話に過ぎないのだ。しかも会話も弾まない。まもなく霧原が痺れを切らして立ち上がるそぶりを見せると、皆それぞれ立ち上がった。それから移動する霧原の後ろにつき、僕は小さなコンピュータールームに入った。すると他にもう一人、小柄の女性が背を向け画面に向かっていて、少しこっちを見た。手前には机五つの島があった。その一つに座るよう言われると、僕は腫れ物に触るように椅子の背を持って引き、ゆっくりと腰を下ろした。

「それじゃ、よろしくお願いします」

 背後の声に振り向いてみると、肩から鞄を提げた真田が丁寧に頭を下げていた。それから真田は去っていったが、消えていくその靴音には何だか背中を押されるようであり、どうやらそうして研修も、いつの間にか始まっているらしかったのだ。

 しかし研修といっても、何も手取り足取り教えてくれるわけではなかった。ほとんどが自習の形だった。霧原は古びたノートパソコンを与え、これを使ってアプリケーションの使い方を覚えろと言った。テキストは引き出しに入っている。ワードやエクセルの古いバージョンのものであるのは、S電機に合わせているのであろう。そうして僕は言われるとおり自習を始めたが、その間も目の前で背を向けている女はマシンガンのようにパソコンのキーを叩いている。霧原も同様であり、そんな彼らの背中を見ながらの自習は、はかどっているのかどうかも分からないまま、やがてお昼が来ると、女が来て言った。

「来た道をまっすぐ行けばコンビニがあります。あとは飲食店も適当に散らばってますんで。あとお弁当ならここじゃなくて、五階の会議室で食べるようにしてください」

 霧原との会話によると、彼女は須田というらしい。こけしのような丸顔に、小太りで短髪、水色のカーディガンに、黒いゆったりめのパンツ姿だった。

 僕は仕方なく外に出ると、足は自然コンビニへ向かった。すし弁当とジュースを買い、ビルへ戻ると、入り口脇には案内板が掲げられ、各階全てが堂島情報となっている。けれども人がいるのは二階だけで、他はひっそりしているようなのは、所詮不況だからだろうか。エレベーターで五階の会議室へ行ったが、すると須田が端っこのほうでテレビを見ながら一人持参らしい弁当を広げているので驚いた。僕は仕方もなしに真ん中あたりに座り、すし弁当を食いだしたが、須田とは別に会話もしなかった。食い終えるとすぐに部屋を出て二階に戻った。すると相変わらず霧原はまだ仕事をしていた。僕は仕方なくノートパソコンを開けたが、既に胸の内では、あの五階にはもう二度と行けまいと思っていた。

 一時になって須田が戻ると、午後も同じような感じで始まった。しかしテキストは進めど自習内容は決して面白いとは言えなかった。一時半を過ぎたあたりで、霧原は飯に行くからと須田に言って出て行ったが、彼の昼飯はいつもこのくらいなのだろうか。須田はひざにチェックのひざ掛けをかけてはこちらを気にせず仕事していた。時折電話をしたり、また脇にあるワゴンの上の書類を見たりしながら、その手からは相変わらずマシンガンのタッチを繰り出した。背後の壁向こうの島からも時折会話や電話が聞こえたが、話の様子では、彼らはどうやら経理担当らしい。三時になると経理の女がコーヒーを淹れだし、皆の机に配りだした。すると霧原は不意にこちらを向いて、休憩十五分あるから適当に休憩してね、と言った。

 差し出されたコーヒーは銘柄がいいのだろうか。やけに美味く感じられた。しかしそれを飲み干すと、僕は煙草吸いたさに衝動的に外に出た。どうしても霧原の前では吸えなかった。ビル脇の小さい駐車場に入り、壁際に潜むようにして吸った。時計を気にしながら急いで戻ると、あとは平穏に過ぎていった。定時の五時半近くになると、テキストは半分ちょっと進み、持ってきた大学ノートも一ページ半ほど埋まっていた。しかし何の達成感も感じられなかった。首の後ろが疲労し、頭がしんしんしていた。時間が来たら帰ってもいいと言われていた。声も出しにくく暇を告げると、扉を開けて階段を下りるが、まるでつり橋を渡るような気分だった。道を歩きながら、明日もあさっても大方こんな調子で続くのだろうと思ったが、無論、そんなことはなかった。

 あくる日、目の前の椅子にはもう一つの背があった。それは村井というヘビースモーカーの男で、それ以降は居たり居なかったりして、どうやら客先との間で行ったり来たりしているらしい。霧原とは仲がいいらしく互いによく談笑した。僕はなぜ彼ら三人の背を見ながらひとり自習をしなくてはならないのだろうなどと無駄に思ったりした。昼休みはもう、あの須田の居る五階には行きたくないので、三階の空いている部屋で一人食事をした。前は使われていたらしく、なにか機材や本がたくさんあったが、ドアはなぜかいつも開いていたし、誰も来なかったからだ。するとその後約二週間、僕にとっては、そこが昼休みの居場所になってしまった。

 四日目に入るとまた新たな背があった。今度は小柄で細身の若い女性だったが、明らかに年下に見えおとなしそうだった。ただ仕事もよく間違えるのだろうか。霧原や須田には時折怒られていた。

「そこさあ、間違わないでって何べんも言ってるじゃない、小峰さんさあ」

 霧原は右端にいる小峰に向け、さも呆れた口調で言った。すると須田も一緒になって時折そんな調子で注意をするのだ。小峰は画面を見たまま小さい声ではいと言うと、霧原は息を吹きながら首を軽く振った。彼女がプログラマーとはとても見えなかった。画面の様子では表計算か、データベースの入力でもしているのだろうか。はじめは社員だと漠然と思っていた。けれどもいやに会話がなかったり、扱いの違いが奇異に感じられると、案の定、彼女もまたどこかからの派遣要員で、S電機のどこかへも行っているらしい。すると彼女は僕と同じ立場であるものの、ここの名刺を持たされているのか、どういう経緯なのかは知る由もなかった。ただそんな彼女に向けられる言葉は、遠回りしてこちらにも響くようで、彼女の資質は別にしても、それはあまり面白いものじゃなかった。昼間コンビニの袋を提げて、三階に行こうと階段を昇っていると、二階のところで目の前のエレベーターの扉が丁度開き、彼女と出くわした。すると彼女は少し驚いたような、申し訳なさそうな顔をして脇をすり抜け、そのまま階段を下りていった。あの須田の居る五階に行ってすぐまた降りてきたのだろうか。すると彼女もまた、この理由もなくけったいな昼休みの時間に苦労しているのかと思えば、僕は誰もいない三階の部屋で、だるい気分で煙を吹き出すしかなかった。一時より少し遅れて戻ると既に小峰はいて、何気なくまた背を向けキーを叩いていた。しかしどこに行っていたかは無論知る由もなかった。こちらを向いた霧原には、なるたけ昼休みの時間、ちゃんと守ってね、と言われた。

 こうして様々な背に捉われつつ、一週目も何とか最後となった金曜日、僕は機能だけを詰め込むようにしてテキストも何とか一冊終わらせると、背後から霧原に近づきその旨を言った。大体大丈夫か、と霧原は聞くものの、そう言われるとまた不安も生じて、僕は妙に口ごもってしまった。するとどっちなのか、と霧原は聞くが、相変わらず僕の口は重かった。

「お客さんの前だとそれ通用しないからね。分からないなら分からないってはっきり言ってね」

 少しいらだつように霧原は言い、僕は仕方なくはいと言った。今週の分は結局、来週も少しやることにすると、LANも入るから急げ、と霧原は言った。



 研修も二週目に入ると、もう慣れてもよさそうな感じだったが、僕は相変わらず全然慣れなかった。それというのもまた新たな人間たちが現れて、僕を戸惑わせるからだ。それは今年新たに採用された新人たちだった。小さい会社のせいか三人しかいなくて、須田たちが使っている裏側の席のパソコンを使っていた。すると僕はこの時期に鉢合わせたことを悔やんだがそれも仕方なかった。どうしても彼らには引け目を感じたからだ。しかしそれでも僕は先週どおり三人の背を見ながら自習をせねばならず、そんな自習は結局、はかどっているかどうかも怪しかった。

