01.新井白石
僕:
尾島宗佑 おじま そうすけ
あの子:
織田あかり おりた あかり
ジュブナイルが書きたくてお話を始めましたが、冒険に出る日は来なさそう…瑞々しい小学生の姿がこのお話の中に残せたらいいなと思っています。
きっと、分かんないんだろうな。
教えてあげなきゃな。
そう思って、ふ、と頬が緩んだ。
ふとテキストから顔を上げると、キッチンから湯気が上がってサーモンのバターソテーの甘くいい香りが漂っている。
塾がない日。学校から帰って、当たり前のように勉強して、弟とお母さんと食卓を囲む。証券会社勤めのお父さんの帰りは遅く、平日はいつもこのメンバーだ。学校の喧騒とも、塾の緊張感とも違う穏やかな日。家で1人で復習していても、あの子のことは妙に気になる存在ではあるのは間違いなかった。クラスの中で、中学受験塾に通っているのは僕たち2人だけだったから。同じ話ができるから。ただ、それだけのつながりだけど、それでも。あの子はいつも想像の斜め上をゆく。
「江戸時代、どう?」
声をかけると、あの子がぱっとこちらに顔を向けた。もともと華やかな顔立ちに、さらに光が差したように目が輝く。黒目、というよりヘーゼルナッツみたいな優しい色が、光に照らされて透き通ったようにみえる。「どうもこうも、ね。」口数が多い相手ではないが、打てば響く相手だ、と宗佑は捉えていた。織田あかり、それがあの子の名前だが、宗佑は意図してか意図せずか、一度も口に出して呼んだことはなかった。それでも、仲が悪いということはなかったし、あの子も自分に向かって話されているのだと認識して、適切に返答してくる。小学校のクラスメイトなんてそれで十分で、特に不都合も問題も、何もなかった。今週、僕たちの塾の社会のテキストは江戸時代中期に差し掛かっていた。6年生の冬の入試本番に向けて、今がいちばん難しい内容だ、と先生は言う。覚える人の名前も、年月も、そしてはじめて知る概念も、盛りだくさんだ。
「正徳の治を主導したの、誰か覚えてる?」
昨日の夜、きっとあの子は答えられないだろうな、と自分だけの手応えとして眺めていたテキストの、色つきではないが太字で書かれた人物名が頭に浮かぶ。
「分かるよ!えっと、あらいにくせきでしょ!」
にくせき?なんだそれ。あの子の言葉に、頭の中にハテナが並ぶ。何回思い出しても、テキストの文章は、新井白石だったはずだ。
「にくせきって何だよ。白い石なんだからにくせきなんて読む訳ないだろ!」
意味が分からなさすぎてつい語気が強くなる。それでも、あの子は我関せず。
「そっか、白山のハクでハクセキかぁ。先生のフリガナをさ、そのままノートにメモしたんだけどさ、は、の字がに、に見えてた!ほんと、そうちゃん賢いよね。ハクセキ、ニクセキ。…だめだぁ、もうニクセキで覚えちゃってる。漢字で書くようにしないとだよね…!」
1人でつぶやき、納得し、対策して、あっという間にこちらのことなんてもとから見えていなかったように自分の世界に入っている。普通に考えてニクセキなんて名前な訳ないだろ。…あの子は、勉強が苦手だ、といつも言う。苦手そうには見えない、溌剌とした印象の子だが、たしかに、僕に比べると勉強が苦手そうだよな。宗佑はそう思っていた。2人は、同じ大手の中学受験塾に通っているが、成績順に分かれるクラスも、同じになったことはない。宗佑はいつも上位クラスにいて、コツコツと努力するタイプだから、まだクラスが落ちたことはない。あの子はどうなんだろう?偏差値や志望校の話なんてするのは品のないことだと知っているから、敢えて聞くことはしない。ただ、なんとなく、宗佑の2つくらい下のクラスにいるのかな、と感じていた。
小さな頃から学びと共にある生活で、きちんと学習習慣のついた宗佑にとって、学んだことの話題は何より面白くて、口に出すたびに新しい気づきや自己理解につながることだった。
