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水位の謎


田中誠一郎町長の執務室は、夜の帳が下りた清水町の中で、唯一光を放っていた。彼の机の上には、学園川の地図、ダムの運用記録、そして渡辺老人から託された30年前の新聞記事の切り抜きが散乱している。


美月が発見された浅瀬での溺死。その不可解な状況の裏には、やはり「水」が関わっているに違いない。「水深三十センチの浅瀬で、水泳部員の森川美月が溺死…」田中は、この矛盾を徹底的に突き詰めることにした。


警察は事故と断定したが、彼の直感は別の「真実」を叫んでいた。井上修は、ダムの自動制御システムが正常に作動し、手動操作の記録も一切ないと断言した。しかし、そこにこそ、この事件の鍵が隠されているのではないか。


彼は、ダムの操作記録を改めて精査した。町役場の水利課から入手した、過去一週間分の詳細なデータを、目を皿のようにして追いかける。気温、降水量、流入量、放水量、そして水位の変化。全てが、規則正しい数値を示している。しかし、その規則性の裏に、何か異常を示す微細なズレがないか。何時間も記録を読み解き続ける田中は、ある一点に目を留めた。


それは、事件前日の夜間から当日の早朝にかけての、ごくわずかな、しかし連続的な水位の変動だった。通常、この時期の学園川は、ほとんど水量の変化がない。だが、記録上、わずかながら「上昇」と「下降」を繰り返している箇所があるのだ。それは、ごく小さな波のように、まるで呼吸をするかのように変化していた。「これは…ポンプの作動記録か?」田中は、ダムの自動制御システムが、学園川の一定の水位を保つために、必要に応じてポンプを動かしたり、ゲートを微調整したりすることを知っていた。


だが、この変動は、あまりにも不自然だ。通常の調整であれば、もっと緩やかで、単調な曲線を描くはずだ。彼は、ダムの設計図と、自動制御システムの概要図を引っ張り出した。学園川ダムは、老朽化が進んでいるとはいえ、最新の自動制御システムが導入されているはずだった。


しかし、よく見ると、そのシステムには「緊急手動オーバーライド」の機能が備わっていることが示されている。そして、そのオーバーライドの操作履歴は、メインのログファイルとは別の、より簡略化された補助ログに記録される、という記述があるのだ。


「これだ…!」田中の脳裏に、一つの仮説が閃いた。井上修が「操作記録は全てログとして残ります」と言ったのは、メインのログに限ってのことだったのではないか。もし、補助ログに、何らかの操作履歴が残っていたとしたら?彼は、水利課の課長に、事件当夜の補助ログの提出を求めた。


課長は、最初は訝しげな表情をしたが、町長の権限と、田中が美月の死の真相究明に並々ならぬ情熱を燃やしていることを知り、渋々ながらもデータを提供した。データを受け取った田中は、すぐにその解析に取り掛かった。補助ログは、メインログに比べてはるかに簡素なものだったが、そこには、事件当夜の午後11時30分から午前3時頃にかけて、断続的に「ポンプ起動」「ゲート微開」といった記録が残されていたのだ。そして、午前5時過ぎに、「ポンプ停止」「ゲート通常」という記録で締めくくられていた。


「やはり…!」田中の心臓が激しく脈打った。この記録は、井上が断言した「異常な変動はございませんでした」「手動での操作記録も一切ございません」という言葉と、真っ向から矛盾する。これは、意図的な水位操作の痕跡に他ならない。彼は、その記録と、学園川の現場の状況を重ね合わせた。午後11時30分から午前3時頃にかけて、学園川の水位は、ポンプの作動とゲートの微調整によって、わずかながら上昇していたはずだ。そして、午前5時過ぎに、通常水位に戻された。


ここで、田中の推理は核心へと迫った。美月が発見されたのは午前6時過ぎ。その時には水深は三十センチだった。しかし、事件が起きたとされる深夜から未明にかけて、水位は一時的に上昇していたのではないか?もし、ダムの放水量を一時的に絞り、同時にポンプを逆流させるような形で水を汲み上げることができれば、学園川の一部区間の水位を上昇させることが可能になる。


特に、学園川の地形は、学校敷地内の一帯が比較的窪んでおり、わずかな水位の変動でも、その深さが大きく変わる可能性がある。田中は、学園川の断面図を引っ張り出し、詳細に分析した。美月が発見された浅瀬は、普段はくるぶし程度の深さだが、もし水位が数十センチ上昇すれば、大人の胸の高さにまで達する可能性があることを確認した。


「密室トリック…いや、これは『水深トリック』だ」田中は呟いた。犯人は、ダムの自動制御システムの「盲点」を利用したのだ。メインログに残らない補助ログの記録、そして特定の時間帯に意図的に操作することで、普段は浅い川を一時的に深くし、美月を溺死させた。そして、発見される直前に水位を通常に戻すことで、あたかも浅瀬で溺死したかのように見せかけたのだ。


では、なぜ井上は、この補助ログの存在を隠そうとしたのか。あるいは、彼自身が、この操作を行ったのか。彼の言葉の端々から感じられた「警戒」と「疲弊」の理由が、徐々に明らかになりつつあった。さらに、田中は監視カメラの死角について考えた。学園川沿いには、学校の敷地を守るための監視カメラが設置されている。


しかし、美月が発見された場所は、ちょうど体育館の裏手にあたり、カメラの死角となっている。もし、犯人がそのことを熟知していれば、この場所を犯行現場に選ぶのも納得がいく。この水位操作トリックを成功させるためには、ダムのシステムに精通しているだけでなく、学園川の地形、監視カメラの配置、そして美月がその時間に学園川にいることを知っている必要がある。


そして、何よりも、その操作を躊躇なく実行できる者でなければならない。田中の頭の中で、複数の情報が急速に繋がり始めた。30年前の事件、学園の裏帳簿、そして今回の水位操作トリック。それらをすべて実行できる人物。その人物は、この町と学園に深く関わり、システムの知識と、隠すべき秘密を抱えているはずだ。


「このトリックは、誰でも実行できるものではない。そこにこそ、犯人の影が見える」田中は、補助ログのコピーを手に、次のステップへと進む決意を固めた。水位の謎は解けた。残るは、その謎を仕掛けた犯人の正体と、その背後にある深い動機だ。清流に沈む真実は、今、その姿を現し始めていた。





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