 そんな状態の中、さらに追い討ちをかける出来事が起きた。茶の時間を過ぎて日も緩みだす頃だろうか。霧原に向け電話が一本かかってきた。マンユーズの真田からだと言い須田が転送するので、僕は最初てっきり自分の事かと思い緊張した。だがどうやら聞いているとそうではなかった。画面を見ながら霧原がよそ行きの声で応対した。「え? ああ、そうですか」と少し驚いた声で言い、霧原は電話を終えると村井を見て言った。

「君のところのF君? 仕事中に倒れて病院運ばれたって。検査したら脳梗塞の疑いだってよ」

「ええ、まじですか」

 村井は驚いてそう言うと、煙草に火を点けては苦笑しながら言った。

「ついさっきまで一緒にいたけど、そんな風に見えませんでしたよ」

 霧原と須田が軽く笑った。村井は背もたれにふんぞり返ると、咥え煙草で手を頭の後ろに組み、しばらくその話題で仕事も中断した。

「でもなあ、結構こき使ってたからなあ、最近は」

 村井が鼻を吹きながら言うと、二人がまた笑った。死ぬってことですか、と村井が興奮気味に聞くと、それはまだ分からないと霧原が言う。彼いくつ?と霧原が聞くと、村井は二十六だと言った。

「でもいいか、そんくらいが丁度」

村井がそう言うと、何がいいんですかと須田が笑って言う。

「いや、まだ若いし」

「ははは、意味分かりませんね、それ」

 須田はそう言いながらも、相変わらず画面を見たまま手ではマシンガンのタッチを続けている。

「ひどーい。村井さんてそういう人だったんですね。村井さんの下にはつきたくないですね」

 村井は既に僕のほうを向いてはパソコン画面を背にもたれかかっていた。煙草を手にしながら顎の張った顔を紅潮させ、床を見ては妙に顔を緩ませながら言った。

「でもなあ、今の時期はやばいなあ。夏ごろまでの予定だったのに。せめてあと三ヶ月は待って欲しかった」

 するとまた二人が笑い、須田はひどーいを連発した。村井は顔を染めて笑い、そんな村井に向けては霧原が半分たしなめるように、お前それだけはまずいだろう、と言った。

 三人がそうして悲報で湧いている間も、僕は当然静かに自習しているしかなかった。倒れた男は村井の部下で、どうやら客先に常駐しているらしい。真田が連絡する以上は彼もまた派遣要員には違いないのだ。すると僕はテキストも終わりに近かったが後はあまりやる気もせず、その日は適当に流して終わらせ本を閉じてしまった。ノートパソコンにはゲームも入っているので、知っているゲームがあると後はただゲームをいじっていた。どうやらマンユーズから派遣された社員はそんな扱いらしい。そう思うと、僕は改めて新人たちをうらやまざるを得なかった。

 しかしその日は何もそんな悲報ばかりでもなかった。彼らの会話も疾うに止み五時を過ぎた頃だろうか。霧原が思いついたようにこちらへ向くと、今更ながらS電機での採用について言ってくるのだ。

「向こうさんで新しく探す予定もないと言ってるから、だいたい予定通りゴールデンウイーク明けには、向こう行けると思う」

 水面下では調整もあったようで、すると不採用の場合もあったらしい。しかし僕はそんなことも疾うに忘れていて今更驚いたくらいだった。さらには単にそうなのかと聞くだけで、大してそれは嬉しくもなく、むしろ当然のことのように聞いていた。どうやらそうして、僕はようやくS電機にたどり着いたらしかったのだ。

 やがて帰る頃になると、電話がかかってきて新人の一人が受け、会社の方からですと僕に向けて言った。何だと思って出てみると、相手はキューエムティーの人間だった。

「あの、今回戸橋さんの担当させてもらうことになりました、私株式会社キューエムティーの遠山と申しますけど、今回S電機のほう行かれるということで、ただいま研修されてると聞きましたんですが、調子のほうはどうでしょう、大丈夫ですか」

「え、あ、はい、大丈夫ですが」

「ほんとに、大丈夫ですか?」

「え、ええ、大丈夫ですよ」

 申し訳なさそうな声で繰り返しそう聞いてくるので、僕は下手な愛想で仕方なく繰り返した。そうして何とか確認を取った形になると、彼はそのままの感じで用件を言い出した。

「それでしたらあのね、今回研修期間中の給料ということで、こちらから振込みさせて頂きたいんですよ。ですから通帳と印鑑持ってこちらに一度来てもらいたいんですけど、それであのう、きょう印鑑お持ちですか」

 持ってないと言うと、明日までならいいんで、明日の七時までにこちらへ来てくれと言う。僕は情けないことに、給料のこともすっかり忘れていて、研修期間がその対象であることすら認識していなかった。

「あのう、一時間千二百円で、交通費は含まないんですが、なるたけ高く設定してありますんで」

 思わせぶりなやさしい声である。僕はありがとうございますと礼を言いながらも、相変わらず背後の新人たちを気にしていた。

「それじゃ、明日お待ちしてますんで、よろしくお願いします。ぜひ研修のほうもがんばってくださいね」

 あくる日、印鑑と通帳を持ってキューエムティーの入るビルを訪ねると、遠山は眼鏡をかけた優しそうな男だった。

「うん、そう、ここに押していただければ、ちょっとつきにくいかな? うん、じゃあ、貸してみてくださる? 僕が押しましょう。はい、これでいいかな、これでいいね、だいたいね」

 仕事口調なのか、まるで腫れ物に触るように彼はしゃべった。それから顔を上げると、フレームのない眼鏡を指で直しながら聞いてくる。

「研修ってのは? 真田さんのところでしてるわけなの?」

 微笑しながら探るように聞いてくる。僕はそんなことも知らないのかと思いつつ、少し落胆気味に言った。

「いやそうじゃなくて、真田さんと付き合いのあるところのお世話で……」

「はあ、あ、そうなんだ」

 すると真田もその辺の事情をあまり言わないのだろうか。どうやら遠山には真田の向こう側は見えていないらしいのだ。すると僕もあまりしゃべってはいけない気がした。彼もまたそれ以上は聞いてこなかった。結局そんなもんかと、僕は下っ端役人のように、ただ居直るしかないのだった。



 やがて研修二週目も何とか過ぎていき、四月最後の金曜日となった。僕は気恥ずかしげに新人たちと一緒に研修を行ったLANについても何とか基本は覚え、あとはまたテキストを見ながら、いつもの古びたノートPCに向かっていた。しかしその日はまた特別だった。なぜなら普段は五人程度のコンピュータールームに見たことのない十数人が集ったからだ。どうやら出先に常駐している社員らしい。その日は月一回の定例会議があるらしく、何やら飲み会の話なども囁かれていた。しかし僕は自分の机にへばりついているしかなく、がやがや騒いでいる彼らとは打ち解けられるはずもなく、ほとんど無視されていた。そんな中いたたまれずに、僕は一人また三階の部屋に行っては煙草を吸ったりしていた。すると突然霧原が入ってきて、僕を見つけて言った。

「何やってんだ? お前」

 叱るように言われ、僕はすごすごとまた騒がしい部屋へ引き返した。やがて霧原が帰ってくると、皆の前で少し厳しく言った。

「戸橋君、他の階の部屋は許可がない限りは入ってはいけないからね、不法侵入だから」

 その後、皆は五階の会議室に集められると、新人たちと一緒に僕も皆に挨拶しなくてはならなかった。新人が先に自己紹介とともに挨拶した。

「一日でも早く仕事を覚えて、先輩たちの力になれるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 新人らが似たようなことを言ったあと、霧原が言った。

