その4
頷いたはいいけれど、どんな名前がいいのでしょうか。
自分が思いつく名前はどれもありきたりで、あの美しい精霊の少女につけるとなるとやはりしっくりとこないものばかりです。
何度も考えて決まりかけてはやっぱり違うと否定する毎日で、少女に会うたびにがっかりさせてしまいました。その分、とびきりの名前を考えたい。そう思っていたのですが、なかなかうまくいきません。
そして、いつの間にか時間は過ぎ、気付けば少女と丸々遊べる日もあと一日となっていました。
このままでは名前を付けないままお別れしてしまうことになります。わたしは泣きそうな気持ちになりながら、針仕事をしていた叔母さんのもとへと訊ねに行きました。
「ねえ、叔母さん。いい名前って何かしら」
「どうしたの、急に」
「前に話していた精霊の女の子の名前が決まらないの」
「名前?」
「お祖父さんが言っていたじゃない。エフェメラには名前を付けてあげればいいんだって」
「……ああ、確かに言っていたね」
そう言って、叔母さんは針仕事の手を止めて、わたしの方へときちんと向き直りました。
「いい名前っていうのは、その人にしか分からないものだよ。叔母さんがつけたって、それはあなたにとってのいい名前にはならないだろうさ。その女の子だって、あなたからの愛が欲しいはず。だから、叔母さんには分からないね」
「でも、叔母さん。本当に思いつかないの……」
今にも泣いてしまいそうな気持ちで、わたしは叔母さんに問いかけました。
「――そうだね。じゃあ、その子に会った時のことを思い出してごらん」
「会った時のこと?」
「そう。会った時に、どんな感想が浮かんだ? その言葉が名前になるかもしれないよ」
「会った時のこと……か」
「落ち着いて、決めなさい」
叔母さんはにこりと笑ってわたしの頭を撫でると、そのまま針仕事に戻りました。わたしは腕を組んで、じっと考えました。
あの子を見つけた日、わたしは何を思ったでしょう。そして、あの子と過ごした日々の中で、わたしはどんな感想を抱いてきたでしょうか。
きっとこの先、町へ帰っても、そして途方もない時間が積もったとしても、この夏の思い出はそう簡単に消えたりしないでしょう。そう、彼女はわたしにとって、とっくの昔からエフェメラなどではなくなっているのです。
いい名前、それはわたしにしか分からない。
そして、あの子はわたしが考えた名前を楽しみにしている。
月明かりを見つめているうちに、わたしの頭の中にすんなりと名前は浮かびました。
この名前だ。この名前しかない。あの子に相応しい名前はこれしかない。それは、この夏を象徴する名前でした。かけがえのない記憶そのものを表す名前でした。この森を去る前に、どうしても渡さなくてはならない名前でした。
わたしはさっそくベッドに潜り、眠りにつきました。明日で最後です。彼女に会える最後の日です。当たり前になっていた彼女との日々が終わるのだと思うと、とても不思議な気持ちになりました。
この名前を渡さなくては。
そうして、いよいよ最後の日はやってきました。
いつもの切り株の上に、少女は座って待っていました。私が明日去るということは知っています。今日ばかりはお手伝いもあまりなく、せっかく出来たお友達との時間を大事にしなさいとお祖父さんと叔母さんに言われていましたので、たっぷり時間はありました。
少女はわたしを見ると微笑みました。しかし、悲しそうな目をしていました。きっと寂しいのでしょう。
「おはよう」
声をかけると、少女は頷きました。
「おはよう、いい朝ね」
「そうね」
傍に座り、わたしは少女を見つめました。
「あのね、名前……考えてきたの」
そう言うと、少女は一瞬だけ目を見開きました。しかし、すぐに元の表情に戻ると、いつもの勝気な態度を見せてくれました。
「やーっと考えてくれたのね。じゃあ、聞かせてもらおうじゃない。あたしの名前は何?」
そして、わたしはその名前を言いました。
この夏を象徴する言葉です。綺麗で、楽しくて、幻想的で、儚くて、もう戻ってこない時間でありながら、これから先も確かにわたしの心に灯り続ける記憶そのものを表す言葉です。美しいその響きは、今まで考えていたよりもずっとこの少女に相応しく感じました。
少女はその名前を聞いて、しばらく何も言わずに考えていました。しかし、何度かその名前を呟くと、今まで見せてくれたよりもずっと愛らしい笑みを浮かべてくれたのです。
