第5話 金融の足固め①
翌日、まだ朝の冷たい風が残る時間帯にもかかわらず、ルシアーヌ・ド・ベルヴィルは少人数の随行者を連れて馬車を走らせていた。行き先は王都から少し外れた通りにある小規模な銀行――バストン銀行。前日に彼女が調べ上げたリストの筆頭ともいえる金融機関で、内部の資金繰りに難があると噂されていた。
「お嬢様、本当にこちらの銀行でよろしいのでしょうか? 場所柄もそうですが、いささか質素といいますか……」
侍女長のクラリスが馬車の窓越しに見える外観を見て小声で疑問を口にする。何しろ古びた看板の文字は剥げかけ、石造りの建物の一部には亀裂すら入っているように見えた。高い天井や豪華な装飾が当たり前の王都中心部の銀行とは雲泥の差だ。
「構わないわ。むしろこういうところこそ、狙い目なの。建物は古くても、ここで扱うお金は十分魅力的だもの」
言葉尻も軽やかに、ルシアーヌは頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。昨夜、細かい帳簿を読み込んだとき、バストン銀行が表向きの印象に反して一定の顧客数と利幅を確保していることを知ったのだ。しかも貴族の出資比率が思ったよりも低く、出資者の多くが中堅商人であるため、方向性次第で経営に大きな影響を及ぼせる。加えて不正会計の疑いまであるとなれば、まさに「お買い得」である。
馬車を降りると、整備の行き届いていない玄関のタイルがぎしりと音を立てる。クラリスが足もとを確かめるように先に立ち、ルシアーヌは埃一つ付けまいと気をつけつつ、優雅にその後をついていく。館内へ入るやいなや、古めかしい受付カウンターと、いかにもくたびれた制服を着た行員たちの姿が目に入った。
「いらっしゃいませ……。本日はどういったご用向きで?」
焦った様子で声をかけてきたのは、銀行の支配人とおぼしき初老の男だ。高価なスーツというわけでもなく、ネクタイの結び目もいささか緩んでいて、城下の銀行のような整然とした雰囲気がまるでない。だが、その瞳には薄い警戒が浮かんでいるようだ。
「ごきげんよう。私はベルヴィル公爵家の令嬢、ルシアーヌ・ド・ベルヴィルと申します。突然のご訪問で失礼いたしますが、少々お話ししたいことがありまして」
あくまで柔らかな声音で名乗りながらも、ルシアーヌの瞳はどこか鋭い光を帯びている。支配人の男は、公爵家の名を聞いた瞬間に顔色を変え、慌ててお辞儀を繰り返した。
「こ、これは……公爵令嬢さまでございますか。まさか当行にお越しいただけるとは……。ええと、何か不手際でもございましたでしょうか?」
「いいえ、不手際というほどのことはまだございませんわ。今回は投資のお話がありまして。お時間をいただけますか?」
投資の話――その一言に、支配人がほっとしたのがわかった。しかし、同時にどこか戸惑いが垣間見える。その理由は簡単だ。こんな小さな銀行に公爵家が投資を持ちかけるとは、ごく普通なら考えられないからである。
「は、はぁ……もちろん、お時間はご用意いたします。どうぞ、奥の応接室へ」
焦りからか、支配人の声が上ずっている。ルシアーヌはクラリスと共に案内されるまま、重い扉をくぐりぬけた。そこは広い割に家具がまばらで、ソファの張り地も年季が入っている。古くから続いている銀行ゆえか、調度品には風格というよりはむしろ経年劣化が目立つだけだった。
だが、ルシアーヌは少しも動じる様子を見せず、ソファの中央に優雅に腰を下ろす。クラリスは黙って傍らに控え、支配人は慌ててお茶を出すよう行員に指示している。やがて、数分ののちに二人の男性が部屋へ入ってきた。どうやら行員の話によると、片方は行内の実質的な経営権を握る財務部長、もう一人は一応名目上の副頭取らしい。
「いきなり大勢の方に集まっていただくなんて、恐縮ですわ。私としては、早めにお話をまとめられればと思っておりますの」
公爵家の令嬢として少しも恥じない上品な声で語りかけると、全員がどこかぎこちなく頭を下げた。経営陣の中には妙に落ち着かない様子で額の汗を拭う者もいる。ルシアーヌは微笑みつつ、そっと口を開く。
「さっそくですが、バストン銀行様への出資を検討しております。小口の投資という意味ではありませんわ。まとまった株式を購入し、事実上、御行の経営に関与させていただければ……と思っております」
この言葉に、男性たちが顔を見合わせる。互いに明らかに動揺した表情を浮かべながら、口を開きかけては閉じている。最初に口を開いたのは財務部長だった。
「わ、わが行への大型投資……まことにありがたいお話ではございます。ですが、どうしてまた急に……何か、目的がおありなのでしょうか?」
