第3話 抑えきれない炎②
すると、部屋の外から控えめなノックが聞こえ、今度はクラリスが顔を覗かせた。アメリアが目線でうなずくと、クラリスはそっと中に入り、割れたグラスやワインで染まった絨毯を見て息をのむ。
「お嬢様……少しばかり失礼して、片づけをさせていただきますわ」
「ええ、お願い」
やや硬い声ながらも許可を出すルシアーヌ。クラリスは手際よく破片を集め、染みついたワインの処理を始める。長年仕えてきただけに、こうした場面でどう動くべきかを心得ているのだろう。口を挟まず、ただ静かに淡々と作業を進める彼女の姿に、アメリアは安堵しつつも申し訳なさそうに視線を向けた。
部屋の中はしばらく、そんな微妙な空気のまま時が過ぎていく。ワインの染みがだいたい拭われ、破片が片付けられても、ルシアーヌの表情は変わらなかった。クラリスは彼女の意向を確かめるように何度かちらりと視線を向けるが、ついに決定打となる言葉は発せられない。歯がゆい沈黙が続く中、アメリアがそっと空気を変えようと動いた。
「ねぇ、ルシアーヌ。あなた、このままでは気がすまないでしょう? 怒りはもっともだと思うわ。王太子殿下にも彼の取り巻きにも、一泡吹かせてやりたいくらいよね」
「……そうね。私に恥をかかせた以上、ただでは済まさないわ」
ふっと上がるルシアーヌの視線。そこには先ほどまでの痛々しい沈黙とは違う、冷ややかな光が宿っていた。その瞳を見たアメリアは、思わず息を飲む。彼女は今、本気で何かを仕掛けるつもりだ。その証拠に、無意識のうちに唇が釣り上がり、まるで獲物を捉えようとする猛禽のような冷たい笑みがにじんでいる。
「殿下が『愛する女性』とやらを見つけたのは勝手だけれど、あの場でわざわざ宣言し、公爵家の立場を嘲笑するとはね……。ならば、私もやるべきことをやるまでよ」
アメリアが小さくうなずき、そしてクラリスは黙って彼女の言葉に耳を傾けている。ルシアーヌは机の上にある書類の山――舞踏会へ行く前に目を通しかけていた金融や投資関連の帳簿――に手を伸ばした。指先がわずかに震えてはいるが、その動作にはどこか決意がみなぎっているようにも見える。
「王族だからといって、軽々しく人を踏みにじってよいわけがないわ。それがどれだけ国にとって危険な行為か、身をもって思い知らせて差し上げないと」
「それって……まさか、王家に直接楯突く気なの?」
驚きと不安が入り混じった声でアメリアが問いかける。だが、ルシアーヌは即座に否定するでも肯定するでもなく、まっすぐ前を向いたまま続けた。
「そうではなくて、『私がこの国を動かす』のよ。王家に喧嘩を売るのではなく、もっと根本的に、私の思うとおりにこの国の経済を牛耳るわ。……私が動けば、あの方々が好き勝手に振る舞えないようになるでしょう?」
その言葉を聞いたアメリアの表情は複雑だ。確かに、ルシアーヌにはそれだけの才覚があるのは周知の事実――金融に関する知識や投資のセンス、情報収集能力は人並み外れている。実際、彼女と組んだ商会や銀行はどこも潤っているという噂も多い。しかし、それを王家への対抗心から振りかざすのは、簡単な道のりではないはずだ。
ところが、ルシアーヌの目にはすでに迷いがなかった。婚約破棄を言い渡された屈辱と怒りをエネルギーに変え、彼女は公爵家の誇りを守るための手段を即座に思い描いているようだった。クラリスは彼女の決意を感じ取ったのか、片づけを終えた手をそっと合わせて、不安げな面持ちで口を開く。
「ルシアーヌ、本気で……?」
「本気よ。私は、公爵家の面目を潰した者たちに思い知らせる。それが国の形を変えることになるのなら、なおのこと望むところだわ」
ルシアーヌはそう言い放つと、テーブルの上に散らばっていた書類を一気に手繰り寄せた。その姿は妙に活気づいており、先ほどまでの暗い沈黙に沈んでいた令嬢とはまるで別人のようにも見える。瞳の奥には鋭い光が宿り、口元は決然と結ばれていた。
「そもそも、金融や商会を牛耳るためにはどうすればいいか、私にはある程度の青写真があるの。……元々、公爵家にとっても、王家に対してただ媚びへつらう必要などないわ。向こうが一方的に破棄したのなら、なおさらよ」
言いながらも、彼女の指先がかすかに震えているのは事実だ。怒りと屈辱が収まっていない証拠だろう。しかし、その震えこそが彼女の闘志を強く焚きつけている。アメリアは苦笑しつつも感心を隠せず、クラリスもただ静かに頭を下げて「お嬢様にお任せいたします」と表明する。公爵令嬢が本気になったときの凄まじさを、彼女たちは知っているからだ。
