ほつれ
「私、指先から糸が出るんだよ」
その日、僕らは郊外の静かなファミリーレストランにいた。休日の昼下がりで、客足もまばら。窓からはやわらかな陽射しが差し込み、テーブルに置かれたグラスの影が、じんわりと広がっていた。
そんな、何の変哲もない午後に、彼女はぽつりとそう言った。
一瞬、僕は聞き間違いかと思った。だが、彼女の真剣な表情を見て、冗談や戯れではないと気づくのに、時間はかからなかった。
「糸って……あの、“糸”?」
「そう、毛糸とか縫い糸とかの、普通の糸」
彼女は、当たり前のことを話しているかのように、静かに笑った。
僕の頭の中には、あり得ない映像ばかりが次々と浮かんでは消えていった。ハリウッド映画のスーパーヒーロー、漫画の異能力者。けれど、それはどこまでも作り物の世界だ。現実には、起こりえない。少なくとも、僕はそう思っていた。
「……手品ってこと?」
「種も仕掛けもございません」
彼女はどこか得意げに、声に遊び心を含ませながらそう返してきた。
「本当に? じゃあ、証拠を見せてよ」
僕がそう言うと、彼女はフフン、と鼻を鳴らした。まるで、やっとその言葉を待っていたかのようだった。
「では、実演と参りましょうか」
彼女は身を乗り出し、手をそっとテーブルの上に差し出した。その指先に意識を集中させると、ほんの数秒後、小さな変化が起こった。
それは最初、光の錯覚かと思った。だが、違った。
彼女の右手の人差し指と中指のあいだから、ほんの細い、けれど確かに実体のある“糸”が、するすると這い出していたのだ。
ミシン糸ほどの細さで、白く光沢を帯びている。何もない空間から湧き出すように、指と爪の隙間から静かに伸びていく。
僕は言葉を失って、それを見つめることしかできなかった。驚きや困惑が追いつかず、ただ、目の前の不思議に呑まれていた。
彼女はしばらくのあいだ、夢中になって糸を出し続けた。まるで長い時間をかけて習得した職人芸のように、一定のテンポで、糸を紡ぎ続ける。そしてある程度の長さになったところで、彼女は糸を口元に運び、前歯で軽く噛み切った。
プチン、と小さな音がした。
彼女は噛み切った糸を丁寧にテーブルの上に置くと、満足げに僕の顔を覗き込んできた。
「ね? すごいでしょ」
言葉では表せない感情が、僕の胸の中で渦巻いていた。きっと、顔には笑みが浮かんでいたと思う。子どもが手品を初めて見たときのような、純粋な驚きと喜びに満ちた笑顔だったはずだ。
僕は夢中になって賞賛の言葉を並べた。それがどんな意味を持つのかも考えずに、ただ「すごい」「面白い」「信じられない」と、言葉を投げ続けた。
彼女はそのたびに少しだけ照れたように笑い、でもどこか満足そうに頷いていた。
それからというもの、僕と彼女の日常には、いつも“糸”があった。
放課後の喫茶店、公園のベンチ、僕の部屋のソファ。どこで会っても、彼女は糸を見せてくれた。
ある日、彼女は冗談めかして、出した糸の片端を僕の小指に結びつけた。「赤い糸じゃないけどね」と言って笑った顔を、僕は今でも覚えている。
また別の日には、僕のシャツのボタンが今にも外れそうになっていたのを見つけて、彼女が自分の糸でそれを縫い直してくれた。手先が器用で、縫い目は驚くほど綺麗だった。
そんな日々が、一ヶ月ほど続いた。
夢のような時間だった。けれど、夢というものには、いつか終わりが来る。
その日も、僕は家でのんびりと過ごしていた。ドアをノックする音が響いたとき、まさか世界が変わるような報せが届くとは思っていなかった。
扉の向こうに立っていたのは、スーツ姿の中年男性だった。声のトーン、鋭い目つき、名乗りもしない態度――おそらく刑事だろうと、すぐに察した。
「あなたの彼女が、行方不明になっている」
その言葉は、あまりにも淡々としていて、どこか現実味を欠いていた。
僕はすぐに何かを感じ取ることができなかった。胸の奥がぽっかりと空いて、言葉も思考も、どこかに落ちていった。
「これから彼女の部屋に向かいます。何か気づいたことがあれば、教えていただきたい」
僕は頷き、彼らの車に乗った。
彼女の部屋は整然としていた。物が少なく、静かな空気が満ちていた。
だが――
部屋の中央に、それはあった。
色とりどりの糸が、まるで滝のように折り重なりながら、こんもりと山を成していた。赤、青、白、黒……無数の糸が複雑に絡み合い、まるでそこに生きているかのように、存在感を放っていた。
誰も言葉を発せなかった。
けれど僕は、その光景を目にした瞬間に、すべてを理解していた。
彼女は、ほつれていたのだ。