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第3話 抑えきれない炎①

 ベルヴィル公爵家の馬車が屋敷の正門をくぐったのは、すっかり夜も深まった頃だった。舞踏会を後にしたルシアーヌは終始無言のまま、硬い表情を崩さずに車内でじっと窓の外を見つめていた。暗い街路灯がちらちらと車窓を横切るたびに、その瞳には激しい怒りと沈んだ憂いが交錯するように映っている。外から見ればいつも通り堂々とした姿勢だが、その胸中が煮えたぎっているのは、長年彼女に仕えている侍女長のクラリスには痛いほど伝わってきた。


 屋敷に到着すると、ルシアーヌは誰にも言葉をかけぬまま、さっさと扉を開けて降り立った。迎えに出てきた執事や侍女たちも、一瞥(いちべつ)すらされない。そういうときは迂闊に声をかけない方がいいと、皆が察する。ベルヴィル公爵家の令嬢は、日頃から冷静で落ち着いた言動を崩さないが、今夜ばかりは雰囲気が異様だった。


「お、お嬢様……お疲れではございませんか? 少し甘いものなどいかがでしょう?」


 控えめに呼びかけたクラリスの問いかけにも、ルシアーヌはわずかに首を振っただけだった。深紅のドレスはまだ着替えないまま、裾を(ひるがえ)してまっすぐ部屋の奥へと進んでいく。クラリスはその背を追いつつも、むやみに言葉をかけては逆効果だと判断し、慌てて黙った。


 重厚な扉を閉める音が館内に響く。ルシアーヌの私室は、豪奢(ごうしゃ)な家具や調度品が整然と配された優雅な空間だが、今はその華やかさがかえって彼女の怒りを映し出すかのように感じられた。クラリスが続いて部屋に入ろうとすると、ルシアーヌは振り返りもせずに「一人にして」と小さくつぶやく。普段であれば、もう少し穏やかな調子で「後で来て」と言うくらいの余裕があるのに、今夜はそうではなかった。


 クラリスは何か言いたげに唇を開きかけたが、結局は無言のまま頭を下げ、扉を閉める。扉が完全に閉まると同時に、部屋の中はしんと静まり返った。あるのは香炉から立ち上るわずかな煙の香りと、彼女が荒い呼吸を抑えようとするかすかな物音だけだ。


 ルシアーヌはため息をつくように小さく息を吐き、それからそのまま部屋の中央に置かれたテーブルの上にあったグラスへと手を伸ばした。元は夜会の後に一息つくために用意されていたワイン。しかし、口に含む前に、彼女はその手をきゅっと握りしめ、グラスに力が込められていく。


「……ふざけるにも、ほどがあるわ」


 はじめは抑えた声だった。けれど、その言葉に込められた感情はどす黒く膨れ上がり、次第に制御できなくなる。まるで舞踏会での「あの光景」が脳裏に焼きついて離れないかのように、ルシアーヌの胸には(いきどお)りが渦巻いていた。


 王太子セドリック・レオバーン――これまで自分が「公爵家の令嬢として」当然のように政略婚約を結ばされてきた相手が、何の前触れもなく「心から愛する別の女性がいる」と表明し、婚約を破棄するなどとほざいたのだ。自分を笑い者にする行為としか思えない。しかもあろうことか、大勢の前でまるで宣言のように言い放ち、取り巻きたちに面白半分の嘲笑を誘った。そんな屈辱を簡単に水に流すほど、ベルヴィル公爵家の令嬢はお人好しではない。


 怒りに任せてグラスをテーブルに叩きつけた瞬間、繊細なガラスは大きく破裂し、カシャリと鈍い音を立てて床に散らばった。気づけばワインは赤い筋を描きながらじわじわと染み出し、テーブルの上や絨毯(じゅうたん)を濡らしていく。だが、ルシアーヌは飛び散った破片の危険や衣装の汚れなど構う余裕もなく、内なる感情が暴れ回るのを抑え込むことに必死だった。


「……なんて無礼。よりにもよって、あの場所で――」


 怒りを押し留めようとした声がかすかに震える。絨毯に落ちて滴る赤いワインは、まるで彼女の誇りが踏みにじられた証のように見えた。割れたグラスの破片を散らすまま、彼女はテーブルの端に手をつき、頭を下げてゆっくりと呼吸を繰り返す。


 ノックの音が小さく響く。クラリスかと思いきや、そこにはアメリア・トレンツの声があった。


「……ルシアーヌ、入っていい?」


 アメリアは舞踏会に足を運んでいたわけではないが、途中で広まった噂を聞きつけて急ぎ駆けつけたらしい。少なくとも、彼女はルシアーヌが深く傷ついていると察しているはずだ。


「構わないわ。どうせ……もう私の気は収まりそうにないもの」


 ルシアーヌの投げやりな返事を聞き、扉がそっと開く。アメリアは入るなり、まず床に散らばったグラスの破片とワインの染みを見て驚いた顔をした。そのまま言葉を探すようにしばし黙ったが、次の瞬間、慌てた様子で部屋の端にあった布を手に、拭き取り始めた。


「ちょっと、これ……クラリスたちを呼ぶわね。あまり一人で抱え込まない方がいいわ」


 アメリアは思わずため息をつく。


「……ありがとう。でも、今は少しだけ、私の話を聞いてくれないかしら」


 その声には、かろうじて押し込められた(かな)しみがにじむ。アメリアは黙ってうなずき、破片を片づけかけていた手を止めて彼女の視線に向き合った。


「もちろん聞くわ。あなたがこんなに取り乱すなんて、相当のことよね」

「取り乱してなんかいない」


 即座にそう言い返しながら、ルシアーヌは唇を噛む。自分でも取り乱しているのを理解しているが、決してそれを表に出したくないというプライドが、彼女を言葉で必死に取り(つくろ)わせていた。だが次の瞬間、深いため息が漏れ、アメリアの前だからこそ少し素直になるのか、ぽつりとつぶやく。


「……セドリック殿下が、私を――いいえ、ベルヴィル公爵家を(ないがし)ろにするような真似をしたの」

「それは、婚約破棄がどうとかって噂になってるわね。まさか、本当に……?」


 アメリアは噂程度だと思っていたが、表情を見れば真実だとすぐ悟った。あまりに突然の破棄、それも人前で「愛する別の女性がいる」などと言い放ったという。この国の中心にある王太子と名門公爵家との関係が崩れるとなれば、ただのスキャンダルでは済まない大事だ。アメリアは友人としてルシアーヌを心配する気持ちと、商人としての危機感の両方で胸を締めつけられた。


「本当なの。舞踏会で、まるで見世物みたいに……私がどれほど恥をかいたか、殿下には想像もできないのかしら」


 ルシアーヌはつぶやきながら、手袋を脱ぎ捨てるように放った。大きなドレスの裾を掬う動作も荒く、彼女らしからぬほど乱れている。アメリアは思わずその手をそっととって、自分のハンカチでグラスの破片のせいでできた小さな切り傷をぬぐった。


「血がにじんでる……ルシアーヌ、痛くない?」

「……平気よ。こんなの痛みのうちに入らないわ」


 真紅のワインとかすかな血の色が混じり合うその手を見下ろす彼女の瞳には、耐えがたい屈辱と怒りの念が浮かんでいる。普段、どんな相手の前でも冷静さを失わないはずのルシアーヌが、ここまで感情を揺さぶられるのは初めてかもしれない。アメリアは察した――彼女にとって、これは「ベルヴィル公爵家の娘」としての誇りを真っ向から踏みにじられた出来事なのだ。

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