はじまり
にゃー。ぎゃー。おにゃー。
深夜に猫の鳴き声が住宅街に響いた。この時期、毎年のように安眠妨害してくるそれは、サッシの窓も貫通する大きな音でガラスを揺らす。住宅街に住む誰もがうるさいとカーテンを開け、姿の見えないそれに落胆と怒りを感じているだろう。
そんな住宅街の一角。4階建ての小さなアパートの一階の角部屋で独り暮らしをしている一木日向は、寝ぼけた耳が聞き取った音を赤ん坊の泣き声だと思い込んで飛び起きた。
「上の階の、赤ちゃん?」
日向はまだ閉じていたいと訴える目から涙を流しつつ、大きなあくびをひとつした。
夢と現の狭間で、身体をゆっくりと起こす。頬に伝う涙をぬぐい、身体を捻って枕元においた目覚まし時計のライトをつけた。
「まだ3時かよ」
窓の方を見てもカーテン越しの明かりはなく、その時計が正しいことを証明していた。
おぎゃー。にゃー。ぎゃー。
また泣き声が聞こえてきた。ここで、ようやっと、日向はそれが赤ん坊の泣き声ではなく、猫の鳴き声だと気がついた。
「うるさいなぁ」
猫だと思った瞬間、思わず本音が漏れる。ぎゃーともにゃーともとれる激しい鳴き声に、イヤフォンでもさして寝るかと日向は上半身をばたりと倒した。
寝転がったまま、枕元にあるコンセントにさしたスマートフォンを手に取り、寝るのに邪魔にならなそうなしっとりとした音楽を選んでいく。ようやっと満足のいくプレイリストを作り上げ、イヤフォンを手に取ったその時。
かり、かり、かり、かり、かり。
窓の方からなにかを引っ掻く音が聞こえてきた。
「B級のホラー映画か何かか、この部屋は。確かに、家賃は破格だけどさぁ」
日向は、今一度身体を起こす気力もなく、息をはいて身体をベッドに沈めていく。軽く瞼を閉じると、イヤフォンは必要ないと思えるくらいに、とろりと意識が溶けていった。
かりかりかりかりかりかり。
にゃー。ぎゃー。ぎゃー。
日向が心地よい眠りに誘われているのを知ってか知らずか、外から聞こえる音は大きく激しくなっていく。
パート練習する吹奏楽なんてかわいいほどに、2つの音は重なり、結構な騒音を作り出していた。
「うっるさーい!」
再び覚醒を余儀なくされた日向は、キレ気味に、いや見えない何かに怒りながら身体を起こし、ズカズカと窓の方へいくと、ザッと音を立てて乱暴にカーテンを開けた。
「にゃあ」
窓越しに、前足を窓枠に当てた黒猫が見える。
エメラルドのように暗闇の中にきらりと光る一対の瞳に、日向の目は吸い込まれた。愛らしいその姿に、怒りは吹き飛び、まぁいいかと思ってしまうくらいには、猫好きである自覚もしていた。
言葉が通じない相手であろうと、文句一つ言えば自分の気がすみ寝れるだろうと考えていた日向に、窓を開けるという選択肢はない、はずだった。さすがに愛しのお猫様であったとしても、野良猫を家にあげるほど無知でもない、はずだった。
日向はエメラルドに操られるように、かちゃり、と鍵をはずし、全面の窓を開けた。呆然と立ち尽くす日向を無視して、猫が部屋に侵入する。
「やっと気づきおったか、愚鈍め」
先程まで日向が寝ていたベッドの真ん中を占領した黒猫は、明らかに人間の、日本の言葉で、尊大に言い放った。
開けっぱなしの窓から生暖かい風がむわーと入り込んでいた。
黒猫は不吉である。
といえども、ある種神秘的な魅力がある黒猫が好きな人も少なからずいるだろう。日向も少し前まではそちら側の人間であった。
「それで、おい。聞いているのか、愚鈍。我が助けてほしいと願っておるのだぞ。愚鈍では一生お目にかかれない、光栄なことなのだぞ」
「あー、はいはい。それでそれで?」
夢かー。夢だなー。こんな幸せ感のない猫の夢あるなんてなー。
愛しのベッドをとられた日向は、床に正座をしていた。とうに脛は硬い板に悲鳴をあげている。
日向はこの有り様が現実であると認識しながら、夢であると信じていた。お猫様はうるさくてもかわいいはずだし、人の言葉を話したりはしない。
カーテンを閉め忘れたそこから、暗闇が太陽に照らされ始めているのが見えた。
ベッドの上で丸まりながら、嘘か真か分からない身の上をたらたらと述べていた猫が立ち上がる。
「一度しか言わんからな」
部屋に入ってきたときはピンと立っていた尻尾が、ふにゃりと地面に垂れている。
猫は口ごもり、口を開け、また閉じ、それを何回か繰り返して、意を決したように言葉を発した。
「その、だな、何泊か泊めさせてほしいんだ」
日向はだろうなと思った。この古いアパートは石油ストーブは禁止なはずだが、ペット禁止とは聞いていない、はずだ。まぁ、猫一匹くらいなら苦学生の身でも養っていけるだろう。
「お猫様」
「なんだ、愚鈍」
「居候するのは、この際是として、名前、まだ聞いてないんだけど」
いそ……っ! と言葉を失っている猫を、日向はさっさと寝たいから名前くらい教えろと睨み付けた。このお猫様にはどちらが主人であるか徹底的に教え込まないとと。部屋の柱で爪とぎなんてされたらさすがに引っ越すときに手間になりそうだ。
「……我は猫であるぞ。名前はまだない」
「あ、なんか惜しい」
そこは、誰が聞いても『我輩は猫である』だろう。もしかして、この猫は日本語には明るくても文学には明るくないのかもしれない。所詮猫だし。
「惜しいとはなんだ。愚鈍が」
「愚鈍じゃなくて、一木日向。ヒナタって呼んで」
「ヒナタ? 貴様なんぞ愚鈍で十分ではないか」
「ひどい。お猫様ひどい。私は家主だぞ。家主なんだぞ。決めた。お猫様のことハイナシって呼ぶ」
輩が無い、からハイナシ。我ながら適当だなと日向は思う。もちろん、猫も納得がいかずヒナタに噛みついた。
「バカにされている気がしてならんな。気に入らん。別にせよ」
「じゃあ、トモナシ?」
「……ハイナシでよい」
小さく不服そうに呟いた猫に、日向は流石に友の意味はばれたかと心の中で舌打ちする。
まぁ名前は決まったしいいかと、ハイナシを抱き上げベッドの隅へ移動させると、その隣に日向もごろりと横になった。
おい、何すると文句を垂れるハイナシを無視して、掛け布団を被る。学校が始まるまであと何時間寝れるだろうか。ハイナシの鳴き声をBGMに、日向は再び夢の中に旅立った。