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隠された過去


学園川のダム、そしてそれを管理する井上修との面談を経て、田中誠一郎の心に、ある確信が芽生え始めていた。

それは、美月が命を落とした現場の水位は、何らかの意図によって操作されていたのではないか、という疑念だった。

しかし、それを裏付ける具体的な証拠はまだない。

井上はシステムが正常に作動していたと断言した。

だとすれば、一体誰が、どのようにして、その操作を成し遂げたのか。

そして、なぜ、その操作記録が残されていないのか。


「水の記憶…そう、きっと水は、何かを知っているはずだ」

田中は、清水町の古老、渡辺老人を訪ねることを決意した。

渡辺老人、七十八歳。

彼は清水町の歴史の生き証人であり、特に学園川にまつわる昔話や言い伝え、さらには表に出ることのない事件の噂話まで、町のあらゆることを知り尽くしている人物だった。


彼の記憶の中に、美月の死の謎を解き明かす手がかりがあるかもしれない。

渡辺老人の自宅は、清水町の外れにある、ひっそりとした古民家だった。

玄関には手入れの行き届いた盆栽が置かれ、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれている。

田中が呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、ゆっくりとした足取りで渡辺老人が姿を現した。

細身の体躯だが、その眼光は鋭く、深い知性を感じさせた。


「これは、町長さん。

まさか、拙宅においでになるとは」


渡辺老人は、田中を居間へと招き入れた。

座卓にはすでに、淹れたての熱いお茶が用意されていた。

「渡辺さん、本日は他でもない、森川美月さんの件でお伺いいたしました。

美月さんの死は、町全体にとって大きな悲劇であり、私も心を痛めております」


田中は深々と頭を下げた。

渡辺老人は、静かに茶を一口啜り、何も言わずに田中の言葉を待った。


「警察は事故死の可能性が高いとしていますが、私はどうしても納得できません。

あの浅瀬で、水泳部の美月さんが溺れるはずがない。

何か、人為的な要素が絡んでいるのではないかと、そう感じています」


田中は、自身の考えを率直に述べた。

渡辺老人は、茶碗を置くと、深く息を吐いた。


「…そうでしょうな。

わしも、あの話を聞いた時、真っ先にそう思った。

美月ちゃんは、この町の宝のような子でしたからな。

あの子が、そんな無様な死に方をするはずがない」


渡辺老人の言葉に、田中は僅かな安堵を感じた。


やはり、自分と同じように感じている人間がいた。


「そこで、渡辺さんにお願いがあります。

渡辺さんは、学園川の歴史に最も詳しい方。

何か、この事件の手がかりになるような、昔の出来事をご存知ないでしょうか?

