月の色人
妄想平家物語の一幕。高倉院と平徳子の宮島での一夜。
旧サイト風待ちの湊(現在閉鎖)より転載。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
(古今和歌集 七四七 在原業平)
波間が銀に光る。ひたひたと大鳥居の足元を洗い、廻廊の釣り灯篭の灯火を揺らす。
寄せ来る波の音。
夕暮れには沖合の大鳥居の向こうまですっかり引いていた潮が、文字通り音をたてて満ちてくる。
ひたひたと寄せる潮騒。
それが、いつの間にか果ててしまった管弦のかわりに静寂を満たす。
酒がまわると、それまで騒いでいた公達も一人、また一人と姿を消した。そこここで寝ぎたなく鼾をかいている。
その中で乱れた様子もなく、主殿司に酒を注がせている姿が一つ。杓をする女房と言葉を交わすでもなく、盃に月を映してはちびちと嗜んでいる。ひときわ品の良い容姿の青年。一目でやんごとない身分とうかがわれる。貴種独特の品格と風雅を生まれながらに備えているようでもあった。
波音にまぎれるように近づくかすかな気配があった。さやかな衣擦れの音。密やかな足さばき。案内に立つ女房の手元の手燭の灯りが頼りなげにゆらめき、その訪れはいっそう幻めく。
廻廊の中央に位置する舞台。そこへ姿を現したのは一人の若い女性だった。
「これは――中宮ではないか」
「はい、御所さま」
応じる声は、かすかな笛の音を思わせる。
淡い帳のような月光がさし、その容貌を露にする。白磁の肌に、玲瓏たる美貌。豊かな髪はまるで濡れているように艶やかにその白い面輪を縁取る。
当代一の美女と名高い姫君。
その人の登場に、若い公達は驚いたように眉を開いた。
「そなたが、何故このようなところに――」
「月を見たいと仰せになりまして」
代わりに応じたのは乳母だった。中宮はその背後でただ美しく微笑んでいる。
乳母はひどく狼狽していた。思いがけない方に、もっとも間の悪いところを見られてしまったのだ。言い出した当人はそんなことに気付く風もない。
「……そなたが、月を?」
「はい、御所さま」
そう云って、彼女は花のほころぶように微笑んだ。
公達が驚くのも無理はなかった。彼のはじめての妃であり今や押しも押されもせぬ中宮の位にあるその女性が、自らなにを望んだことなぞついぞなかったのだから。
「何故、月を?」
「――」
応じるかわりに、彼女はかすかに月を仰ぐように面を上げる。ゆらと揺れる髪が銀に光、魚鱗を思わせる。
「どうしてもこちらの舞台でご覧になりたいと仰せで……すでに宴も果てました故差し支えないものとばかり。浅慮でございました」
ひたすら平伏して詫びる乳母の姿など目に入らない。
なにかと強く望んだことなぞなかった主だからこそ、乳母もついその意を汲んでしまったのだろう。それほどで稀なことであり、10の頃から共に在る彼とてはじめて耳にすることだった。
まさしく天女のごときありさまに、束の間無言で目を奪われ、いちじんの風が行過ぎたのを機に吾にかえる。弥生の潮風は、夜ともなれば未だ寒風に近い。
「月を愛でるなら共に如何かな」
「はい」
ゆっくりと公達に頷き返し、滑るように近寄り、その傍らにはべる。
その何気ない仕草・挙措のすべてが流れるようで、いちいち見るものの目を奪う。
「注いでおくれ」
「はい」
主殿司から銚子を受けとり、中宮はぎこちない手つきで酒を注ぐ。その物慣れぬ風でさえなんとも愛らしく、公達は目を細めた。
片手で盃を受けながら、もう一方の手でこぼれかかる彼女の髪を指で梳く。
そんな彼の仕草を、彼女は穏やかな笑みを浮かべなされるがままに受け入れる。彼女は一度たりとて抗ったことはない。
そんな彼女を物足りなく思うことは間々あり、それが他の女性へと心を向かせる要因の一つでもあった。
己の心をそうと悟りつつも、閨から遠ざけてしまう気にもなれない。そこには清盛という当代一の舅への遠慮もあったが、それ以上にこの長く親しんできた妃を手放してしまう気にもなれないという本音もあった。
注がれた盃を傾けつつ、ちらりと中宮を見やる。
銚子を膝に置き、月を仰ぐようにかすかに顔を上向けている。
銀の光に燐光すら放っているかと見まごうごとき白磁の肌。濡れ濡れとした漆黒の髪がそれを縁取り、切れ長の不思議と印象的な眸は潤んでいるかの如く。どこを、なにを、見ているのか。それは日頃から定かではない。