「あと、彼も今度マンユーズさんからうちで一緒に仕事をすることになったんで、一応紹介しておくから、じゃ、立って」

 本当にこいつらと一緒に仕事をするのだろうか。僕は半信半疑ながら仕方なく立ち、言った。

「あ、はい、あの、戸橋といいます。よろしくお願いします」

 儀礼的な拍手をもらったあと定例会は終わった。その後下へ降りると、霧原は飲み会があること、そしてその場所を教えてきた。

「○○会から会費出るから、タダ酒いくらでも飲めるよ」

「あははは」

 僕は仕方なく乾いた笑いをした。飲み会といってもおそらく新人たちの歓迎会だと思えば出る気もしないのだ。僕は頃合を見計らって思い切って聞いた。

「あのう、飲み会ってのは、出ないといけないものですか」

 すると霧原は少し顔をゆがめ、出口のほうを見たまま、別にそう決まったわけじゃないがと低めの声で言った。

「一応顔見せということだから、これから仕事をする上でも出るに越したことはない。ただ君の判断にもよるけどね」

 霧原は横顔を向けたまま演説するように言った。しかし言うことはもっともにしろ冷え切った腹には何の効力もなかった。僕は半ば腹立ち紛れに冷めた感じで言った。

「じゃあ、帰ります」

 霧原は顔に憂いを含ませ、何も言わず大げさにうなずいた。社員たちは相変わらず何も聞こえないかのようにパソコン画面を見ては楽しげに談笑している。僕はそのまま出口のほうへいそいそと向かった。

 翌週、ゴールデンウイークの影響で、まだもう一週残していた研修の月曜日、僕は飲み会を断った手前いつもより不安げに堂島へ向かったが、幸い霧原も須田も特に問題にしてはいない様子だったので安心した。そうして祝日を跨ぎ、あとは復習ばかりとなった研修もとうとう最終金曜日を迎えると、その日の午後、霧原は何やら五階へ行って待っていてくれと言った。言われた通り五階で待っていると、やがて霧原が来て事務的な調子で聞いた。

「それじゃいよいよ連休明けから向こうへ行ってもらうけども、勉強内容についてはどう? だいたい出来てる?」

 しかしそう直截的に言われると、僕はまた気圧されてしまった。

「そうですね、不安がなくはないけど、まあ、だいたい……」

 すると霧原はこちらをじっと見ながら顔付きを変えずに言う。

「あのねえ、そうしてはっきりしないのが一番良くないから。はっきりしてくれないと困るからね」

 少し低めの声はがらんとした室に良く響いた。霧原は続けた。

「それからこないだも言ったけど、お客さんの前じゃそれだめだからね。分からないなら分からないってはっきり言ってね。はっきりしないのが一番信用されないから。別に恥ずかしいことじゃないからさ。何もコンピューターの中について全部知ってるわけないんだから、そんな人ひとりもいないわけだから。分からないことなんていくらでもあるわけだし、その時はちょっと調べてきますとか言っておいて、電話してうちの社員に聞くとか、或いは僕に電話してもいいわけだから」

 霧原は畳み込むように言ってくる。

「とにかく分かんなければ、一人で悩まないですぐ聞くことが大事だから。それからあと経験がないわけだから、とにかく愛想良くしたり、空元気でもいいから元気出してやるとか、そこら辺でも評価されるからね」

 僕は仕方なくはいとは言うが、そう言われても自信はなかった。ただ作り笑いをしては演技し続けるピエロを思い浮かべるのだ。霧原は会議テーブルの上両手を組みながら続けてくる。

「それから勉強は常に必要だからね。この世界はサイクルも早いし、自分でも本とか買ってどれだけ読んでるかってことだから。人の出来ないことをしてお金もらえるわけだからね」

 彼の言うことはもっともだったが、そのもっともらしさが何だか鼻についた。中身の話はそれで終わったが、今度は身なりについて言ってくる。

「営業とかじゃなくて室内でやる仕事ならね、僕は別に茶髪だろうがピアスしてようが構わないけど、戸橋君は顧客先に派遣されるわけで、常にお客さんにさらされるわけだから。今みたいな感じであれば問題ないけど、とにかく身なりについては気をつけて欲しいんだけど、それについては大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

 実際、素直にそう言えたのはそれくらいだろうか。霧原は言いたい事を言ってしまうと今後の予定を言い出した。連休明けてすぐの日、朝九時にまたあのA駅で待ち合わせだと言われると、僕は放免されて下へ降りたが、その後の自習はほとんど暇つぶしだった。

 その日、霧原は忙しいのかしばらくすると出かけるらしかった。今まで使っていたノートパソコンは連休中使いたければ貸してあげるからと言い、入れるものがないだろうと言っては須田が適当な紙袋をくれた。それから霧原は出かける用意をしてしばらく部屋の中を歩き回っていたが、須田はそんな霧原を無視して画面に向かっていた。やがて霧原はいよいよ行く素振りを見せると、僕を指差しては須田に向けて言った。

「じゃあ連休明けの日、朝は彼と一緒にA支社行くんで、よろしくね」

「あ、はい、わかりました」

 霧原はどうやら行き先から直接帰るらしい。ゆっくりと背後の扉から出て行った。そんな霧原の余韻も徐々に薄れながら、僕は一人になった須田の背を見つつ、あとは定時が来るのをひたすら待つばかりだった。そうしてやっと定時が来ると、僕はようやくここでの研修を終えたのだった。


 

 連休明けは予想通り、朝起きるのがつらかった。A駅の西口に着いてみると、霧原は既に来ていて、あれ持ってきた?と袋に入れたノートパソコンを要求した。こないだと同じく、わざとらしく胸を張って歩く霧原の横をくっつくように歩きながら、やがてガラス張りのビルに着くと、七階へ昇り、またあの部屋へ通され霧原がきびきびと応じる。

「僕は先週からずっとだったから、九連休だったね」

 そう言って相手の部長が笑うとお宅ではどうなってると聞き、霧原が言った。

「ええ、うちでは先週金曜日までは普段どおり営業してまして、一応S電機さんとお付き合いさせて頂いている関係上、営業日にはなるたけこちらも応じられるように、S電機さんのテーブルに合わせるようにさせて頂いてるんですよ。完全休業日以外はなるたけ休まないようにしております」

「ああ、そうなんですか」

 部長は人懐こい笑みのまま薄く言った。僕はそんな堂島の低姿勢振りには軽く驚いたが、それでもただ他人事のように彼らの顔を眺めるばかりだった。そのうち井沢が煙草を吸いながら口火を切ると、話は自然と本題に入った。

「業務単価のほうはどうなりましょう。一応文書製作などした場合は、一枚いくらで計算させて頂いても」

 霧原は少し緊張気味に言った。すると時間給が頭を過ぎるがそれについては課長が口を出した。

「いや、そういう仕事じゃない。とにかく障害対応というか、トラブルシューティング?そうだね、井沢君」

「ええ、まあ、そうですね、だいたい」

 井沢は煙草を手に持ちながら、おどけるような笑みで言う。僕は笑いもせず相変わらずじっとして額には汗を宿していたが、そんな僕の前で井沢はこないだのように、愛想のいい、照れたような笑みを浮かべ、部長は霧原と話しながら時折えくぼを作った。

 やがて部屋での面談も終わり、部課長らに頭を下げると、こないだのパーティション脇に行ってはまた井沢一人と向かい合う。霧原は指導内容をテキパキしゃべり、僕はただ時折うなずくだけで、井沢は作り笑顔のまま煙草を持つ手がまた小刻みに震えている。期間的にはだいたいどのくらいかと霧原は聞くと、井沢はだいたい一年くらいですねとあいまいに言った。僕は期間のことなどそれまですっかり忘れていたが、一年と言われても長くも短くもなく、ただ妥当であるという感じがするだけだった。