さほど広くない部屋の空気が、どこか張りつめている。破片の散った床はもう片づけられているが、ルシアーヌの心に刻まれた裂け目はまだ生々しい。それでも、その暗い痛みから生まれる決意こそが、今彼女を突き動かしているのだ。
「殿下や取り巻きたちに思い知らせるだけじゃないわ。いずれ、国中の商会や銀行が私を恐れ、尊敬し、決して逆らえない……そんな状況を作り上げてみせる。ベルヴィル公爵家の令嬢を笑ったことを、後悔させるためにも」
最後の言葉はほとんど独白に近い低い調子だったが、確かな熱があった。わずかに笑みを浮かべたその横顔には、舞踏会場で見せた穏やかな面影はない。アメリアはこの瞬間、ルシアーヌが何か大きな歯車を回し始めたのを感じ取る。クラリスも同じ思いなのか、少し緊張した面持ちで「お嬢様……」と名を呼ぶが、言葉は続かなかった。
ルシアーヌはそんな二人の視線を受け止めつつ、深紅のドレスの裾を少し整えてから、軽く首を振る。先ほどまでの血とワインの匂いが、まだ部屋の中にかすかに残っているような気がした。だが、彼女はそれを振り払うかのようにテーブルに置かれた書類を束ね始める。
「私はこの手で、この国を思うままに動かしてみせる。簡単ではないでしょうけれど、できないとも思わないわ」
荒くれた心を必死に抑えているのが伝わる声。しかし、その声には確かな力強さがある。まるで今までずっと押し殺していた情熱が解放されたように、彼女の存在感が部屋全体を覆い始めるのを、アメリアもクラリスもはっきりと感じた。
こうしてルシアーヌ・ド・ベルヴィルは、一方的な婚約破棄による屈辱をきっかけに、かつてないほどの決意を固めるに至ったのだった。愛だの情だのといった甘い言葉に振り回されるような性格ではない。むしろ、怒りを原動力として冷静に策を巡らし、合理的に行動を起こす――それが彼女の持ち味である。公爵家の令嬢としての矜持を土台に、国の経済を牛耳るという壮大な野望が静かに胸の内に芽生え始めたのだ。
アメリアは内心、友人がここまでの覚悟を見せるとは想像していなかった。だが、同時に「彼女ならやり遂げるかもしれない」とも感じる。それだけの資質を持つ人間を、自分は目の前に見ているのだと。ベルヴィル公爵家に生まれ、幼い頃から厳格な教育を受けてきたルシアーヌの「本気」は、周囲が想像を絶するほど大きなうねりを生み出すに違いない。
部屋の片隅で、クラリスが破片をすべて処理し終えた様子だ。血のついた手袋も新しいものと取り替えるよう用意している。アメリアはそんな光景を横目に、ルシアーヌが再びグラスを手にしそうになるのを見て、さっと立ち上がった。
「……もうグラスは割らないでよ。クラリスが後処理で大変になるんだから」
「ふふ、心配しなくても大丈夫よ。私も部屋の絨毯をこれ以上傷めたくないもの」
冷ややかに見えるが、少しだけ微笑みを含んだ返しに、アメリアはホッと息をつく。そんな二人のやり取りを見守るクラリスがわずかに頬を緩めたのを見て、ルシアーヌは「そろそろ休むわ」と言葉を切り上げる。
その夜は、ワインの染みた絨毯と割れたグラスの痕跡が生々しく残る部屋の中で、ルシアーヌは遅くまで眠りにつかなかった。舞踏会の光景――あの侮辱的な言葉や周囲の嘲笑、セドリックの淡々とした態度が脳裏に張り付いて離れない。だが、その悔しさはやがて彼女の強靭な精神力を後押しする燃料となり、心の中でどんどん熱を帯びていく。
「私は、絶対に自分の意志を曲げたりしない。ましてや、公爵家の名誉を守らないなんてことはありえない」
闇の中で紡がれたその独り言は、誰の耳にも届かない代わりに、はっきりとした決意の形で彼女の魂に刻み込まれた。寝台に横たわりながらも、瞼を閉じると浮かぶのは、自分が心に描く「国の経済を牛耳る」という壮大な構想。気の遠くなるような道のりかもしれないが、彼女の内なる怒りと誇りは、それをやり遂げるだけの糧になると信じて疑わない。
こうして、公爵令嬢ルシアーヌの長い夜は幕を閉じた。だが、これは何かの終わりではなく、むしろ始まりである。セドリック・レオバーンが軽々しく傷つけた公爵家の威厳――それを回復どころか、より強大な力へ昇華するための「序章」に過ぎないのだから。明日になれば、彼女はきっといつもの端麗な姿で人々の前に現れるだろう。表向きは落ち着いた公爵令嬢のまま、しかし心の底には「この国を思うままに動かす」という熱い闘志を秘めて。
そしてそのとき、レグリス王国にどんな嵐が吹き荒れるのか――まだ誰も知る由はない。クラリスもアメリアも、その予兆を感じながら、静かに夜の帳を下ろしていく。明日以降、ルシアーヌがどんな行動を起こし、そして王国がどう変わっていくのか。ほんの一夜にして、情勢を一変させる可能性を秘めた彼女の存在が、この国の未来を大きく左右しようとしていた。