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その1

 ――この大地は月の女神さまの命で成り立っているのだよ。


 そう教えてくれたのは、活き活きとしていた頃のお祖父さんでした。

 あの頃はまだお祖母さんも生きていて、美しい月の森の中にひっそりとたたずむお祖父さんの家は、ぽかぽかした陽だまりの中にいるような印象ばかりがありました。

 けれど、今は違います。お祖母さんが亡くなったのは三年前のこと、あの日から、お祖父さんはいつも寂しそうに日記を眺めています。孫のわたしが会いに行っても、以前のようなお祖父さんの姿を見ることは出来ません。夏休みを利用してせっかく会いに来たのに、お祖父さんはやっぱり寂しそうな雰囲気に取り憑かれていました。

 それでも、お祖父さんと一緒に住んでいる叔母さんによれば、お祖父さんはわたしが会いに来るのを楽しみにしていたのだそう。それならよかった、と、安心しながら、わたしは町の学校で習ったばかりの歌を歌いながら森に水を汲みに行きました。

 月の森はとても綺麗です。その魅力を正しく表現できるほど語彙力がないことが悔やまれるほどです。この森には人間の子どもくらいの背丈の生き物たちが隠れ住んでいて、水を汲みに行くわたしを不思議そうに見つめていることがあります。妖精とか精霊とか呼ばれている生き物です。

 わたしの住んでいる町でも、市場では年中何かしらの精霊の子どもが売られていると聞きます。もちろん、縁があったことなんてありません。あの市場で売られるのは、とても高価な精霊たち。精霊の扱いに長けた一族の人たちが古くから守ってきた、自慢の血統の精霊たちが売られているのです。彼らは売る精霊の種類によって、花売りや蝶々屋、鳥使い等と呼ばれています。でも、市場をみたことはありません。あの場所に入れるのは、精霊を売る者か、精霊を買うほどに身分の高い者だけなのですから。

 でも、お祖父さんの家に来るたびに、わたしはちょっとだけ気分がよくなります。だって、ここには天然の精霊たちがいるのです。人工花でも人工虫でもないのです。誰かが狙って生み出された命ではなく、奇跡と偶然が重なって生み出された貴重な精霊たちの命が輝いている場所なのです。そんな場所に一人きりで歩く贅沢さ。水汲みは単なるお手伝いですが、妖精だか精霊だかに見守られながら歩くことは、この上ない贅沢にも感じられました。

 それに、何度も言いますが、ここは月の森。この木々の立ち並ぶ何処かに立派なお城があって、月の女神が暮らしていると聞かされたことがありました。特に理由なく近づくのは控えるべき高貴な場所。けれど、今踏みしめている大地からそう離れていない場所に、この大地で一番偉い人が住んでいるのだと思うと、何故だか得意げにもなります。

 そんなわけで、生まれ育った町でやるには面倒なお手伝いだって、お祖父さんの家ではそれなりに楽しい気持ちで向き合うことが出来るのです。のびのびと歌っていても、どうせ聞いているのは動物たちや精霊たちだけ。町中では絶対に出来ないこの開放感にスッキリしてしまえば、重たいバケツなんて気になりません。とはいえ、身体は嘘をつけず、水を汲んだあとの帰り道残り半分ほどのところでいつも休むことになるのです。

 歌を歌う事に飽きたりはしません。学校ではたくさんの歌を習います。現役の作曲家による流行の歌だったり、古くからこの大地に伝わる民謡だったりと様々です。行きは流行の歌を歌いました。では、気分を変えて民謡でも歌いましょう。この大地で生まれた者ならば誰もが知っている歌です。

 歌声は気持ちいいほどに響きます。

 幼い頃から慣れ親しんだその歌は、月の女神を讃える歌でもあります。

 短い期間でころころと生まれ変わる不可思議な女神。その命の輝きが途切れない限り、わたしたちの大地は生き続けます。女神に感謝する歌が出来るのも不思議ではありません。しかし、この歌を作った人の記録は残っていないそうです。誰が作ったのでしょう。きっとこの大地を愛し、死んでいった人なのでしょう。

 精霊や獣たちがじっとこちらを見つめています。

 けれど、気にはなりません。彼らは人間ではないのです。町の友人に見られたらちょっと恥ずかしかったかもしれませんが、精霊たちなら大丈夫。人間に似ているといっても彼らは人間ではないのですから。小鳥が真似して歌を歌いました。なんだか楽しくなって、わたしも歌い続けました。しかし――