疑念を隠そうともしない声音。ここへきて公爵家が大金を投下しようとする裏には、何かしらの魂胆があるに違いない――そう思うのは当然だ。むしろ歓迎よりも警戒が先に立つのは、この銀行がもともと脆弱な経営をしているからかもしれない。簡単に株式を渡してしまえば、思うように経営権を握られてしまう危険が大きい。
「目的ですか? もちろん、御行をはじめとする地方銀行を立て直し、私も利益を得たいと考えているのですよ。ウィンウィンの関係になれば素晴らしいではありませんか」
言葉遣いこそ優雅だが、その裏にどれほどの“抜け目なさ”が含まれているか、経営陣も察したのだろう。副頭取と名乗る男が苦笑いを浮かべる。
「しかしながら、当行はそんな大きな出資をお受けできるような規模では……。あまりにも莫大な投資をしていただくのは、むしろ不健全かと存じますが」
「不健全かどうかは、経営状況次第でしょう。仮に経営が安定しているなら、そうした投資を活用してさらなる発展も見込めるはずですわ。――ねぇ、財務部長さん?」
ルシアーヌがくすりと笑みを浮かべ、財務部長に視線を向けると、彼はやや慌てたように咳払いをする。内情を知られては困るという焦りがひしひしと伝わってくる。
「確かに、資金が入れば余裕は生まれましょうが……御行にも取締役会議というものがありまして、そう簡単に決められることでは……」
「そうかもしれませんね。けれど、取締役たちも別に『誰か特定の個人』に経営を委ねたくないというだけでしょう? 私が株式を取得するといっても、表面上は『公爵家の信頼ある投資』と考えていただければ問題ありませんもの。私が関与することに抵抗があるわけではないでしょう?」
柔らかい物腰ながら、ルシアーヌの言葉は矢のように突き刺さる。支配人が苦り切った表情を浮かべ、同僚と視線を交わす様子が痛々しい。そこへクラリスが軽く目配せをして「どう展開するのかしら」と不安げに見守る。だが、ルシアーヌはさらに畳みかけるように帳簿の束を取り出してテーブルの上に広げた。
「ちなみに……わたくし、この帳簿を少し拝見しましたわ。正式な文書ではないようですが、内容は間違いありませんでしょう? ここ半年ほどで不自然に増えている『貸倒金』が記録されていますが、そもそも御行は貸付条件を緩めすぎているのではなくて?」
まるで宝石を検分するかのように繊細にページをめくるルシアーヌに、財務部長は思わず身を乗り出して声を荒らげる。
「そ、それはどこで手に入れたんです!? まさか、それは内部資料のはず……!」
「ええ、内部資料ですね。あなた方の行員が漏らしたわけではございませんわ。私の情報源は多岐にわたりますの。ご安心を。――でも、ここに書かれている数字、ちょっと計算が合わない部分があるのはなぜ?」
その問いかけに対して、財務部長も副頭取も言葉を失う。言い逃れようにも、彼女が見せている資料の数字は正確で、紙の端には行員の記名らしきものまで残っている。明らかに何らかの不正、あるいはごまかしが行われている気配だ。
「破綻しそうな中小企業に過度に貸し付けては、焦げ付いた分を別の財源で埋め合わせしているわね? これが続けば、いずれ帳尻が合わなくなるでしょう。どんなに数字を操作しても、本質は変わりませんもの」
微笑みながら淡々と語るルシアーヌを前に、経営陣はまるで鬼に睨まれたように冷や汗をかいている。副頭取が「これは何かの誤解で……」と弁解を始めるが、彼女は美しい手袋をした手で書類をとんとんと叩いて制した。
「誤解かどうかは、私には関係ありませんわ。だって、こうした不正会計がこのまま発覚すれば、御行は信用を失うか、最悪の場合は破綻するかもしれませんよね? そんなことになれば、出資以前に銀行の存続すら危ういでしょう?」
「そ、そんな……」
正論すぎるほどに正論を叩きつけられ、三人はひそひそと目配せし合う。しかし、すでにルシアーヌに逃げ道を断たれているも同然だ。このままごまかしても、彼女が資料を握っている以上、簡単に不正が暴露されてしまうかもしれない。それを避けるには、彼女の好意的――に見える提案を受け入れるしかない。
「つまり、私が出資し、メイン出資者として経営に口を出すことになれば、あなた方としてはこのままの不正会計を隠し通せるかもしれません。少なくとも、公爵家が絡むならば、多少の不祥事など外には漏れにくいでしょうし……。いかがです?」
無垢な少女のような微笑みとともに放たれる言葉は、その場の空気を凍りつかせるに充分だった。クラリスは思わずため息を飲み込み、同時に「利用できるものは利用する」というルシアーヌの姿勢を改めて思い知る。こんなに優雅な笑顔で、まるで薔薇の棘を突きつけるような交渉をするとは……。