例えば、川にまつわる奇妙な事故や、水利権に関するトラブル…」


田中は慎重に言葉を選んだ。渡辺老人は、静かに目を閉じ、何かを深く追想しているようだった。


「…三十年ほど前にも、この学園川で、似たような事件が起こったことがありましたよ」


渡辺老人の言葉に、田中の心臓が跳ね上がった。


「似たような事件」とは、一体どういうことなのか。


「三十年前…それは、どのような事件だったのですか?」


田中は前のめりになった。


「それは、当時、学園に勤めていた一人の教師が、学園川で亡くなった事件です。

名前は、確か…佐々木浩二さんと言ったかな。

彼もまた、美月ちゃんと同じように、学園川の浅瀬で発見されたと記憶しています。

警察は、事故と自殺の両面で捜査を進めたようですが、結局、明確な結論は出ず、うやむやのまま処理されてしまいました」


渡辺老人の言葉は、田中の頭の中で大きな衝撃となって響いた。


三十年前の事件。

同じ学園川の浅瀬。

教師の死。

偶然にしては、あまりにもできすぎている。


「佐々木浩二…その教師は、どのような人物だったのですか?」


田中は、冷静を装いながら尋ねた。


「佐々木先生は、当時、学園で化学を教えておられた。

非常に優秀な方でしたが、少し、世間離れしたところもありましたな。

何かに熱中すると、周りが見えなくなるような。


当時は、学園の敷地内で、小さな実験施設を建設しようとしていたと聞いています。

学園川の水を引いて、何か新しいエネルギーの研究をするとか、しないとか…」


新しいエネルギーの研究。

学園川の水を引く。

その言葉に、田中はピンと来た。

水利権の問題だ。

この清水町にとって、水は生命線であり、水利権は複雑でデリケートな問題だった。

「その実験施設というのは、結局どうなったのですか?」

「建設は頓挫したと聞いています。

佐々木先生の死と、それが無関係だとは、当時も噂されていましたよ。

学園の一部関係者と、町の有力者の間で、水利権を巡るトラブルがあったのではないかと。

結局、表沙汰にはならなかったが、佐々木先生の死は、そのトラブルが原因ではないかと、まことしやかに囁かれていたものです」


渡辺老人の言葉は、まるで過去の扉をこじ開けるかのように、次々と真実の断片を田中にもたらした。


学園の「影」の深層に、水利権という根深い問題が横たわっていたとは。


「当時の新聞記事や、町の記録は残っていますでしょうか?」田中は尋ねた。


「さあ、どうでしょうな。

古いことですから、残っているかどうか…しかし、わしは当時の新聞の切り抜きをいくつか持っていますよ。

佐々木先生の死について報じたものや、学園の水利権に関する記事もあったはずです」


渡辺老人はそう言って、立ち上がり、書斎の奥へと消えていった。

しばらくして、彼は埃をかぶった古いスクラップブックを持って戻ってきた。

ページをめくると、色褪せた新聞の切り抜きが何枚も貼られている。

そこには、確かに

「清水学園教師、川で不審死」という見出しや、「学園用水利権問題、暗礁に乗り上げる」といった記事が確認できた。


田中は、それらの記事を食い入るように読み込んだ。

佐々木浩二の死は、単なる事故や自殺ではなく、水利権を巡る利権争いに巻き込まれた結果だったのではないかという疑念が、彼の胸中で確信へと変わっていく。


さらに、田中は美月の家族の秘密について尋ねることにした。

渡辺老人は、町の古老として、町民の家族関係にも詳しいはずだ。


「渡辺さん、美月さんのご家族…森川家は、この佐々木浩二さんの事件と、何か関連があったのでしょうか?」


田中は意を決して尋ねた。渡辺老人の顔色が変わった。


彼は、田中をじっと見つめた後、ゆっくりと口を開いた。


「…森川家は、当時、学園川の水利権問題で、佐々木先生を支援していた一派の代表格でした。森川家は代々、この清水町の水利権を巡って、町の有力者たちと対立してきた歴史がある。

美月ちゃんのお祖父さん、森川正雄さんも、佐々木先生の実験施設建設に賛同し、積極的に協力しておられた。

しかし、佐々木先生が亡くなった後、森川家は急速に力を失い、水利権の問題からも手を引くことになったのです。

表向きは、佐々木先生の死にショックを受けて、とされていましたが…」

渡辺老人の言葉に、田中は息を呑んだ。美月の家族の秘密。

それは、30年前の事件と深く結びついていた。

森川家が、佐々木浩二を支援し、水利権を巡る争いに巻き込まれていたという事実。

そして、その争いの結果、佐々木浩二が不審な死を遂げ、森川家が力を失ったという経緯。


「美月ちゃんは…そのことを知っていたのでしょうか?」田中は尋ねた。


「さあ…しかし、美月ちゃんは利発な子でしたからな。

きっと、家の歴史を調べる中で、何らかの形でその真実にたどり着いたのかもしれません。

特に、生徒会長という立場になって、学園の歴史や、町の水利権に興味を持つようになった、という話も耳にしました」


渡辺老人の言葉は、美月の「悩み」の正体を突きつけてきた。

彼女の悩みは、単なる進路や文化祭の準備によるものではなかった。

それは、彼女自身の家族が過去に巻き込まれた、町の暗部に隠された真実と、向き合っていたからに違いない。


田中は、渡辺老人が貸してくれた古い新聞記事の切り抜きを手に、その場を後にした。学園川のダムの運用、そして井上修の不自然な態度。


全てが、30年前の佐々木浩二の死と、そして美月の家族が背負う秘密と、不気味なまでに繋がり始めている。


清流の底に沈んでいた「真実」は、思いのほか深く、そして恐ろしいものなのかもしれない。


過去と現在が、一本の細い線で結ばれ、その線が、今、田中によって手繰り寄せられようとしていた。





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