あさ
お世辞にも広いと言えない部屋に目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。
「うっ……」
部屋の住人、一木日向は仰向けのまま頭の上に右腕を伸ばし、目覚まし時計の頭を叩いた。
唸りながらゴロゴロと転がり、
「ふにゃっ!」
ふわふわとした何かを左手で踏み付けた。
踏まれたものは、ビクッと立ち上がり、ぶるぶると身体を震わせた。それは、恐る恐る四つ足で日向の顔に近づくとぺとんと尻をベッドにつけて口を開いた。
「起きろ! 愚鈍! 貴様、他人の尻尾を踏んどいて二度寝するつもりか!」
「ヒトじゃなくて、猫だろう」
耳元で叫ばれたヒナタは、気だるげにふぁとあくびをしながら上半身を起こした。頭が覚醒しきらないのか、ぼーっと目の前の窓を見る。カーテン閉め忘れたっけと思ったところに、昨日の、というより深夜の出来事が鮮明によみがえった。
隣でぐちぐち話す黒い身体をみょんと持ち上げて黙らせ、日向は膝の上に乗せる。
「おはよう、ハイナシ」
日向は優しくハイナシの頭を撫でる。ハイナシは気持ちよさそうに、ゴロゴロと喉をならして、その手に頭をすり付けた。
ハイナシから手を離し、ベッドから立ち上がった日向は、箪笥を開け、迷いなく洋服を取り出した。
そのまま、着ているなんともいえない柄のTシャツに手をかけ、
「にゃー!」
再び叫び声が響いた。
「き、貴様、女であろう。なぜ人前で脱ごうとする!」
ハイナシの主張に、自分の身体を見下ろし、ハイナシを見返した。
「えっ、あー。だって猫じゃん、ハイナシ」
「猫だが! じゃなくて、我は男だ! 少しは警戒しろ!」
「えー。こんなかわいこちゃんが私に悪戯する?」
日向はシャーと緑色の目を輝かせ威嚇するハイナシを抱き上げた。よしよしと顎を撫でると、またもやすり寄ってくる。ハイナシってばライトノベルのヒロインもびっくりなほどちょろい。
日向は肩に掴まるハイナシに話しかけ、風呂の方に歩きはじた。といっても、日向の足では数歩で着くのだが。
一部屋しかない極小アパートには、ハイナシ所望の別部屋という選択肢が残念ながら存在しなかった。見えないという選択肢は、布団を被るか、ユニットバスに入るか、クローゼットに入るかの3択しかない。ハイナシは迷いなくユニットバスを選んだ。
「私の身体なんておいしいものじゃないと思うけどな」
日向が裸の自分を見てぽつりと呟いた。胸は少し膨らんでいるかなと悩む程度、腰のくびれもあるかないかと聞かれたらある程度、脚も細くなく、自信をもって女性的だと言えるのは撫で肩くらいであった。
「我は最初男かと思ったぞ」
ドア越しに悪びれた様子すらない声がする。日向の最大のコンプレックスをド直球すぎるほどの球でぶち抜いたそれに、日向の顔に青筋が浮かんだ。
「よーし、ハイナシ。勘当しよう。二度と帰ってくるな」
「……悪かった」
寝起きよりも低い声で怒られたハイナシは、日向が着替え終わるまでおとなしく、小さな部屋というにもお粗末なそこに座り込んでいた。
日向の着替えという一攻防を済ませた1人と1匹は、キッチンと呼ばれる簡素なガスコンロの前で話し込んでいた。
「うちにキャットフードなんてないんだけど、ハイナシってなに食べるの?」
「猫の餌なんて食べれるか。そうだな、ローストビー」
「ハムと葉の物かな。……ハムって猫が食べても平気なのか?」
ハイナシの言葉を遮り、日向は小さな冷蔵庫を漁る。使えそうなのはハムの他にはほうれん草とかぶの葉くらいだろう。ゆでた方がいいのだろうか。ハムもか。よくわからんなと思いつつ、日向が食べる朝御飯と共に冷蔵庫から取りだした。
「我は特別製だから問題な……って、ローストビーフがよいと申しておろう」
「そんな高級品は苦学生には買えないよ」
ハイナシは話を聞けと騒ぎ立てる。
日向はそんなハイナシをあしらい、先に水飲んでて、と小さな器に水をいれて部屋の真ん中にある小さな丸机の前においた。
丸机の上と床に置かれたお盆の上にお皿が並び、1人と1匹が朝食をとり初めてしばらく。背の低い箪笥の上に置かれた小さなテレビが今日の天気予報を伝えていた。日向はもくもくと箸を進め、ハイナシは小皿をくんくんと嗅ぎながらハムだけをちまちまと食べ進める。
「我もそれが食べたい」
ハムを食べきったハイナシがぴょんと丸机に乗り、平皿に乗った鮭を前足で指した。日向は慌てて箸を置き、平皿を持って立ち上がる。
「ダメ。猫に塩分はよくないって聞くからね。飼うならしっかり面倒みないと」
「貴様、朝から魚など食べおって。それこそ贅沢ではないか」
もぐもぐと咀嚼しながら立ち上がった日向に、ハイナシが渾身のジャンプで食らいつこうと足を曲げた。その瞬間、日向がくるんと背を向く。ハイナシの目論みは失敗し、勢い余ってぺんと床に落ちた。
「いやー、朝御飯はご飯に塩鮭、味噌汁におひたしじゃなきゃ起きたって感じがしないよねぇ」
平皿を元に戻し、丸机の前に座りこんだ日向がしみじみと言う。何事もなかったかのように食べ始めた日向にハイナシは悔しそうに尻尾を下げ、自らのために用意された小皿の数々に目をやった。
「今日のところは我慢してやる」
「おー、いい子だな。ハイナシ」
口ではそう言いながらも、日向の目はテレビに向いていた。それでもハイナシはなぜか悪い気はしなかった。