「じゃあ、とにかく一年頑張ってみて、もうパソコンについては何でも分かるくらいにね」

 霧原はこちらを見ると笑いながらそう言うのだが、そう言われても僕はただ苦笑するしかない。井沢がまたぺらぺらと楽しげに言った。

「やりたいこといっぱいあるんですよねえ。社内規定もホームページ化したりとか、通知もだいたい社内メールにしたいですし」

 イントラネットですか、と霧原は真面目に突っ込んだ。井沢は作り笑みのまま肯くだけで、無論人手が足りないとも言いたげである。そんな仕事もするのかと、僕は一瞬そう思ったが、それも何だか井沢の趣味にしか思えない。やがて会話も折り合いがつくと二人はそれぞれ立ち上がり、霧原は井沢に頭を下げた。それから脇で立ち上がった僕に向けては、じゃ、がんばってね、と小声で言うと、霧原はそのまま疲れがにじむ背を向け、自分の場所へとあっけなく去ってしまった。

「じゃあ、とりあえずどうしようか。ワードエクセルは一通りやって、LANも習ったんだよね」

「ええ、まあ、テキストだけ一通りやって、LANも基本程度だと思います」

 既に第一日目は始まっていた。井沢は気さくな笑みのまま元いたテーブルにつくと色々聞いてきた。しかし発する問いの一つ一つが僕には針のようでもある。井沢は時折まぶしげな顔をしたが、彼の目には相変わらず僕はまだひよこなのかもしれない。じゃあ、こちらへ来てと言われついていくと、パーティションの向こう側は依然オフィスが広がり、やがて棒状に机の並んだ島の一つにたどり着いた。奥から二つ目の長い島でその島だけは誰も座っておらず、雑多な物の物置き場になっていたが、そのうちの一つの机が自分の机だとあてがわれた。

「筆記用具とかもここにそろってるから、これからはここ使って」

 井沢の太い腕で引き出しを開けると、色とりどりのペンやホチキス、二穴パンチなども入っていた。恰幅のいい井沢は、行動全てがきびきびしていてそれも少し荒っぽかったろうか。しかし顔には相変わらず温和な笑みを浮かべたままで、そんな井沢にその後も僕は猿のように引き回された。反対側の端には別のパーティションがあり、井沢は自分の机に寄っては厚いファイルを手に取りそちらへ僕を連れて行った。

「とにかく初めは勉強して、ここについても知ってもらうしかないから。うちはこの下の四階にもあるんだけど、あとで席回って紹介するけどね。あと関係あるところとしては、東京に一つと、大阪と、それから埼玉のほうにも支社があるから。そのうち行ってもらうこともあるけどね。埼玉のほうでは営業企画の会議もあるから、一応見学のつもりで、一緒に行ってもらうからさ。まあ会議って言っても出てもしょうがないんだけどね。ほんとは。でもまあいいけどそれは、しょうがないし」

 井沢は手帳を見ながらしゃべっては、時折また照れたような顔をした。パーティションの中は個室のようである。窓からの日が燦燦とあふれる中、それをバックに井沢はきびきびとしていながら、どこか奮い立っているようでもあった。彼は一分の間も持たせずぺらぺらとしゃべった。僕はただ阿呆のように聞いていた。井沢の持つ煙草の手を見れば震えは既に止まっている。井沢は厚いファイルから紙を一枚取り出すと、こちらに渡してから言った。

「じゃあ、これが七階の座席表で、これが四階ね。徐々にでいいけど名前と顔を覚えてね。渡しておくから。あとこれは各ノードのIPアドレスを表にしたものなんだけど、ところでIPアドレスって分かる?」

 よくは知らないと言うと、井沢はすぐに答えた。

「IPアドレスっていうのはあ、ネット上におけるノード、つまりサーバーとかパソコンとかルーターとかの識別番号で、まあデータ送る場合の宛先みたいなもん。ネット上では互いにその番号で識別してるから」

 井沢は先へと進めるが、その後も専門用語は数々出てきた。僕は時折質問を挟みはするが、まるで機銃のようなそのしゃべりはほとんど頭に入らず、彼一人でしゃべっている具合だった。

「プロトコルっていうのは、ネット上の通信規約。要するにデータのやり取りをする場合、通信相手の認識とか、送り合う手順、電気的、物理的条件とか互いに認識し合ってないとやり取りできないわけ。そのいろんな取り決めのことね。だから逆にプロトコルさえ合ってれば互いにOSとか機種に関係なく通信できるわけ。身近なものとしてはHTTPとかFTPとかSMTPとか色々あるんだけど、HTTPはパソコンでホームページ見る場合、つまりwebサーバーとWebブラウザ間の通信の場合。FTPはファイルを転送する場合、SMTPは電子メールの場合ね。あと他にもPOP3やDNS、ICMP、PPPっていっぱいあってね、それらはOSI参照モデルで通信機能によって階層化されてます。それからインターネットだとTCP/IPって聞いたことあるかもしれないけど、これはネット通信におけるプロトコル群の総称でね、つまりネット通信はTCPとIPっていう二つのプロトコルが中心になってるわけね。それでまずTCPってのは通信の品質や信頼性を高めるための大事なプロトコルでね、データをセグメントに分割して、受信側と一対一にコネクションを確立する役割があって……」

 井沢の早口はまるで箱を開けたおもちゃのようにして、耳のそばを次々通っては頭の周囲で踊った。それは井沢の背後から差す日の光と混じりながら、乾いた声でけたけた笑いつつ個室にあふれるようだった。突然、気抜けしたようなチャイムが鳴った。井沢は時計を見て、じゃあ、もうお昼だねえと言った。パーティションを出ると、広いオフィスは既に人も疎らで、僕はあてがわれた机に行って書類を机上に置いた。すると背後のほうで井沢が財布を覗きながら、「飯行くぞお」とおどけるように言っては出口へと向かっている。僕は仕方なくそんな井沢のあとを追った。



 こうして始まった第一日目だが、僕はその後も井沢に引きずりまわされてばかりだった。だいたい飯に行くときからして、井沢は背後をついていく僕のことなどかまわずどかどかと足早に歩いた。そうして入った軽食喫茶では、緩やかな笑みを顔に浮かべて聞いてくる。

「それで今は何? 実家から通ってんの?」

「はい」

「そう、俺も実家なんだ。早く出たいんだけどねえ」

 井沢はそう言って横へと煙を吹いたが、僕は水を飲むままで黙っていた。

「T通信ではなに? どんな感じのところにいたの? やっぱきょうみたいな感じのところ?」

「いや、ああいうんじゃなくて、作業服着て、端末ルームみたいなところです」

「ふうん、じゃあ、全然違うんだあ」

 井沢はそう言って水を飲むと、今のところのほうが良くないかと聞くが、そう言われても僕はただ苦笑するしかなかった。

「僕も理科系でS電機入ったけど、今みたいな事務系の方がいいと思ってね。女の子も結構いるし」

 井沢は独身なのだろうか。そう思いながらも、飯を終えると井沢はさっさと二人分の会計を済ましてしまうので、僕は財布に触る余裕さえなかった。それからまたどかどかとビルへ向かい七階に上がると、机に戻って待っていてくれと言う。