目を細め、身じろぎ一つせず月光を浴びる姿は凄絶ですらあった。
亡き母の異母姉の娘に当たる妃は、従姉でもある。
やはり美姫と名高かった母・建春門院が亡くなったのは、彼が十六の時。さほど昔ではない。中宮はその母の面差しを受け継いでいると人々はいう。
当代一の美女という謳いどおり、彼の妃はどの女性よりも確かに美しかった。が、その我を感じさせない人柄のせいか、一度目を離してしまえばその面影が残ることはない。確かに傍らにあってさえも、かえりみて再確認しなければ心許ないほどに存在感は薄い。
そのためか、その妃に母の面差しが似ていると言われるほどに、母の記憶すらおぼろげなものとなっていくような気さえするのだった。
「そなたも一献如何かな」
「はい――ではお言葉に甘えまして」
はいと答え、次の言葉を紡ぐまでの間は、ゆっくりと地上に舞い降りるようでもあった。
公達から盃を受け取り、物慣れぬ風にそっと差し出して銚子を受ける。
珍しく緊張しているような気色もうかがえ、彼よりいくつか年上のはずなのに、まるで世慣れぬ幼子のようでもあった。
酒を零さぬようにと緊張しながら口元へ運ぶ仕草は、なんとも可愛らしいというほかない。
思わず小さく笑んでしまい、つくづくと中宮を見つめる。
己の意志とは関わりなく、最初に添わされた女性であった。
一人前の男としての自覚を持たぬままに添った妃は、妻というより姉のような存在で、彼女自身いつまでも艶めいた雰囲気をまとうことはなかった。
まるで子供の戯れの延長のように交わっても、その関係は変わらなかった。
常に傍にあり、虚空を見つめるような眼差しをしていた。
ふと不安になって呼びかければ、その時だけは確かに焦点を結ぶ。確かに彼を見つめて、「はい、御所さま」と微笑む。
美しいが、それ以上でもそれ以下でもない。
中味は空虚な形代に近いと誰もが裏で噂した。いささか足りないのではないかという噂すらあった。
いささか鈍いところは在るに違いないが、足りないわけではない。けれど、空虚であることは確かなようだった。
愛しいとも、恋うたこともない。
小督への恋情と比べれば、女性としてみたことすらないと言い切れる。
清盛の圧力でついに小督が出家するに至った折には、その娘である中宮を疎ましくすら思った。けれどそれも、「御所さま」と微笑まれると霧消してしまった。
愛することも憎むことも難しい女性。
心許なく、物足りなく、とらわれてしまうことも、とらえてしまうこともできない。
たとえ一時他の女性に心を傾けたとしても、忘れ去ることはできない。常に気懸りとしてあり続ける。
目を離せば、いなくなってしまいそうな、そんな危うい存在。
こくこくと酒を干し、ほっと息をつくと再び空を仰ぐ。
月明かりに輝くばかりのそのさまは、竹取の翁が育てたという月の都の姫君を思わせる。
「――まるでそなたはいずれ天に帰ってしまう天女のようだね」
「……まぁ」
ゆっくりと振り返り、中宮は清らかに微笑んだ。
この世のしがらみにとらわれることも、汚濁に染まることもない、正しく地上に留まることのないものの笑み。
そのまま月の光に解けてしまいそうな錯覚に、いつしかその華奢な体をかたく抱き寄せる。
世の人は、彼がその生でもっとも愛した女性は小督だったと評するだろう。問われれば、自分もそうだと認めるだろう。
だが、最も忘れがたく、手放しがたい女性は誰なのかと問われれば誰が浮かぶのか。
腕のなかの姫君は、愛せば甘く泣き、彼の子を宿し、産みの苦しみの果てに腕に抱いて確かに母の笑みを浮かべていた。
確かな温もりと、息遣いを、衣を通して感じる。
それでも月明かりのもとにあれば、腕の中に閉じ込めてしまわねば安堵はできない。
常に傍らに置き、その存在を確かめねば気が済まぬのはなぜなのか。
「わたくしに月の使者など参りませんわ」
「――たとえ来たとしても、渡しはしないよ」
見上げれば月は蒼く。
かの人の温もりは、彼の腕の中に確かにある。
翌年一月、高倉上皇崩御。御年二一であった。
<了>
歌意:月は、あの人がいた昔のままの月ではないのでしょうか。春も昔のままの春のではないのでしょうか。私一人だけが昔のままであっても。
1180年3月末から4月上旬にかけて、高倉院は厳島に詣でています。
史実としては、二人で宮島を訪問したことはなかったようです。
補足:主殿司=女官