「いい名前ね……」
うっとりとそう呟くと、何故か涙を浮かべました。
「本当にいい名前ね。嬉しいわ。あたしにも名前をつけてくれる人がいるなんて」
「遅くなっちゃってごめんね。今日はこの名前で呼ばせてね。あのね、それでわたし、来年の夏も此処に来るわ。その時は、この名前をもっともっと呼ぶこともできるわ」
「来年の、夏、か」
彼女はそう言うと、楽しそうに笑い、もう一度、わたしの考えた名前を呟きました。
「じゃあ、来年の夏、またここに来てね。そして今日くれたこの名前で呼んでちょうだい。あたしの姿がもし見当たらなくても、呼んで貰えるとすぐに会えるわ」
「うん、わかった」
そうして、その日も日が暮れるぎりぎりの時間まで、わたしと精霊の少女は語り続けました。語り尽くしたと思っても、今日を最後にしばらくは会えないのだと思うと、まだまだ話題は尽きません。それでも、時間というものは止まりません。どんなに楽しくても、ネジを巻いて針を戻すことなんて出来ないのです。
とうとう、別れの時はやってきました。明日はゆっくりと会える時間もありません。帰りたくない。そんな気持ちでいっぱいでしたが、少女の方に促されてわたしは重い腰をあげました。
「明日から、寂しくなるわね」
少女は言いました。エフェメラではなくなった彼女は、町で出会う友達のように親しみを感じました。今日は何度、新しく考えた名前で呼んだでしょうか。もっと早ければ、もっともっと呼ぶことも出来たのに。
わたしは名残を惜しむ気持ちで少女に手を伸ばしました。少女もまた手を伸ばしたかと思うと、指切りを誘ってきました。
「来年もまたここで会いましょう。これはその約束」
「うん」
来年も会える。そう思っていても、寂しくて泣いてしまいそうでした。必死に涙をこらえながら指切りをすると、少女は優しくわたしの頭を撫でてくれました。
「泣きそうな仲間にはこうするといいって大人たちに教わったことがあるの。ね、ちょっとは落ち着いた?」
「ありがとう」
「ううん、いいの。来年は君も少しだけ大人に近づくのね。人間の道のりはとても長いみたいだけど、君なら立派な大人になれるわ」
そう言って、彼女はにっこりと笑いました。
「家の近くまで送ってあげる」
いつもこの場所で分かれていたから、一緒にお祖父さんの家まで歩くのは初めてでした。夕暮れで影が伸びる中、人間と変わらない姿をしたこの不思議な友人と軽く会話を交わし、その姿をまじまじと見つめながら、わたしは切なさを感じていました。
一年という月日はどのくらい長いのだろう。来年もこんな風にたくさんお話しできるのだろうか。期待と不安の入り混じる中、いつの間にかお祖父さんの家にたどり着きました。
「あの家、ね」
少女が言いました。
「じゃあ、この辺りでお別れしましょうか」
「……うん」
「また、来年」
「また、来年……」
堪らなくなって、涙をこぼしながらあの名前を呼び、立ち去ろうとすると、西風に混じって少女の震えた声が聞こえてきました。
呟かれたその言葉に、わたしの足は止まりました。今日一日は勿論、これまでだって聞くことのなかった言葉でした。気にしてもいなかったし、忘れてもいました。でも、今となっては随分前に、わたしは彼女に教えていたのです。
そう、彼女が呟いたのは、わたしの名前でした。名前で呼び合える友達。人間と精霊は違う生き物でしょうけれど、やっぱりわたし達は友達に間違いないのです。
振り返ったその時、日は沈みました。さっきまでいたはずの少女はもう何処にもいませんでした。きっと精霊だからなのでしょう。彼女の立っていた場所には、今より活動するらしい光虫と呼ばれる非常に小さな精霊たちが漂っているだけでした。
「また、来年」
その言葉を信じて、わたしは家に帰りました。
そして、翌日には忘れられない夏の思い出と共に、お祖父さんにも叔母さんにもしばしの別れを告げて、家族の待つ町に戻っていきました。
初めは軽い気持ちでここにきました。でも、こんなに素敵な思い出が手に入るなんて、誰が想像したでしょうか。きっと町の皆には信じてもらえないことでしょう。それどころか家族までも冗談だと思うかもしれません。
でも、いいのです。それが真実であるかどうかなんて他人には関係ない。証明しなくてはいけないわけでもありません。
そんなことをしなくても、この思い出は、わたしだけの宝物に違いないのですから。