「しばらく、これ読んでて」

 僕はパソコン雑誌の記事をコピーしたらしいファイルをぱらぱらとめくった。けれども目には入らず、代わりに周囲の社員たちの目ばかりが気になった。しばらくして井沢がまたパーティション越しの部屋へ来るように言い講義が始まったが、早口でまくし立てる彼の知識は底なし沼のようでメモを取る暇もない。こうして早くも幻滅を感じ出した僕は、ただでさえ薄いモチベーションがありありと失われていくのを感じた。そんな僕に対し、井沢も顔には表さないが、明らかにイラつき出しているのがよく分かる。台車を使って何かパソコン用の機材を運ぶときも、運び終わった空の台車を井沢はわざとらしく廊下の壁にがたがたとぶつけた。貸与された新しいノートパソコンのインストールをしているときも、僕は説明をしながらしゃべる井沢やパソコン画面を眺めるだけでメモも取らないでいた。すると井沢は言った。

「ほんとにわかってんのかなあ。さっきからメモも取らないようだけど」

 言われて初めてしまったと思う始末である。僕はあわててノートを取り出しメモを取るふりをした。

 そうして一日目も終わりに近づいた頃、机の上、目の前の電話が鳴った。誰もいないので出てみると、懐かしい声がする。

「あ、もしもし堂島情報の須田ですけど、戸橋さんはおられますか」

「あ、はい、私ですけど」

 内容はある書類のフォームを今からファックスで送るから受け取ってくれということだった。渡すのを忘れたらしく、出張があった際事前報告に使うもので、コピーして使ってくれと言う。僕は受話器を持ちながら、須田の愛想のいい声には気まずく応じた。

「受け取ったら一応連絡ください。番号書いてありますんで、よろしくお願いします」

 そうして再び電話をする頃には、もう定時が近かった。

「あ、はい、じゃあそれで使ってください。あと今日のことなんですけど、今日はだいたいどんな作業しましたか」

「今日ですか。今日はまあ、研修みたいなものですかね」

「あ、そうですか。じゃあ就業表には一応研修と書いて置いてください」

 須田の愛想はそのままだったが、僕は低い声で電話を切った。

「時間来たら帰ってもいいからね、五時半までだから」

 井沢が気にして僕のそばへ来て言った。そうして第一日目の就業は、早くも不安を残して終わった。

 


 就業第二日目は、ビルの七階に着いてみると、社員全員でラジオ体操をしているので驚いた。けれども遠くの喫煙所を見ると、井沢が数人と煙草を吸いながらサボっている。おそらく彼らはいつもそうなのであろう。僕は廊下をうろつきながら、仕方もなしにある入り口脇に設置してある、触ったこともない自動販売機からコーヒーを買って飲もうとしたが、勝手が分からず困っていると、近くの女子社員が教えてくれようとして寄ってきた。けれども哀しいことに、僕は何だかそれが気に障った。無視していると、女子社員は逃げるように去ってしまった。

 二日目は概して暇といえば暇だった。僕は途中、ビルを出て外を一回りさえしてきたくらいだった。井沢も自分の仕事を持っていてそれにかかりきりなのだ。すると井沢は本を一冊持ってやってきた。

「これでワープロの新しい機能とか発見しといて。分かるシリーズってやつだから」

 僕は堂島情報での過ごし方と同じように、また本とパソコンを使い自習となった。周囲の社員たちを気にする中、何だか自分一人が阿呆に思える。そうしているうち背後からある一人の社員が来て言った。

「戸橋さんですよね。ちょっと話したいんで、こちらへ来てもらえますか」

 パーティション越しのテーブルに向き合うと、彼は静かな調子でいくつか質問した。眼鏡をかけた三十半ばのどうやら総務担当の男だった。給与や交通費について聞かれたものの、給与は別のところから出ていて、交通費はないというと、あ、そうですか、と静かに驚いていた。

「あと、お昼はお弁当もあるんですが、どうしますか。注文する場合は一月ごとになりますけど」

 そういえば昨日、あの自動販売機のあった入り口脇、反対側の壁際には赤い弁当箱が積まれていたのを思い出した。同時に昨日の井沢との昼飯がよぎり、毎昼外に出るのは面倒だと思えば、少し迷ったが結局それで頼むと言ってしまった。料金も一ヵ月ごとまとめて払うようだった。

「じゃあ、一応引かせてもらうように、連絡しときますんで」

 総務係は無表情にそう言うと、その後も相変わらず静かな声で二、三の注意をした。

「このビルは正門だと、開いているのは朝の七時から夜九時までなんで、朝は七時前に来ても開いていませんので注意してください。夜九時以降は別の通用門から出ることになります。あとそれから、下に守衛の人がいますから、もし何か身分なり聞かれたら、一応S電機の社員ということで、通すようにして置いてくれますか」

 総務係はそう静かに言い、僕は胸の淀みを覚えながら、小さく肯くしかなかった。やがて昼も過ぎ、午後になると、井沢はパーティション越しのあの部屋へまた行くようにと促した。僕はノートを持っていそいそとついていった。

「LANにも取り決めとか、規格があってね。今一番普及してるLANの形態はイーサネットって呼ばれるものなんだけど、これも昨日言ったプロトコルの一つでね、OSI参照モデルで言えばレイヤ1と2、つまり物理層とデータリンク層をサポートするプロトコルになります。それでイーサネットにも規格がいくつかあってね、テンベースツー、ファイブ、ティーとあるけど、中でも一番普及してて、うちでも使用してる規格がこのテンベースティーね。これはLAN内でのデータの通信速度とか、使う機材とか物理的なものに関する規格でね、テンは10、つまり速度が10メガビット毎秒、ベースは伝送方式がベースバンド方式、つまりモデムで信号を変復調しないでそのまま流すのね。機器の影響を受けやすいから遠距離には向かないけど、LANではほぼこれね。ティーはツイストペアケーブルの頭文字、つまりこの規格では集線装置、つまりハブにシールド加工のないツイストペア線、アンシールデッドツイストペアケーブル、つまりカテゴリ3以上のUTPケーブルを繋いで構築して、今言った速度と伝送方式でやりとりする規格になるわけ。だから配線形態について言うと、テンベースティーではハブを使うから、図を描くとこうして放射状のね、スター型ってやつになるわけ。もちろん配線形態は他にもこうしてバス型、リング型ってあるけど、バス型はシンプルでノイズも少ないけど、同軸ケーブル一本だから障害特定しにくいし、オフィスでは敷設も大変。リング型も管理はしやすいけど、一部の故障で全部にいっちゃったりするから不便でね。だから主に使われるのは、うちのオフィスでもそうだけど、このスター型になるわけ。ハブからケーブルでつなげてこうしてツリー状にもできるし、端末のLANカードからハブまでのUTPケーブルの長さは最大で100メートル。だから配線もしやすいし、大規模配線も可能で、オフィスのレイアウトなんかにも自在に対応できて便利なわけ。制御装置と各端末間が一対一接続だから、障害の波及が小さくて、集中制御も出来るし、要するに管理がしやすいわけね……」

 僕はボードを書き写すだけで精一杯だったろうか。書き写しの様子を見ながら井沢はボードの字を消してはまた書き出した。井沢は自分の範囲周辺ならあらゆる知識を持っているかに見え、そうしてひとしきり口角泡を舞い飛ばせながら、半ば興奮気味にしゃべっているようだった。やがて休憩にするかと井沢が言い、井沢が部屋を出て行くと、僕もパーティションの部屋を出て行って下までジュースを買いに行った。戻ると井沢が居て、お、冷たいの買って来たな、などと言う。そして部屋ではジュースを飲みながら軽い雑談になったが、僕はせいぜい井沢の講義の印象について素直に訴えざるを得ない。

「なんか話聞いてると、覚えることが多すぎて、底なし沼みたいな感じですよ」

 すると井沢は表情を変えず平坦な声で言った。

「うん、ああそうか。でもこの世界はあ、知りすぎても足りないくらいだし、次々と新しいこと出てくるから。特に大事なのは人脈。困ったときにいつでも聞ける人脈を作ることが大事だから」