友達も皆そうに違いない、と思っていたのに、思うように通じない!と気づいたのは小学校に上がってすぐのことだった。教科書でみつけた言い回しが、絵本の中で読んだのと同じだったり、学校の階段の段差に貼られている国旗が、どれも見たことがある国だったり…!授業は簡単すぎてつまらなかったけれど、それでも学校の中に散りばめられた学びは、知ってる!みたことある!とつながって、宗佑の知的好奇心を刺激した。
あの子とは小学校1年生、2年生とはじめのクラスも一緒で、おじま、おりた、と五十音順の出席番号が続いていたので教室移動は前後に並んで歩くことが多かった。その日も、インド、カナダ、スイス…階段を登りながら心の中で読み上げながら歩いていた…そんなつもりだったが、知らず知らずのうちに声に出ていたようで、「また知ってる自慢かよ」近くで誰かがボソっと言ったのが聞こえて急に心が冷えた。ぐっと唇を噛んでうつむく。やっちゃったな。自慢したかったわけじゃないんだけどな。でも、言葉が出ない…。
「イタリア!フランス!あ、あれ?フランス?」
微妙な間の後に階段の国旗を続けて言ったのはあの子だった。しかも間違っている…ドイツをフランスと言ってしまい、次にでてきたフランスで我に帰る。分かりもしないのに口を挟んでくるなよ!ばかにされたと思った宗佑がイラッとして顔をあげると、素知らぬ顔で、国旗と向き合い、ぽん、ぽん!と弾みをつけて階段を登るあの子の横顔が見えた。助け舟を出されたのかな。それはそれで面白くないな、そう思っていると、近くの子があの子に「織田さん分からないなら尾島さんに教えてもらったらいいじゃん!」と言った。あの子が気を悪くするんじゃないか、って宗佑はハラハラした。でも、あの子はパッと笑って、その子に「そっかぁ!」とだけ言った。声は明るくて、その持ち前の華やかな雰囲気もあって、その場でそれ以上何か言い出す人はいなかった。あの子は全くなにも意に介さず、1人できらきらと輝いているような気がした。
その日、宗佑は夕飯のときに、あの子の凛とした横顔を思い出しながら、階段での出来事を反すうして
「今日、学校で織田さんがドイツの国旗のことをフランス!って言ってね、クラスの子が分からないなら僕に聞いたらいいよ、って言ったんだよ!」と話した。いつも、家族との会話はあんまりうまくいかない。ちょっとの虚勢がないまぜになる。お母さんは、「縦じまと横じまで、色も違うのにね」と言ってそのおかしさを分かってくれた。
「そうなんだよ!フランスをオランダって言うならまだ色も同じ3色だけどさ、ドイツだよ、分かりやすいよね?」
僕は少し得意になった。家の中はいつも温かく快適で、学校の少しのいさかいなんて、無かったみたいにすぐ溶かしてくれた。
「ね、そうちゃんさ。江戸時代の改革でどれがいちばん好き?」あの子の声で、小1に飛んでいた意識が5年生の今に戻ってくる。勉強が苦手、とか言うくせにこういうところがあの子のおもしろいところだ。
「うーん、田沼意次かなぁ…」
宗佑が口にすると、あの子は宗佑の理由も待たずに、
「白河の水の清きに耐えかねて…ってやつだね、そうちゃんさすがオトナだわ。イメージからすると享保の改革っていいそうな気がしたけど。目安箱作ったりして、わたし結構徳川吉宗ってすき。」
宗佑は、間接的に自分のことが結構好きだと言われた気がして、かあっと頬が熱くなった。同時に、自分はまだまだ子供だな、と頭を振った。いくら中学受験が過熱しているからといって、小学生にこんな細かな歴史まで覚えさせる必要があるのか、と頭の中で目先を逸らす。
その日、家で夕飯時に、江戸時代の改革の話をした。
「享保の改革っていい改革だよね、目安箱作ったりしてさ。」
宗佑が言うと、お母さんは笑って頷いて、「暴動が起きた後だから内政を落ち着かせないといけなかったしね。賄賂政治なんて言われるけど商業に力を入れた田沼意次もいいと思うけど…あれ、なんで改革ってつかないのかな?知ってる?調べてみようかな。」そう言った。昼間、田沼意次かな、そう答えた自分がひどくつまらないように感じた。あの子は目安箱になんて書いていれるんだろう?そう思った。




