教師の憂鬱
森川美月の死、そして渡辺老人から語られた30年前の学園教師の不審死。
二つの事件が、清水町の水利権という、町の根幹に関わる問題と結びついている可能性が浮上した。
田中誠一郎町長は、この複雑な糸を解きほぐすため、次に美月の担任教師である山田花子に会うことにした。
山田花子、三十八歳。
彼女は清水学園の国語教師であり、美月の三年担任を務めていた。面倒見が良く、生徒たちからの信頼も厚い教師だ。
しかし、彼女には一年ほど前に離婚を経験し、一人娘を育てているという複雑な事情があった。
そのシングルマザーとしての苦悩が、彼女の教師としての姿勢や、美月との関係にどう影響していたのか、田中は知る必要があった。
田中は、学園の職員室ではなく、放課後のカフェで山田と会う約束を取り付けた。
学園内で話すよりも、彼女の本音を聞き出せるかもしれないと考えたのだ。
カフェの一角で、山田は疲れた表情で田中を待っていた。
「田中町長、本日はお忙しいところ、ありがとうございます。
美月さんのことで、また何か…」
山田の声は、心なしか潤んでいるように聞こえた。
彼女の目元には、隠しきれない疲労と悲しみが滲んでいる。
「山田先生、お辛いところを申し訳ない。
ただ、美月さんの死について、私なりに納得できない点があり、先生からお話を伺いたいと思いまして」
田中は丁寧に言葉を選んだ。
「美月は、私のクラスの中でも特に優秀な生徒でした。
真面目で、責任感が強く、生徒会長としても本当に良くやってくれていた。
でも…最近は、少し無理をしているように見えました。
何か、悩んでいるように。
私にも、何度か相談に来てくれたのですが…」
山田は、美月との「特別な関係」について語り始めた。
美月は、山田がシングルマザーとして奮闘している姿を見て、何かを感じ取っていたようだ。
時に教師と生徒の垣根を越えて、個人的な悩みを打ち明けることもあったという。
「先生は、私に似ている。
一人で抱え込みすぎるところが、私とそっくりだって。
だから、先生はもっと自分を大切にしてください、って。
本当に、生徒の私を心配してくれるような、優しい子でした」
山田は、目に涙を浮かべながら語った。
美月は、山田にとって、単なる生徒以上の存在だったようだ。
その美月が、なぜ命を落としたのか。
山田の悲しみは、田中にも痛いほど伝わってきた。
「美月さんは、具体的にどんなことで悩んでいたのですか? 進路のことでしょうか?」
田中は、前回校長から聞いた内容を改めて尋ねた。
「進路のこともありました。
推薦で決まった大学が、本当に彼女が望む道なのか、という自問自答は確かにありました。
でも、それ以上に…最近は、学園のある問題について、深く悩んでいるようでした」
山田の言葉に、田中は耳を澄ませた。学園の問題。
それは、校長の教育改革のことなのか、それとも別の何かか。
「学園の問題、ですか。
それは、校長先生の教育改革のことでしょうか?」
「それも、なくはなかったと思います。
校長先生の改革は、良い面もたくさんあるけれど、正直、現場の教師にとっては負担も大きくて。
美月も、生徒会長として、その板挟みになることが多かったようです。
でも、それよりも…美月は、学園の古いしきたりというか、隠された歴史について、最近興味を持っているようでした。
特に、学園川にまつわる昔の出来事について、私に尋ねてきたことがありました」
山田の言葉に、田中の心臓が跳ね上がった。
学園川の昔の出来事。
それは、渡辺老人から聞いた30年前の佐々木浩二の不審死に他ならない。
美月は、やはりその真実に近づいていたのだ。
「学園川の昔の出来事…具体的に、どのようなことを尋ねてきたのですか?」
「ええと…『先生、昔、学園で先生が亡くなった事件があったって本当ですか?
それって、学園川と関係があるんですか?』
って。私は、そんな古い話は知らないふりをして、適当にごまかしてしまいました。
正直、私自身も、その話については、あまり詳しく知りませんでしたし、何より、美月にそんな話をさせて、変な方向に興味を持たれても困ると思って…」
山田は、罪悪感に苛まれているようだった。
彼女が、美月の好奇心に対し、無意識のうちに蓋をしてしまったこと。
それが、美月の死に繋がったのではないかという自責の念が、彼女の言葉の端々から感じられた。
「なるほど…他に、美月さんが話していたことは?」
「生徒会でのことでしょうか。
副会長の鈴木君と文化祭の企画で揉めていたのは事実です。
鈴木君は、美月の斬新なアイデアに賛成できないことが多かったようです。
でも、美月は、鈴木君のことを信頼していたし、彼だからこそ、自分の意見をぶつけられる、とも言っていました」
意外な言葉だった。美月は、鈴木大輔との対立を、前向きな議論として捉えていたのか。
だとしたら、鈴木大輔が美月の死に直接関わっている可能性は低いかもしれない。
次に、田中は山田のアリバイについて尋ねた。
警察もすでに確認しているだろうが、彼女自身の口から聞くことで、新たな情報が得られる可能性もある。
「事件当夜、山田先生はどちらにいらっしゃいましたか?」
「私は、自宅にいました。
娘と二人で。娘は、文化祭の準備で疲れて、早くに寝てしまいましたけれど。
私は、教材研究と、美月のことで少し悩んでいて、なかなか寝付けませんでした。
夜中の二時頃まで、リビングにいたと思います」
山田は、自宅でのアリバイを語った。
娘が寝た後、一人でいたという状況。
彼女のアリバイは、証明が難しいものだった。
「そうですか。先生が抱える苦労も、よく理解できます。
しかし、美月さんの死は、この町の未来に関わることです。
先生の知っていること、どんな些細なことでも構いません。
何かあれば、いつでも私に教えてください」
田中は、山田を励ますように言った。
山田は、静かに頷いた。
彼女の心の中に、まだ語られていない秘密があるのではないか。
田中はそう感じていた。
それは、美月の死に直接関係するものではないかもしれない。
しかし、美月の「悩み」の背景を理解する上で、重要なピースとなる情報があるかもしれない。
山田との面談を終え、田中はカフェを後にした。夜空には星が瞬いているが、彼の心は晴れなかった。
シングルマザーとしての苦悩、そして美月が抱えていたであろう「隠された歴史」への興味。
それらが複雑に絡み合い、事件の真相をより深く見えなくしているように感じられた。