第2話 衝撃の舞踏会②
一方で、周囲の大商人や銀行関係者の顔には、まったく別の色が浮かんでいた。彼らはルシアーヌが経済や投資に関して卓越した才覚を持つことをよく知っている。もし彼女を真正面から敵に回してしまえば、どれほどの損失を被るか、そのリスクを計算できるだけの頭を持っている人々である。そんな彼らは口を噤み、互いに顔を見合わせては「大丈夫だろうか……」と冷や汗を流していた。
王太子セドリックがこれほど一方的に婚約を破棄するなど、常識的にはあり得ない。しかも、たとえ王族が相手でも、ベルヴィル公爵家に正面から喧嘩を売る形になることは、あまりにも危険だ。それを堂々とやってのけたセドリックに対して、大商人や銀行家たちは心底から肝を冷やしている。ルシアーヌの怒りや報復が、王宮や貴族社会にどんな影響を与えるか、想像できるからこそだ。
ルシアーヌは、周囲のさまざまな反応を斜めに見やりながらも、胸の奥で煮えたぎる感情を必死に抑え込んでいた。確かに結婚は政略の側面が強かったとはいえ、幼い頃から王太子の婚約者として育てられ、公爵家の責務としての心構えも身につけてきた。それを今さら、公衆の面前でまるで「僕は本当の恋を見つけたんだ」という甘美な理想の言葉で覆されてしまう屈辱。そんな事があっていいものか――いや、あってはならない。
しかし、彼女の内心を知る者は少ない。この舞踏会の空気は、むしろセドリックの宣言による衝撃と、娯楽じみた面白半分の気配に包まれ始めていた。ガラスのように脆い静寂を破るように、何人かの取り巻きが「殿下はご立派ですわ」「本当に愛する人と添われるのね」などと賛辞をささやき、さらに彼らの取り巻きがくすくすと笑い合う。目の前でルシアーヌを揶揄している姿が見え透いていても、彼女は表情を動かさない。
「……殿下、あまりにも突然ではございませんか?」
ぎりぎりまで感情を抑えた低い声で、ルシアーヌは問いかける。周囲の誰もが気づかないほどのかすかな震えが、その声の奥には潜んでいた。それでも、彼女は優雅な姿勢を崩さない。まっすぐにセドリックを見つめるその瞳には、冷たい光が宿っている。
「突然なのは承知している。けれど、僕は……僕の心に正直になりたいんだ。申し訳ないが、これが僕の決断だ」
セドリックは少し困ったような表情を見せるが、その奥にはどこか安堵の色が浮かんでもいる。貴族の取り巻きたちが「殿下、やはりお優しいですね」と持ち上げるように笑うと、ルシアーヌの耳には嘲弄に近い響きが何重にも重なって聞こえる。
耐え難い恥辱。まるで自分が見世物にされているかのような、この舞踏会の空気。けれども、ルシアーヌは強烈な怒りを飲み込み、最後まで凛として立ち続けた。どんなに心が掻き乱されようと、たった今、この場でうろたえるわけにはいかない。彼女には公爵家の誇りがある。自分が取り乱すことは、ベルヴィル家の名を汚すことに等しいから。
取り巻きたちの笑い声が響く中、彼女は黙ってセドリックを見返した。どこか翳った瞳を隠すように、ほんの少しだけうつむくと、その場から静かに踵を返し、踊りの輪を避けてフロアの奥へと歩み去る。周囲は一層騒がしくなり、遠くから「なんだか拍子抜けね」「もっと取り乱すかと思ったわ」などと口々に漏れているのが聞こえる。
その喧噪の中、数人の商人や銀行家が互いに目配せをしている姿も見えた。彼らは心の底で恐れていた。このまま王太子の意向に迎合して、ルシアーヌを侮蔑するような態度をとると、後になって自分たちの仕事にも影響が及ぶのではないか――そう考えているからだ。だからと言って、王族を軽んじるわけにもいかない。どう対応すべきか、誰もが言葉を失っていた。
こうして、かつて誰もが疑わなかった「王太子と公爵令嬢の婚約」は、セドリックの口から一方的に破棄が宣言された。王族としての立場を利用した強引な言い分に、表面上は「さすが殿下」と称える者がいる一方、内心「本当にまずいことになりそうだ」と青ざめる者も少なくない。舞踏会はなおも続くが、その華やかさとは裏腹に、どこか重たい空気が流れていた。