 僕は缶に口をつけ、しけた顔で肯いた。

「僕も以前、一年くらいある人にお世話になったんだけど、その人にはだいぶ鍛えられたからね」

 井沢は煙草を吸いつつ少し照れるように言う。それから顔を少しゆがめ、打ち明けるように言った。

「でもこの世界はねえ、あんまり報われない。苦労した割にはね。だいたいなんでも答えられるくらいじゃないと駄目だし、答えられて当たり前で、向こうもそう思ってるしね」

 眩しそうな顔で井沢は煙を吹き、僕は同じ調子で頷くしかなかった。そのうち部屋にある事務用電話が不意に鳴りだすと、井沢はすぐに取り上げ、立ちながら答え始めた。

「ああ、それはねえ、ディー、アイ、アール、アスタリスク、ドット……スラッシュ、エー、コロン……スラッシュ、ダブリュウ、でいいと思う、うん、はーい」

 DOSのコマンドについて聞かれたらしい。そのうち自分にも仕事を振るからと井沢は言う。やがてまたしばらく口角泡を浴びると、機銃のような喋りにいい加減呆れだしたころ、井沢の講義は終わった。それからまた僕は机に戻って自習ということになったが、窓の外は西日が雲を染め、昨日と同じく定時が迫っていた。しかし昨日のように井沢は知らせに来ずに、遠くの机を見れば忙しそうに電話をしている。僕は近くへ行くと、井沢は電話しながら大きく頷いた。僕はまた机に戻り、パソコンを閉じ、そうして就業第二日目を終了した。


 

 翌朝、僕は寝床の中で目覚まし時計の音を聞くと、すぐにそれを消し再び目を瞑った。起きなければならないのは分かっていた。しかし体が動かなかった。どれくらいそうしていただろう。頭には井沢の早口が過る。すると突然、胸のうちで何かが崩れてしまうのがありありと分かった。一旦そう思ってしまえば、僕はなんだか安心してしまった。じっとしていると案の定、母親がやって来て言う。

「おい、もう時間だよ、起きないの?」

 そのまま無視していると、母親は一旦台所へ帰った。けれどもしばらくまどろんでいるうち、またやって来て言う。

「おい、行かないの? 今日は。休みなのか?」

 甲高い声が頭に響く。僕は不意に腹が立った。休みだよ、と大声で怒鳴った。すると母親は、ああそうかあ、と拍子抜けしたように言った。

 再び目覚めると八時半だった。するといつまでもこうしてはいられなかった。九時になると電話口に立って井沢に電話した。するとはじめ出たのは同僚の女性だった。僕は丁寧な声で、井沢さんはいるかと尋ねた。

「少々お待ちください」

 やがて十秒とかからず井沢は出てきた。しかしその声には何の濁りも見えない。相変わらず気さくだったので僕は安心した。

「はいもしもし井沢だけどお、どしたあ?」

 受話器の向こうに、あのおどけたような人懐こい笑みが浮かぶ。そんな井沢に向け、僕は薄く笑いながら、仕方もない弱った声で言った。

「あの、すいません。やっぱりよく考えてみると、どうもやって行けそうにないんで、やっぱり辞めようかと思うんですが。早めのほうがいいと思いまして……」

 しかし思い切ってそう言っても、井沢の反応には肩透かしを食らうばかりだった。彼は何の戸惑いもなく普通に返してくるのだ。

「うん、ああそうか。じゃあ、仕方ないね」

「どうも、すいません」

「うん、分かった。はいはい、それじゃどうもお」

 井沢は別段驚きもしない。気さくな調子はそのままで、電話はいつの間にか終わってしまった。僕はいくらか拍子抜けはしたものの、ただその分、別段悪いとも思わず、肩の荷も下りていたのは確かだった。しかし一つだけ、面倒なことがあった。後ろで聞いていた親らである。彼らとは台所のテーブルを囲んではまた口論しなくてはならなかった。

「まったくなあ、どうすんだ? お前。せっかく研修とかまでやってもらってなあ」

「仕方ないだろ。研修は別だよ。だいたい訳が分からないだろう。あっちこっちひきまわされてさあ。なんであんな変な契約なんだよ。なんで二つも別の会社入ってんだよ。何者だか訳わかんねえだろう、こっちはあ」

 しかしそう訴えても親らはまったく意に介さなかった。彼らは期待はずれのことを平気で言ってくるのだ。

「でもほんとに今度のところはなあ、お前のために骨折ってなあ、尽くしてくれたと思うよ。あの真田さんだっけ? 何度も電話をくれたりしてなあ」

「うーん、ほんとそんな感じだったよ。気さくな声でねえ」

 年金暮らしの父親が言えば母親もまた、後を追うようにしてそう賛同するばかりなのだ。すると彼らに言っても無駄と思い、僕はうるさいんだよと一言怒鳴ると、そのまま部屋へ行っては布団に伏せってしまった。そうしてこのままいつまでも寝てやろうなどと思っていた。足に絡まる蔓草の存在など忘れてしまったのだ。しかし如何せん、そんなことは許されなかった。まもなくして、霧原から電話が来たからだ。事情を言うと、霧原は即座に声をぶつけた。

「何言ってんだよお前、それはこちら側の話だろう。なんで先に向こう電話しちゃうんだよ。こっちが先だろうにさあ」

 それは既に怒声に等しかったろうか。ただ僕はそんな霧原の態度に正直言って驚くばかりだった。そんなことは気づきもしないし、第一考えもしなかったからだ。僕は怒声に耳を任せては、阿呆のようにただ突っ立ったまま、黙って聞いているしかなかった。

「そりゃ辞めたいってことは別にいいよ。そういうこともあるわけだし。ただそれならそれでこっちが向こうに連絡することだろう。うちの社員がどうも辞めたいって言ってるんでとかさあ。筋通してくれよちゃんと。分かってんのかよ、お前」

 僕はすいませんとぼそぼそ言ったが、おそらく何にも分かっていなかった。じゃ、いいよもう、と霧原は言って電話を切るが、僕は既に開き直ってしまったまま、布団の上で煙草を吸った。そうして再び寝てやろうかなどと思ったが、これもまたそうはいかない。再び電話が来たからだ。今度は真田だった。

「あ、もしもし真田だけど。どうしたのお、今日はあ。からだの調子でも悪かった? 健康には気をつけないとお。健康管理も仕事のうちい~」

「いや、からだというより、なんかやっていけそうにないんで、辞めようかなと思いまして……」

「ええ? おいおいそれはないだろう。まだ始まったばかりだしい。そんなこと言わないでえ、考え直してみてえ。早まらなくていいからあ。第一前の仕事とはちがうんだからあ、もったいないよ、せっかくう。今ならまだ間に合うからさあ、具合悪かったってことでえ……」

 真田はあくまで優しかったが、少し焦りもあるのだろうか。しかしそんな真田の声色にも僕の気持ちは変わらないまま、電話口では渋っていると、真田はまた面倒なことを言ってきた。

「とにかく電話じゃあれだから、今からこっち来てくれる? 今十時前だから何時頃来られるかな、十一時くらいかな?」

「いや、半くらいです」

「十一時半ね、じゃあその時間で来てくれる?」

「……はい、分かりました」

 僕はしぶしぶスーツを着て、結局すぐさま出かけるしかなかった。


 

 マンユーズに着いたのは、十一時十五分だった。鉄扉を開け中へ入ると初めに来た時と比べ部屋の様子がだいぶ変わっていた。パーティションが新たにしつらえられ、すぐ横には応接用のソファがあり、足を組みふんぞり返る真田が煙草を吹かしていて、僕の顔を煙たげに一瞬ちらりと見た。それともう一人いた。キューエムティーの遠山である。遠山は幾分緊張気味に真田の相手をしていた。

「僕もここ来る前はね、もうちょっと大きなところで営業関係統括しててね。営業所なんかもいくつか抱えてたんだけど、うまく行かないこともあってね。それで終いには胃やられちゃってえ、胃潰瘍なんだけどね。しばらく入院しててえ、働けなくなっちゃったりしてたのよ」

