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水の記憶


森川美月が学園川の浅瀬で発見されてから、数日が経過した。

清水町は、依然として沈痛な雰囲気に包まれていた。

警察の捜査は表向き進展を見せず、「事故死の可能性が高い」という見解を崩していない。

しかし、田中誠一郎町長の心には、その結論に対する強い違和感が日増しに募っていた。


「水深三十センチ…やはり、納得がいかない」


田中は執務室の机に広げた清水町の詳細な地図を眺めていた。

地図上には、学園川の流路と、その源流にある小さなダムが克明に描かれている。

美月は水泳部員であり、溺死するような場所ではない。

もし本当に事故だとしたら、何らかの異常な状況が重なったとしか考えられない。


その「異常な状況」とは何か。

彼の思考は、自然と「水」へと向かっていた。

学園川は、清水川の支流とはいえ、その水利システムは清水町にとって非常に重要だった。


学園の敷地を潤し、かつては小さな水力発電にも利用されていた時期もある。

さらに、町の一部地域の生活用水や、近郊の農業用水としても利用されており、その水量の調整は、町役場に設置された水利課の管轄下にあるダムで厳重に管理されていた。

そのダムの管理責任者こそ、井上修いのうえ おさむ、五十五歳。

町役場の技術職員で、この道三十年のベテランだ。

田中は、井上とは顔見知りではあるものの、彼の仕事ぶりを間近で見る機会はこれまでなかった。


井上は口数が少なく、真面目一徹な職人気質で知られている。

田中は、井上から直接話を聞く必要があると感じていた。

ダムの運用状況、特に事件当夜の学園川の水位について、詳細な情報を得るためだ。


町長として、事故原因究明のための情報収集という名目で、井上に面談を申し込んだ。


翌日の午後、井上は田中の執務室を訪れた。

彼は作業着姿で、手に分厚いファイルを持っている。

その表情は、美月の事件に心を痛めているようにも見えたが、同時に、どこか警戒しているようにも感じられた。


「田中町長、本日はどのようなご用件でございましょうか」


井上は、いつもと変わらぬ抑揚のない声で尋ねた。


「井上さん、お忙しいところ申し訳ない。

他でもない、森川美月さんの件でね。

学園川での事故…警察は事故死として扱っていますが、どうにも腑に落ちない点が多くて。

そこで、学園川のダムの運用について、いくつか伺いたいと思いましてね」


田中は切り出した。

井上は、かすかに眉をひそめた。

「ダムの運用、でございますか。ご存知の通り、当ダムは町役場の水利課で厳重に管理されており、基本的な操作は自動制御システムによって行われています。

異常があった際は、私が遠隔で操作するか、現地に赴いて対応する仕組みとなっております」


「なるほど。

では、まず学園川の水利システムについて、もう少し詳しく教えていただけますか?

ダムから学園までの水流の仕組み、

普段の水位調整の基準など」


田中は、まず基礎的なことから尋ねた。

井上は、手元のファイルを開き、図面を指し示しながら説明を始めた。


「学園川は、清水川の上流から分水され、このダムで一度水を貯め、その後、学園敷地内の水路へと流れます。

主に学園の庭園への供給、そして緊急時の防火用水、かつては小規模な水力発電も行っていましたが、今は停止しております。


水深は通常、季節や降水量によって変動しますが、学園敷地内では常に浅く保たれるよう、ダムの放水量を調整しています。


特に学園祭などの行事の際には、安全を考慮し、水位を低めに設定するよう心がけております」


井上の説明は、淀みなく、しかしどこか機械的だった。

田中は、その言葉の裏に隠された何かを探るように、彼の表情をじっと見つめた。


「事件当日の水位について、警察の方からも聞かれたでしょう?」


田中は探るように言った。


「はい。事件当日の未明から早朝にかけて、学園川の水位に異常な変動はございませんでした。


自動制御システムも正常に作動しており、手動での操作記録も一切ございません。


警察には、その旨を報告済みです」


井上はきっぱりと言い放った。

彼の言葉は、警察の初期判断を裏付けるものだった。

しかし、田中は納得しなかった。


水泳部員である美月が、なぜ、普段と変わらない浅瀬で溺死したのか。


この矛盾こそが、事件の核心にあるはずだ。


「そうですか。

では、もし何らかの理由で、一時的に水位が上昇したとしたら、どのような状況が考えられますか?

例えば、ダムのゲートに不具合が生じたり、あるいは、意図的に操作されたり…」


田中は一歩踏み込んだ。

井上の表情が、わずかにこわばったように見えた。

「ゲートの不具合は、定期的な点検でチェックしており、過去に重大な故障は報告されておりません。

また、意図的な操作…それは、極めて難しいことです。

ダムの操作は、私の他に少数の限られた人間しかアクセスできませんし、操作記録は全てログとして残ります。

仮に不正な操作があったとしても、すぐに発覚するでしょう」


井上は、やや早口で答えた。

その言葉に、田中は引っかかりを覚えた。

「少数の限られた人間」とは誰を指すのか。

そして、「すぐに発覚する」という言葉の裏には、本当に完璧なセキュリティが保たれているという確信があるのだろうか。


「なるほど、それは厳重な管理体制ですね。

では、過去に、例えば緊急時などで、水位が急激に変動したような事例はありますか?」


田中は、あえて質問の矛先を変えた。

「ええ、もちろんございます。

豪雨による増水時や、下流の工事で一時的に放水を止める場合など。

その際には、事前に町民に通知し、学園にも連絡を入れることになっています。

しかし、今回はそのような連絡は一切ございませんでした」


井上は説明を続けた。

彼の言葉は、あくまでダムの運用規定に則ったものだった。

だが、田中は、彼の言葉の奥に、何か隠された情報があるのではないかと感じていた。

井上は口数が少ない分、一度口を開けば、正確な情報を伝えようとする。

しかし、その正確さの中に、意図的に触れていない部分があるのではないか。

田中は井上の目を見つめた。

その奥に、どこか疲弊した色が見えた。

彼は、このダムが、町の歴史と深く結びついていることを知っていた。

そして、その歴史の中には、美月の死に繋がるような、何らかの秘密が隠されているのではないかという予感が、彼の胸に強く去来した。


この時点では、事件当夜の詳しい水位変動記録を深掘りすることは控えた。

それは、井上をさらに警戒させ、情報提供を渋らせる可能性があると考えたからだ。

まずは、学園川の水利システムと、井上自身の責任範囲について、大まかな理解を得ることに徹した。

井上との面談を終え、田中は再び地図を広げた。


学園川のダムは、単なる水の流れを制御する装置ではない。

それは、この町の「記憶」を内包している。


そして、美月の死は、その記憶の扉をこじ開けようとしているのかもしれない。


田中は、井上が持ってきたファイルの中に、普段の運用記録とは別に、何か特別なログや、異常を示すデータが隠されているのではないかと、かすかな疑念を抱き始めていた。




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