ルシアーヌはフロアの片隅にある小さな扉を抜け、隣接するテラスに身を寄せた。夜風が頬を撫で、ちらりと月が雲間から顔を出している。吐き出した息が震えているのを感じたが、それでも彼女は泣かない。絶対に涙を見せてなるものか――それが彼女の誇りであり、意地でもあった。
「……こんな屈辱、あるのね」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、きつく唇を噛みながらつぶやく。その指先は小刻みに震え、真っ白な手袋の上に月光が冴え冴えと落ちている。振り返れば、ホールの中ではまだ音楽が再開され、取り巻きたちの笑い声とダンスがくるくると回り続けていた。
心底、許し難い――そう思う自分がいる。ほんの数十分前まで、ルシアーヌは自分の婚約者としてセドリックを「王国を支えるパートナー」だと考えていたのだ。だが、いきなり「ほかに愛する女性がいる」という言葉で、これまで育てられてきた自分の未来を一刀両断にされた。もう、後戻りはできない。されど、このまま受け入れて引き下がるなど、ベルヴィル公爵家の令嬢としてあり得ない話だ。
「セドリック殿下……。これは、本当に後悔することになりますわよ」
吐き捨てるような独白を風に散らし、ルシアーヌはドレスの裾をつかむ。その目には隠しきれない怒りの光が宿っている。舞踏会の喧騒から離れた薄暗いテラスで、彼女は震える肩をゆっくりと落ち着かせるように呼吸を繰り返した。まだ公衆の面前ではないだけ、少しだけ表情を緩められる。しかし、今ここで感情を爆発させるわけにはいかない。何があろうと、己のプライドを捨てるわけにはいかないのだ。
ドア越しに聞こえてくる、取り巻きたちのささやき――「ベルヴィル家もこれで終わりかしら」「意外と脆いものね」「でも彼女が黙っているとも限らない」――そういった皮肉めいた声を聞くにつれ、ルシアーヌは今まで経験したことのない怒りに身体が熱くなるのを感じた。公爵令嬢としての威厳を踏みにじられたばかりか、周囲に笑い者にされるなど、あまりに屈辱的だ。
けれど、彼女は思う。これをただの恥辱で終わらせるつもりはない、と。いずれ、彼らに思い知らせてやる。自分が何者なのか、公爵家がどれほど恐るべき存在か――世間の嘲笑を跳ね返すためには、どれだけの手段をとってでもやってのける。胸の奥底で、火山のような怒りが小さく噴煙を上げながら燃え上がり始めていた。
そうして、ルシアーヌは夜の闇に溶けるようにそっと微笑む。それは悲しみを伴うものではなく、いずれ来る「反撃」を示唆するかのような、不敵な笑みとも言えた。ドアの向こうでは、まだセドリックが舞踏会を盛り立てる声が聞こえる。おそらく今夜の出来事は、明日には王国中の噂になるだろう。本人の前で笑わなくとも、裏では言いたい放題の者もいるはずだ。しかし、ルシアーヌはそんな視線を浴びながらも、負けを認める気は微塵もない。
おそらく、王太子セドリック・レオバーン自身も、彼女の底知れぬ闘志に気づいてはいないだろう。取り巻きの貴族たちもまた、今は面白半分に笑っているかもしれないが、事態の重大さに本当に気づいている者は少ない。大商人や銀行家が感じている「恐れ」こそが、ルシアーヌの真の姿を示している証と言える。
夜風が頬をかすめる。ベルヴィル公爵令嬢は、ゆっくりと胸の鼓動を整えながら、まるで自らを律するように両手を重ね合わせる。
「……絶対にただでは終わらせませんわ」
静かに、だが決然とつぶやいたその声は、舞踏会の騒ぎの中ではかき消されてしまう。しかし、その言葉の先にある意志は決して揺らぐことなく、むしろこの瞬間からさらに強く研ぎ澄まされていく。こうして、王太子が宣言した一方的な婚約破棄は、ルシアーヌの心に深い爪痕を残すと同時に、彼女の内なる力に火を点ける結果となったのだ。
遠くで音楽が再び高らかに響く。人々は華麗な舞踏に酔い、セドリックを称え、あるいはルシアーヌの失意を嘲笑する声を上げている。けれど、この夜の光景は、すでに後戻りできない裂け目を生み落としていた。ここから先、ルシアーヌ・ド・ベルヴィルは、自らの誇りと怒りを携えながら、誰もが予想できない道を歩み始める。その最初の呼び声が、今このテラスで冷たい月光に照らされる彼女の姿に静かに宿っているかのようだった。