「ふうん、そうですか。それじゃ大変でしたでしょう」

「うん、だからほんと体って大事、健康管理がね。何も出来ないから。だから遠山君もさあ、そこら辺ほんとよく注意する癖つけといたほうがいい。特に精神面もそう。仕事だけじゃやっぱりストレス溜まるから。ストレスが結局体に来るわけだからね、僕みたいに。だからやっぱりストレス解消ね。これもほんと仕事のうちよ」

「ああ、ストレス解消がねえ……」

 背後では若い女性の声が聞こえ、他の社員たちは皆出払っているらしかった。そのうち若い女性が日本茶を淹れて持ってくるが、僕は一応礼をするものの、それも何だか不愛想になってしまった。

「うちもどんどん若い子入れてえ、女の子とかも結構入れてんの。パソコン覚えてもらってえ、ゆくゆくはインストラクターにしようと思ってえ、だからああしてうちもパーテーション買ってえ、色々準備してんだけどね」

「じゃあ、そちらのほうでも、将来的には?」

「うん、そう。まだ準備段階ではあるけどね。でも俺はやらせる、必ずやらせる」

 気分よさげに頷いては、真田はまるで自分自身にも言い聞かせるように言った。未来へ託す仕事の期待がその顔には悦となり漂っている。そんな会話も一段落すると、遠山がようやくこちらを見ては声をかけてきた。その声はいつかの電話のときと同じく、あの腫れ物に触るような、優しい声だった。

「ところで戸橋君さあ、今日聞いてびっくりしたんだけど、どうしちゃったの? なんかあった?」

 そう言われ、僕は固い顔のまま別にそういうわけじゃない、何かやっていく自信がなくなったと、また同じことを言った。しかし遠山はただ顔を緩め、苦笑するばかりだった。

「やっていく自信て、戸橋君ねえ、まだ二日目だよ、分かんないよそれは」

「でも早いほうがいいと思いまして」

 ああそうかあ、と言っては、遠山はそのまま黙ってしまう。

「でもね、戸橋君だったら頑張ればねえ、それなりに能力あるんだから、そんなに臆することもないと思うよ」

 そうですよと、遠山も合わせて言う。しかし僕は何も言えずただ黙っているしかなかった。

「こないだもうちの子来てね、マニュアル貸してくださいってえ。向こうの本棚にいっぱいあるけどさあ。みんな真剣よ、頑張ってるしい。うん、少しでもスキル上げようと思ってえ」

 真田は明るい調子でそう言うが、僕はそんな真田の足かテーブル上しか見られなかった。仕方もなく目の前の茶を啜ると、真田は時計を見ながら、もうお昼だねえ、ちょっと外出よう、などと言った。真田に連れられ三人で外に出ると、連れて行かれたのは近くの軽食喫茶だった。一番奥のテーブルへ行き、三人で座る。真田は煙草を取り出しながら気さくに言った。

「僕おごるからさ、好きなの選んで、遠慮しないで」

 そんな真田の優しさは疎ましいばかりだった。しかし仕方もないまま三人とも同じメニューになると、脇には遠山がいて、目の前には真田がいるという形で、僕はそのまま尋問されるしかなかった。僕は言った。

「とにかく、向こうの人の話とか聞いてると、覚えることとかが多すぎる感じで、底なし沼みたいな感じなんですよ。なんか人目が気になるというか、落ち着いて取り組めない感じもあって、頭にも入りにくいというか、色々答えられないとまずいと思うと、こう、不安な感じがしまして……」

 僕は時々薄く笑いながらそう言ったものの、それ以上言えば何かが急展開しそうで怖い気もした。しかしそれについては真田がコーヒーを啜りながら、ひざを打つように言ってくる。

「うん、人目が気になるってのはねえ、それは完璧主義。それだけ自信があるの、戸橋君は。自信があるから気になるんだよ。だから遠山君ね、人それぞれ、こないだの彼とは違うでしょ、また」

 結局その後、僕は彼らの言葉を浴び続けたが、浴びれば浴びるほど気分は頑なになるばかりだった。するととうとう、遠山が満を持したようにこちらに身を寄せた。どうしてもだめえ? などと脇をくすぐるように聞いてくる。

「逃げたいんだろうな、多分、うーん分かるけどね、逃げたいってのも」

 真田は腕組してそう言ったが、顔はあくまで笑っていた。実際真田の言うとおりにしろ、理由といえば所詮、それだけかもしれないのだ。

「じゃあ、しょうがないかな」

 開き直ったように真田が言うと、僕はやれやれと思いつつ疲れた顔で下を向くしかなかった。それから真田は時計を見ながら金を払いに行ったが、その間も遠山は性懲りもなく、こちらを見ては口を懸命に動かしてくる。

「そりゃさあ、いろいろ嫌なこともあるよ、仕事なんだし。でも先だってどうなるか分かんないよ、まだ長いんだしさあ。いいこと悪いこと色々あってのことだからね、仕事なんて。僕だって今の会社二つ目なんだけどね、最初はわかんないことだらけでさあ、怒られたりもしたよ。そりゃ最初はしょうがないよ、誰でもそうだし、僕だってそうしてさあ、最近やっと慣れてきたっていうかね、そんなもんだよ、みんな。それにさあ、先月の給料だって、十日にちゃんと振り込むわけだしさあ、だからさあ、どう? 考え直してみない? どうしても駄目え?」

 僕は仕方なく顔を緩めただ聞き流すしかなかった。大体なぜ彼らがここまで引き止めたがるのか不思議なくらいなのだ。ダメかあ、と遠山が言うと、いい加減、いよいよあきらめたようだった。そのうち真田が来ると僕らは立ち上がった。真田は出口へ向かいながら遠山と忙しく話し出した。

「じゃ、僕これから、ちょっと彼連れてS電機行って見るから。で、どうする遠山君は、このまま帰る?」

「あ、そうですか。そうですね、じゃ、僕はこのまま帰社ということで」

 真田の台詞には、意気消沈するしかなかった。店を出ると遠山は真田に頭を下げ、僕もそんな遠山にぎこちなく会釈した。そのまま立っている僕に向けて、遠山は右手を差し出し真田についていくよう促した。そしてそのまま背を向け地下鉄入口へと去ってしまった。その後真田に付いて無言でビルへ戻ると、鞄持ってくるから待っててと真田は言い、社屋ビルへと入った。僕はビルの前で待ちながらも、あまりの面倒臭さに喉元には不平が絡むばかりだった。しばらくして真田はあのカーキ色の革の鞄を肩から提げて出てくると、じゃ行こう、と無表情に言う。そんな真田に向け、僕は歩き出しながらたまらず聞くしかなかった。

「A支社まで行くんですか」

「いや、やっぱり間に合わないから、堂島のほうにする。霧原さんのとこ」

「今すぐにですか」

「うん、早いほうがいい」

 真田はきびきびとした小声で言う。すたすたと歩いては終始無表情で、時折手帳を見ながらそれもあくまで事務の一環のようだった。銀行の角を曲がると地下鉄への入口が見える。僕は不意に金のことが気になると、階段を下りる前にまた真田に言った。

「すいません。ちょっとお金おろしたいんですけど、いいですか」

 真田は無表情に頷く。しかしそれを利用して、僕はついでに言うしかなかった。

「あの、先行っててもらえませんか。僕、後から行きますんで」

 しかし所詮、言っても無駄だった。真田は落ち着き払って返してくる。

「いや、いいよ、ここで待ってるから。おかしいでしょ、それも」



 D駅を出ても僕らは無言のままだった。信号待ちをしながら、真田は煙草に火をつけると一息長く吹いた。曇天の下、並木の桜は青々としていた。その下を歩く真田の足は決して緩まず、同じ速度ですたすたと歩いてゆく。またあのビルが見えてくると、ビルを前にして真田は煙を吹き出し足元に吸殻を捨てた。階段を昇りながら真田は深く息を吐き出し、扉を開けると普通に挨拶した。応接室に通され少し待つ。

