静寂の朝
午前六時を少し過ぎた頃、長野県山間部の清水町は、まだ深い眠りの中にあった。
町を流れる清水川は、その名が示す通り、透き通った水を湛え、早朝の冷気を受けて静かに流れている。
人口約八千人の小さな町は、この清らかな水と、それを育む豊かな自然に恵まれて、ひっそりと息づいていた。
町長である田中誠一郎は、毎朝六時半には身支度を整え、自宅の庭に立つのが日課だった。
彼が住むのは、清水川の畔に建つ築百年の古民家だ。
庭には手入れの行き届いた椿の木が数本あり、この時期は文化祭「清流祭」を目前に控え、その準備で慌ただしい学園の喧騒も、まだ届かない静寂に包まれていた。
かつて国語教師として教壇に立ち、今では町長として町民の信頼を一身に集める六十四歳の彼は、この静かなひとときを何よりも大切にしていた。
いつも通りの朝が、しかし、その日を境に永遠に失われることを、田中はまだ知る由もなかった。
町の中心部から少し離れた清水学園高等学校の敷地内を縫うように流れるのは、清水川の支流である「学園川」だ。
学園川は、学校の裏手にある小さなダムから流れ出し、やがて清水川へと合流する。
普段は穏やかな流れで、生徒たちが水泳の授業や部活動で利用することもある、学校にとって身近な存在だった。
その学園川で、異変が起きたのは午前六時十分頃のこと。
早朝ジョギングを日課とする町民の一人、中野義一が、いつものコースを学園川沿いに走っていた時のことだった。
ひんやりとした朝の空気が肺を満たし、規則正しい足音が砂利道に響く。
学園の敷地内、体育館の裏手にあたる比較的開けた浅瀬に差し掛かった時、彼は目を疑った。川の中央に、何かが横たわっている。
最初は大きな流木かと思った。
だが、よく見ると、それは人間の姿に見えた。心臓が跳ね上がった。中野は息を呑み、足を止めた。
そこは、水深わずか三十センチほどの、くるぶし程度の深さしかない場所だった。水の流れは緩やかで、川底の小石までくっきりと見えるほど澄んでいる。
その澄み切った水の中に、仰向けになった人物が沈んでいる。
恐る恐る近づくと、息を呑むような光景が広がった。
それは、女子生徒だった。制服のようなものが見える。
顔は水面に向けられ、黒髪が水流に揺れている。中野は震える手でスマートフォンを取り出し、警察に通報した。声は上ずり、震えていた。「学、学園川に……人が、人が沈んでます!」通報を受けた警察が現場に急行する一方、情報は瞬く間に町役場へと伝わった。
そして、町の全てを預かる町長の田中誠一郎の耳にも。
「町長、大変です! 学園川で、女子生徒の遺体が発見されたと、警察から連絡が入りました!」秘書の声が、朝の静寂を打ち破った。
田中は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。遺体? 学園川で? まさか。耳を疑いつつも、事の重大さを瞬時に察知し、彼は即座に現場へと向かった。
現場はすでに物々しい雰囲気に包まれていた。パトカーの赤色灯が点滅し、青いシートで目隠しされた一帯に、複数の警官や救急隊員が慌ただしく立ち働いている。
田中は町長として、また元教師として、何よりもまず被害者の安否を案じた。
しかし、現場に到着するなり、彼の心は一瞬にして凍りついた。シートの隙間から見えたのは、紛れもない、清水学園の制服だった。
そして、遺体の様子。その白い肌と、静かに流れる黒髪は、まるで深い眠りについているかのようだった。「状況は?」田中は現場責任者らしき警察官に声をかけた。
「田中町長、ご足労いただきありがとうございます。現在確認中です。
しかし、状況から見て、残念ながら…」警察官の言葉に、田中は深く頷いた。
彼の教師としての勘が、すでに最悪の事態を告げていた。
遺体は、森川美月。清水学園三年生、生徒会長。
成績優秀で、水泳部では県大会にも出場するほどの選手だった。
つい先日、名門大学への推薦入学も決まり、学校内外から模範生として称賛されていた。
そんな美月が、なぜ、こんな浅い川で命を落としたのか。
田中は、シートの向こうに見える美月の姿をじっと見つめた。
水深わずか三十センチ。その事実が、彼の心に最初の疑問を投げかけた。
膝を少し屈めれば、体勢を立て直せるほどの深さだ。
なぜ、この浅瀬で溺死するなどという、不可解な死を遂げたのか。
水泳部員である彼女が、浅瀬で溺れるはずがない。
彼の長年の経験と、推理小説で培われた論理的思考力が、警鐘を鳴らしていた。
警察による現場検証が始まった。鑑識班が入り、写真撮影、指紋採取、そして遺体の詳細な状態が記録されていく。
川岸には、美月のものと思われるスクールバッグが、中身が散乱した状態で転がっていた。そこには、教科書、ノート、そして文化祭の企画書らしき書類が濡れて張り付いている。
彼女が何らかの目的でこの場所に来たことは間違いないだろう。
だが、争った形跡はなかった。衣服の乱れもなく、外傷も見当たらない。
まるで、静かに水に身を委ねたかのような、あまりにも穏やかな死の様相。
それは、事件の可能性を否定するかのようにも見えた。
田中は遠巻きに、警察の動きを追っていた。彼の目は、警官たちが注目しない、些細な細部にまで及んでいた。
川岸の土の湿り具合、周囲の草木の様子、そして学園川の水の流れ。
全てが、彼には何かを語りかけているように感じられた。
澄んだ水。
静寂の朝。
しかし、その清らかな流れの下に、今は取り返しのつかない「真実」が沈んでいる。
そして、田中はその「真実」の輪郭を、その時すでに、わずかながら感じ取っていた。