「青き月 銀色に輝くその光――」

「慈しみ深き我らが女神の生死を越えてなお衰えず」


 と、わたしの歌声に重なるように別の誰かの歌声が聞こえてきたのです。

 女の子の声でした。素晴らしい音色でした。けれど、わたしは怖くなって立ち止まり、黙り込んでしまいました。聞こえてきた方向にあるのは木々ばかり。その誰かの姿は見えません。でも、確かに聞こえたのです。誰かがそこにいる。人間と思しき誰かが。

 わたしが歌うのをやめたせいでしょうか。彼女も歌うのをやめました。けれど、しばらく待っていると、気を取り直したのか別の歌を歌い始めました。わたしの知らない歌です。美しいのに何故か不気味でぞっとしてしまうほどでした。

 素晴らしいことは素晴らしい。でも、恐ろしくもある。ならば、近づかない方がいいでしょう。それなのに、何故かわたしはどうしようもないほど声の主に興味を持ってしまったのです。一度抱けば振り払えない好奇心でした。お手伝いで組んできたバケツをその場において、わたしは歌声の聞こえてくる方向へと近寄っていきました。木々の間をすり抜け、わたしの接近に驚いて逃げる鳥や獣、精霊たちに遠慮もなくずかずかと森の領域を侵していきました。すると、木々や草むらを抜けた先に、不可思議なほどに開けた空間が広がっていたのです。

 切り株があるあたり、お祖父さんが切ったあとかもしれません。しかし、その真偽よりも先に、わたしはある存在が気になっていました。切り株を椅子のようにして座っている少女がそこにいたのです。彼女はわたしの方向を見つめつつも、気にせずに歌い続けていました。間違いありません。あの歌声はこの人のものです。わたしは彼女の姿に目を奪われていました。不思議な雰囲気の子でした。人間の姿をしていますし、服も着ています。けれど、町にいるような子たちとは明らかに違います。美しいというだけではなく、目鼻立ちや雰囲気そのものが異質なのです。何よりも印象深いのがその眼差し。木漏れ日を受けて輝いているように見えます。まるで、叔母さんが日頃愛でている宝石のようです。

 優雅に一曲歌い終わると、その少女は微笑みを浮かべてわたしをじっと見つめてきました。


「なぁんだ、お仲間じゃないのか。期待して損しちゃった」


 少女は言いました。遠慮なくクスクス笑ったのでわたしもようやく緊張がほぐれ、訊ねることができました。


「あなたは……誰?」

「あたし? さあ、誰だろうね。自分が誰かなんて考えたこともなかった」

「変なの……名前とかはないの?」

「名前なんてないわ。必要ないもん」


 つんとした態度で少女は言います。町の学校で一緒の、ちょっと気を強い女の子のようにぷいと余所を見つめました。透明感のある全身は木漏れ日に当たるときらきらと輝きます。見ているだけで美しいものですから、わたしはしばらく見惚れてしまいました。すると、少女の方から再びわたしを見つめ、訊ねてきました。


「何よ。まだ用があるわけ? あたしはもう用はないんだけど」


 冷たくそう言われても、すぐに帰る気にはなりませんでした。何とかこの子をお話をしてみたい。せっかく言葉が通じるのですから、ちょっとだけこの子について知ってから帰りたくなったのです。そういうわけで、わたしはしばし考え、話題の種をどうにか引っ張り出してみました。


「なんで歌っていたの?」

「知っている歌が聞こえたから」

「誰か呼んでいたの?」

「それは秘密」

「あなたは何者なの?」


 すると、少女は無言でわたしの顔を見つめました。探るようなその瞳。緑の結晶の中に黒真珠がはめられたようなその目。透き通るような金色の髪を揺らしながら、彼女はゆっくりと首をかしげました。


「君は、もしかして精霊じゃないの?」


 びっくりしたようにそう問われ、わたしもびっくりしてしまいました。

 これまでわたしが目にしてきた精霊たちは、一見して人間とは違う特徴を持っていました。翅が生えていたり、体が小さかったりと様々です。しかし、目の前にいるこの少女は異様に透き通る色の肌と髪、そして目を見張るほど美しいことを除けば、あとは普通の人間と変わりません。お話しすることも出来るし、大きさもわたしと変わりません。

