第1話 令嬢の誇り②
もっとも、ルシアーヌは王族という存在に対して畏れも敬意も抱いていないわけではない。ただ、それ以上に「自分が公爵家の誇りを背負っている」という意識が強いのだ。公爵家は名門ゆえ、王家に対しても遠慮しすぎる必要がない。それに加え、幼い頃からの英才教育が彼女の自尊心を支えている。ゆえに、たとえ王城の財務が傾こうが、国中が騒ぎ立てようが、彼女は公爵家の人間として、必要とあらば動くし、不要とあらば静観する。それだけのことだ。
「そういえば、ルシアーヌ。今日のお茶菓子はどこから取り寄せたの? この焼き菓子、香りがすごくいいんだけど」
アメリアが小さく一口齧りながら尋ねると、ルシアーヌは淡々と答える。
「中央市場にあるパティスリー・ヴィンセントから。仕入れ先の商会に少し手を回して、最近話題の新作をこっそり買い占めておいたのよ。甘さと香りのバランスが評判だったから、こうして試食も兼ねているわ」
「……買い占め、ね。相変わらずやることが大胆というか。でも美味しいし、おかげで私も得しちゃったわ」
アメリアは呆れ半分、感心半分といった様子で笑う。ルシアーヌは、優雅にティーカップを手にしながら言葉を続ける。
「美味しいものを頂くときくらい、少しは気を抜かせてほしいの。公爵家の面目だとか、儀式じみたことだとか、そういうのは正直、少し煩わしいもの」
そう言いながらも、ティーカップを置く所作には一切の乱れがなく、周りで控えていた侍女たちが見惚れてしまうほどだ。アメリアはその光景に思わず吹き出しそうになり、そっと口元を手で押さえる。
「あぁ、あなたらしいわ。でも、そのおかげで周りが安心する部分もあるのよ。貴女が『公爵令嬢』として毅然と振る舞ってくれるからこそ、私たちも『ああ、ベルヴィル家は万全だな』って思えるもの」
「ふふ、そうだといいけれど」
軽く笑みを浮かべるルシアーヌ。だが、その瞳にはどこか計算高い光がある。幼い頃から教え込まれた「公爵家の名誉を守る」ことは、彼女にとって生半可な責務ではない。むしろ、その責務を楽しんでいる節があるようにすら見える。――大きなドレスの裾を翻しながら、彼女はまるで女王のように優雅に振る舞うのだ。
やがてアメリアが帰り、夕食までのわずかな間、ルシアーヌは膨大な書簡と書類を机に並べ始めた。中央銀行の会計報告書から始まり、各地の小さな商会の財務状況、果ては海を越えて輸入される商品の価格変動に至るまで、あらゆる情報が整理されている。彼女はそれらを一枚ずつ目を通すと、不要なもの、興味深いものに分け、あっという間に分類していく。
「お嬢様、これほどの書類を今日中にご覧になるのですか?」
クラリスの問いに、ルシアーヌはかすかに首を傾げる。
「ええ、もちろん。明日の予定を立てるなら、今晩中に知っておきたい情報がいくつもあるから」
当たり前のように答える彼女に、クラリスは慣れたように微笑む。とはいえ、その内心にある尊敬の念は消えない。書類の束を前にして尻込みするどころか、むしろワクワクしているようにすら見えるお嬢様の姿は、今となっては当たり前の日常風景となっていた。
こうして、ベルヴィル公爵家の令嬢として生まれ育ったルシアーヌは、抜群の知性と強靭な精神力を身に付けてきた。豪胆さと冷静さを兼ね備え、どんな相手にも一歩も引かない気質。公の場では完璧に上品な笑みを絶やさず、その裏で帳簿を一瞥すればすべてを見抜いてしまう「数字の魔術師」のような顔を持つ。一方で、近しい者の前ではお菓子をぱくぱく頬張ってしまう可愛げもある。
クラリスやアメリアをはじめとする周囲の人間は、そんな彼女の二面性に多少の戸惑いを覚えながらも、不思議と目が離せなくなってしまうのだ。まるで、嵐の中心にいてもまったく動じない一本の大木のように、ルシアーヌという存在はそこにいるだけで周囲を呑み込む力を持っている。
今のところ、日常は平穏に進んでいた。彼女の生き方は、端から見ると多少気難しく、圧倒的なカリスマ性を放ってはいるが、ここベルヴィル公爵家においてはごく自然に受け入れられている。問題があるとすれば――そう、彼女の「婚約者」の存在が、近々大きな波紋を呼ぶとはまだ誰も予想していなかった。もしかすると彼女自身も、その胸の奥底で何かが起こる気配をうっすらと感じ取っていたのかもしれない。
しかし、今はまだ穏やかな時間が流れている。柔らかな照明が照らす部屋で、豪華なドレスをまとう令嬢が優雅に書類をめくる――それがベルヴィル公爵家のいつもの光景なのだ。公爵家の名誉に恥じないよう、完璧であり続けること。幼少より叩き込まれてきたその信念は、彼女の全身を包み込み、いずれ訪れる大きな変化の舞台へと彼女を導いていく。
夜が更けても、ルシアーヌの部屋の明かりは消えそうにない。目の前にある数多の書類たちは、彼女の中に一切の苦労を感じさせない。むしろ、次々と得られる新たな情報をどう生かそうかと、わずかに上がった口元がその胸の高揚を物語っている。
「公爵家の名誉――そう簡単に揺るがされはしないわ」
誰にも聞こえないほど小さく、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいたその声は、確かな決意に満ちていた。まるで、これから先に待ち構えている運命を、さらに上手く手繰り寄せてみせると宣言するかのように。そんな彼女の姿を知る者は、レグリス王国のどこにもまだ多くはない。だが、間もなくこの静けさは破られ、ルシアーヌの名が国中を揺るがすことになる――その幕開けを告げる夜は、静かに更けていくばかりであった。