動機の解明
水位操作トリックの全貌が見え始めたことで、田中誠一郎町長の推理は、真犯人の特定へと加速した。
ダムの自動制御システムの盲点を突き、補助ログにのみ記録が残るような巧妙な操作。これを実行できる人物は、町役場の技術職員であり、ダムの管理責任者である井上修、彼以外には考えられない。しかし、なぜ井上修が、美月の命を奪う必要があったのか。その動機こそが、事件の核心だった。
田中の脳裏には、渡辺老人から聞いた30年前の事件の記憶が鮮明に蘇っていた。学園教師・佐々木浩二の不審死。そして、その死と深く関わる、学園川の水利権を巡る森川家の対立。美月は、その森川家の出身だ。
田中は、井上修と30年前の事件の関連性を探ることにした。井上は現在55歳。30年前は25歳になる計算だ。若手職員として、ダムの管理や水利権問題に関わっていた可能性は十分に考えられる。彼は、町役場の古い人事記録を調べた。井上修は、大学卒業後、すぐに清水町役場に技術職員として採用され、以来、一貫して水利課に配属されていた。そして、佐々木浩二が不審死を遂げた当時、彼もまた、水利課の末端職員として、学園川のダム管理に携わっていたことが明らかになった。
「やはり…!」田中は、確信を深めた。井上修は、30年前の事件の「生き証人」であり、あるいはその事件に直接的に関わっていた可能性さえある。美月は、学園の「裏帳簿」を見つけてしまったと、親友の高橋裕子が証言していた。そして、その裏帳簿が、古い時期からのもので、長期間にわたって行われていた不正会計を示しているという。
さらに、美月は、学園川の昔の出来事、すなわち30年前の事件について、担任の山田花子に尋ねていたことも判明している。これらの情報が、田中の中で繋がり始めた。
仮説: 美月は、生徒会長という立場から学園の会計を調べ、その過程で、古い時期からの裏帳簿を発見した。その裏帳簿には、単なる不正会計だけでなく、30年前の佐々木浩二の死に関わる、水利権を巡る不正や、あるいは何らかの「隠蔽」を示す記録が隠されていたのではないか。美月は、その真実に気づき、誰かに相談しようとした、あるいは直接問い質そうとした。
その「誰か」こそが、井上修だったのではないか。田中は、井上修の過去の言動を思い起こした。ダムの運用について話す際の、彼の「警戒」と「疲弊」。そして、「操作記録は全てログとして残ります」と断言した後の、補助ログの存在を隠そうとしたような不自然な態度。これらは、彼が何かを隠している証拠に他ならない。
さらに、佐藤校長が生徒会室で美月と口論していたという生徒の証言も、田中の頭を駆け巡った。校長の教育改革は、表向きは素晴らしいものだが、その裏で、学園の財政状況を立て直すために、何らかの不正に手を染めていた可能性はないか。そして、美月がその不正に気づき、校長に詰め寄っていたのではないか。
しかし、校長が30年前の事件に直接関与している可能性は低い。校長は3年前に清水町に赴任したばかりだ。彼が関与しているとすれば、それは美月が見つけた裏帳簿が、現在の学園の不正会計を示しており、それを美月に暴かれることを恐れた、という「表面的動機」に繋がるだろう。
だが、井上修の場合はどうか。彼は30年前から町役場の水利課にいる。そして、美月の家族、森川家は、30年前の事件で佐々木浩二を支援し、水利権を巡る争いに巻き込まれていた。田中は、30年前の新聞記事を改めて読み直した。佐々木浩二の死は「不審死」として扱われ、結局原因不明のまま処理された。そして、森川家が水利権問題から手を引いた経緯も不自然だった。
真の動機:30年前の事件の隠蔽田中は、この「隠蔽」こそが、井上の真の動機であると結論付けた。井上は、30年前の事件の真相を知る人物の一人、あるいは事件に直接関与した人物だったのではないか。佐々木浩二の死は、単なる事故ではなく、水利権を巡る利権争いの結果、あるいは何らかの過失による死であり、それが意図的に隠蔽されたのだ。そして、その隠蔽工作に、若き日の井上修が加担していた可能性がある。
美月は、裏帳簿の調査を通じて、その「隠蔽」の証拠、あるいはそれを匂わせる記述を発見してしまった。それは、学園の財政に関わる不正と、30年前の佐々木浩二の死が、一本の線で繋がっていることを示唆していたのではないか。美月は、その真実を、公にしようとした。あるいは、井上修に直接問い質した。
そして、その真実が明るみに出ることを恐れた井上修は、美月の口を封じるために、あの水位操作トリックを仕掛けたのだ。学園川のダムシステムを熟知し、監視カメラの死角を知り尽くした彼だからこそ、実行可能な完璧なアリバイ工作。アリバイ工作と心理トリック井上修は、事件当夜、自宅にいたと主張するだろう。しかし、ダムの自動制御システムは、遠隔操作が可能だ。彼は自宅から、あるいは町役場のどこかから、システムの補助ログを操作し、水位を変動させたに違いない。そして、監視カメラの死角を利用することで、自身の姿を隠した。
また、美月が最近悩んでいたという事実を利用した「自殺偽装」も、犯人の巧妙な心理トリックだった。美月が悩んでいたのは、学園の不正と、町の暗部に隠された真実を知ってしまったことによるものだ。
しかし、犯人は、その悩みを「進路や文化祭の準備による精神的なもの」として、周囲に印象付けようとした。そうすることで、美月の死が「自殺」あるいは「事故」として片付けられる可能性を高めたのだ。田中は、すべてのピースが揃ったことを感じた。
井上修の正体と、その背後にある動機。それは、この小さな町が抱える、長きにわたる暗部だった。清流の底に沈んでいた真実が、ついにその全貌を現そうとしていた。残るは、その真実を、井上修自身に認めさせること。そして、この町の未来のために、過去の過ちを清算することだ。