 こういう精霊もいるのだとは知っていました。市場で売られる精霊の子たちは、知識がなければ人間の子と区別が出来ないと聞いたことがあります。一度だけ、その姿を町中で見たことがありました。花売りがその年売られる人工花の子たちを連れ歩いている光景です。遠目でしたが、覚えています。人間の子を妙に美しくした姿。魂のこもる人形のようでした。

 この子もそんな精霊なのでしょうか。そう言われれば信じてしまうほど、美しい子でした。


「ちょっと、何とか言ってよ。君は何者なのよ?」


 黙っていると少女が強い口調で訊ねてきました。無視されたと怒っているのでしょうか。慌ててわたしは答えました。


「人間よ。近くの家に住んでいるお祖父さんの孫娘なの。しばらくこの森で暮らすの」

「……人間?」


 不思議そうにそういうと、少女は切り株から立ち上がり、わたしに近づいてきました。隅々までまじまじと見つめられると、不思議な気分になりました。いい香りがするのは少女の香りでしょうか。温かな春風を思わせるその姿に見惚れていると、少女は何やら納得してわたしから離れました。


「なるほど。精霊じゃないのは確かみたい」

「あなたは精霊なの?」

「質問の多い子ね。そうだよ、あたしは精霊。昨日、大人になったばかりなの」

「大人?」


 その主張に、わたしはまたしてもびっくりしました。

 だって、彼女の姿はどう見ても少女です。大人というには幼く、頼りなく、今にも折れてしまいそうな身体つきをしています。それでも、昔は人間の世界でもわたしより年下の子たちから大人として扱われていたと聞いたことがあります。精霊の世界ではそうなのでしょうか。

 不思議に思っていると、少女は腰に手を当ててこちらを窺ってきました。


「何よ、その顔」

「大人にしては、子どもっぽいのね」

「何それ、失礼しちゃう。……でも、実を言うとあたしも実感はないの。なんせ、長い期間、子どもでいたから、いきなり大人って言われても、何をすればいいか分からなくて困っているの」

「へえ。精霊でも困ることってあるんだ」


 思わずそう言ってしまったのは、神話を聞いたことがあったからです。

 神話によれば、森に棲む生き物たちは女神の導きを直接受けるのです。だから、生きるためにどうすればいいのか迷うこともなく、誰にも教わらずに生き抜くことが出来るのだと。

 しかし、その話をすると、少女は笑いました。


「あはは、変なの。教わらないと分からないに決まっているじゃない」

「精霊たちも大人たちから色々教わるの?」

「そうだよ。同じ種族のこともあるし、違う種族のこともある。とにかく、子どもは色々教わりながら大きくなるの。教えてもらったり、自分で学んだり……。人間の子と同じ……なのかなぁ?」

「同じね。なあんだ。精霊も人間とあまり変わらないのね」


 笑っていると、少しだけ奇妙な気分になりました。

 この少女は人間ではないのです。人間でない友達が出来たような気分になって、とても不思議でした。何なら、本当に友達になってしまったらどうだろう。

 そう考えた頃、森のどこかでカラスが五回鳴きました。その声にわたしはハッと空を見上げました。まだ昼の明かりは残っていますが、太陽は傾き始めています。


「いけない。お手伝いの途中だったわ」


 ようやく道端に置いてきたバケツのことを思い出したのです。

 お祖父さんも叔母さんもそんなに厳しく叱ったりはしません。でも、あまり困らせるのはいけません。怒られない分、しっかりしなさいとお母さんにも言われてきたのです。


「もう戻らなきゃ」

「もう? せっかちね。せっかくお話しできたのに」


 少し寂しそうに少女が言いました。その表情を見て、わたしは訊ねました。


「ねえ、明日もここにいる?」

「明日? うーん、多分」

「明日もわたし、同じくらいの時間にここに来るわ。明日はもっと長くいれると思う。その時にまたお話しましょ」

「うーん……気が向いたらね」


 何だかはっきりとしないお返事だったのでがっかりしました。けれど、駄目とは言われなかったのだからと気を取り直して、わたしは少女に手を振りました。少女は不思議そうに首を傾げています。お別れの挨拶を知らなかったのかもしれません。

 水の入ったバケツを手に戻ってみれば、叔母さんが心配していました。けれど、帰り着いたわたしに怒ることもなく、その日もまたゆっくりと時間が過ぎていきました。

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