「あ、どうも、こんにちは。すいません今回は、お忙しいところ」

 霧原がやってくると真田は立ち上がり、さも仕方ない感じでそう言った。しかし霧原は軽く会釈するだけで無表情のままだった。そのまま腰を下ろすと、真田は少し沈んだ調子で始めた。

「まあ、ご承知の通りうちの戸橋が、どうも続けられないと申しますもので、お詫び方々お伺いしとこうと思いまして」

 けれども霧原は、別段今朝の電話のように怒っているわけではなかった。肘を突きつつ真田に向けては、半ば顔を緩めながら言った。

「ええ、まあ、それはいいんですよ。ただそれよりね、S電機さんの方がご立腹でしてえ、今日も社長と一緒に、本社のほうへお詫びに行ってきたんですけどね」

「ああ、そうですか」

「ええ。社長は社長で、またかよおい、とか言って笑ってましたけどね」

 霧原はそう言いつつ笑いさえするので、僕はかすかに拍子抜けした。ただそう言われると、思い出すのは井沢の声ばかりだった。果たして怒っているのは井沢なのか、あの部長らなのか、或いは他の誰かなのだろうか。それは分からなかったにせよ、とにかくあまり簡単ではないのも事実のようなのだ。

「まあ、今回は社長と一緒に床に付くくらい頭下げまして、何とかお許しもらいましたけどね。でもこういうこと続くとさすがにねえ、契約の方もやばくなりますんでね」

 霧原はそう言いつつ、その声も案の定、最初はおどける調子から徐々に乾いた調子に変わった。すると僕は不意に責められている気がして、半ば投げやり気味に口を出した。

「じゃあ、僕が行って謝ってきましょうか」

 しかし所詮、無駄だった。霧原はすぐに冷たい顔で言う。

「そんなことしても、何の意味もない」

 霧原は煙草に火をつけ、それから僕にも訳を聞いてきた。僕は弱い声でまた、自信を失くした云々を言った。すると霧原はさも呆れた調子で言う。

「でもさあ、それも二十歳前後とかね、或いはそこら辺のお姉ちゃんとかだったら分かるよ。でもいくつだっけ? 戸橋君は。もう二十八だろう、お前」

 しらけた声でそう言い終えると、眼鏡の奥では乾いた目が僕を見つめていた。そんな目の前、僕はただ難しい顔をしては黙っているしかない。

「年齢的にも対人スキルとか、コミュニケーションとか、そこら辺期待してたのにね。戸橋君のおかげで、うちとしてもウン万単位の損害よ」

 霧原は煙を吹きつつ普通の声でそう言うのだが、そう言われても僕は驚くだけで、詳しいことなど知る由もなかった。ただそれについては霧原はそれ以上何も言わず、瀬戸物の灰皿に灰を落とすと、今度はまた別のことを言った。

「でも、もう一人いますよねえ」

 誰かと思えば、どうやらあの小峰らしいのだ。すると推測通り、彼女もまた真田の配下であり、霧原の口振りでは彼女もまた何か問題があるらしかった。

「彼女のところで仕事止まっちゃうと、周りが困るわけですよ。一応M君が面倒見てるらしいけど、彼もまた自分の仕事持ってるわけですからね」

 口調がかすかに厳しくなると、真田も仕方のない真面目さで応じた。そのうち経理の女がなぜかコーヒーを淹れて持ってくるが、僕は相変わらず深刻な顔をしたままテーブル上を見ているしかなかった。その後も小峰について会話は続いたが、小峰の処置については依然不明なまま、僕は仕方なく汗ばむ手を揉んではそのまま彼らの会話を聞いていた。しかしやがて、そんな会話もどうでもいい気がしてきた。すると最初は見ていただけのカップを手にとって、後はコーヒーばかりわざとらしく啜っていた。

「いやあ、しかし、マンユーズさん、打率悪いですね」

 突然、霧原が思い切るように言った。しばらく沈黙する。真田はやけに神妙な調子で言った。

「まあ、いずれにせよ、今回は私の不徳でもありまして、このようにご迷惑おかけしてしまい、大変申し訳なく思っております」

 真田はそう言い、座りながら一旦頭を下げた。そうしてあとは半ば自嘲気味につらつらと喋り出した。

「しかし、今回は私も反省しました。やはり採用を決める際にも見極めが甘かったと思うんですよ。正直言って見切り発車の部分もあったんですがね。ですからなによりこれからは、本当にやる気があるのかどうか、しっかり見極めることが大事だと思いました。やはり多少未熟なようだがまあいいかとかね、もうそういう採用は出来なくなりましたね」

 気落ち気味の低めの声だったが、それでも僕にはどこか事務らしさを残しているかに聞こえた。霧原は無表情に煙を吹き、僕は相変わらず深刻そうに下を見ては黙っていた。コーヒーの味は、研修の時と同じで相変わらず旨かった。それもすっかり飲み終えてしまうと、やがて話すこともなくなったのか、霧原は口元を結んでは腰を浮かそうとした。それに合わせて真田が立つので僕も立ち上がった。霧原はそのまま立ち去ろうとしたが、その前に真田が僕を見て言った。

「じゃ、戸橋君からも、一応ひとこと言って」

 帰りかけた霧原は、そのまま立ち止まった。眼鏡の奥のどんよりした目は、憐れみさえ含むようだった。そんな目に向け、僕は申し訳ありませんでしたと、ひとこと言った。しかしただそれだけだった。霧原は何の反応もせず、無表情のまま、すぐ身を翻してはそのままコンピュータールームへと歩み去った。それから経理の島では真田が暇を告げ、きっちりと腰を折ったが、そんな真田の横で僕は何もする気がせず、望むのはただ独りになることばかりだった。扉を出て薄暗い階段を下りると、出口の観音扉の窓がやけに明るかった。白っぽく光る空の下で、煙草に火をつける真田と並び、また道を歩くが、足取りは心持緩んでいたろうか。霧原の前では遠慮していた煙草を、真田は実にうまそうに吸っているようだった。そんな真田には別に不機嫌さもなく、せいせいした感じで煙を吹いている。気さくに話をする様子は、あの研修前となんら変わりなかった。

「まあ、戸橋君ねえ、今回はしょうがなかったけどさ。実際今日みたいにね、遠山君から、霧原さんから、僕からってみんな動いてるわけだしね、戸橋君の動き一つでみんなに迷惑がかかっちゃうから。そこら辺気をつけてね。みんな契約関係でつながってるわけだからあ」

 真田は優しく諭すように、煙を吹きつつそう言った。しかしそれも腹の底では何だかしらけるばかりだった。僕は逆に苛立ちさえ覚えたのだ。変わらぬ曇天の下、淡い光が立ち込める中、歩きながらしばらく沈黙すると、僕は結局言わざるを得なかった。

「でも、最初キューエムティーに行ったときは、すぐS電機に行くものと思ったんですよ。でもいつの間にか間に会社とか入ってるんで、なんかよく分からないというか……」

 しかしそう言っても、真田は相変わらず気さくな調子で、優しく返すだけである。

「うん、だからそれは、そういう契約関係だからさ。戸橋君さえ良ければ、直接S電機行っても良かったわけだし、霧原さんのところでもいいしね。でもとにかく最初に戸橋君が、キューエムティーの門叩いたわけだからあ」

 僕は真田とはもう、口も利きたくなくなった。駅前に来ると予想通り、じゃあ、僕電話するから、と真田は言う。真田と別れ、僕は足早に駅の改札へと向かった。ホームの端で一服するのはやめ、すぐに入ってきた黄色い電車にさっさと飛び乗った。

                                    (了)


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