第10話 王太子の焦燥①
レグリス王国の王宮奥深くに位置する執務室。その日、王太子セドリック・レオバーンは、机に山積みされた書類と向き合いながら、ため息を隠そうともせずに漏らしていた。広々とした窓からは、麗かな陽光が差し込み、美しい庭園が見渡せる。しかし、その風景を愛でる余裕はとてもない。近い将来、国王レオポルト三世が退位する予定が正式に決まったことで、セドリックは事実上「次の王」として膨大な責務を背負いつつあった。
「殿下、本日は軍務関連の会計担当官が面会を求めておりますが、いかがされますか?」
執務机の向かいに立っている取り巻き貴族の一人――エヴラール伯爵家の青年が、遠慮がちに尋ねる。青ざめた顔からもうかがえるように、最近の王宮内はどこか陰鬱な空気に包まれていた。軍備や対外行事の予算がまったく足りず、保留になっている案件が数多くあるためだ。
「面会か……。正直、軍務官に会ったところで、今は金策などどうにもならないが……いや、避けるわけにもいくまい。彼らを無視しては士気にも関わる」
セドリックは疲れがにじむ声で言い、書類の束をどかして苦々しい表情を浮かべた。軍備の維持費用は国防の要でありながら、それに投じる資金が底をつきかけているのだ。とっくに老朽化した兵器や馬匹の補充、さらには兵士たちの給金すら危ぶまれている状況で、あまりにも危うい。取り巻きたちと策を練ろうにも、もう切れるカードはほとんど残っていないのが現実だった。
「実は、宮廷の行事費用も足りないのです、殿下。ほら、近々予定されていた各国使節の歓迎式典……あれも盛大な宴を催すはずが、予算がまったく足りず、派手な飾り付けも一部削減が検討されています」
別の貴族が小声で苦い報告をする。王家の権威を示す機会でありながら、宴すら満足に開けないとなれば、国際的な面目も丸潰れだ。セドリックはうんざりとした様子で掌をテーブルに載せ、重く口を開いた。
「まったく、このままでは王家の面子が立たない。……そもそも父上がご健在のうちに財務をもう少し整理できなかったのか。近年の対外行事や軍事費がかさみすぎたせいで、今や国庫はほぼ空に近い」
王家の財政難が深刻化した要因は多岐にわたる。華やかな王宮行事を立て続けに催したことで、王宮維持費と儀典費用が膨らみ、さらに軍備も国境警戒のために一気に予算が増えた。かといって農作物や鉱山からの税収は思ったほど伸びず、商業の拡大にともなう新税制も未整備の部分が大きい。あれもこれも中途半端に手を付けた結果、気づけば大きな穴が開いてしまったのだ。
「殿下、とにかく予算を切り詰めるしかないのでは? 軍は最低限の維持にとどめ、宮廷行事も縮小し、国王陛下の退位式も質素に……」
エヴラール伯爵家の青年が提案すると、セドリックはその言葉に顔をしかめる。確かにそうするほかないとはわかっているが、貴族社会で「式典を質素に」など、もはや威厳の放棄に等しい。王家の権威を支えるのは豪奢な行事や盛大な祝祭であると信じられてきたのだから。
「やむを得ないという意見もあるが、そんなことをすれば『王家は力を失った』と国民にも他国にも示すようなものだ。……困ったことに、今さら財力を急に作り出すわけにもいかない」
セドリックは悶々とした様子で机に肘をつき、外の景色を見やった。かつては自分が即位すれば、華麗なる王政の未来が待っていると信じて疑わなかった。ところが今、自分が王になったところで財政難は解消できそうにない。むしろ、退位を控えたレオポルト三世が表立って財務に口出しする状況でもなく、事実上の負債をセドリックが抱え込む形である。
ここでセドリックは、ふと脳裏によぎる人物の影を振り払えなかった。ベルヴィル公爵家の令嬢――あの婚約破棄をした相手、ルシアーヌである。最初は「多少有能だろうが、口うるさい公爵家の娘」という認識だったのが、最近では彼女の名前を耳にしない日はないほど、大きな存在感を放っている。金融や物流を押さえ、多くの商会や銀行まで彼女の息がかかっているという噂だ。
「殿下、こちらの報告をご覧ください。どうやらベルヴィル公爵令嬢の出資によって、中小銀行の多くが彼女の管理下に入り、商取引の寡占が進んでいるようです」
側近の一人が差し出した書簡には、具体的な銀行名や投資会社の動向が細かく記されていた。セドリックは読み始めるたびに顔を険しくし、最後には書簡を乱暴に机に叩きつける。
「これは……たかが令嬢ひとりの所業とは思えない。もはや、あの者が裏でこの国の金を動かしているようなものではないか。公爵家の名を背に好き放題しているのか」
「ええ、まさしく。以前から『あの令嬢に逆らうと商売ができない』という声が、商人や銀行家の間で広まっております。おそらく、王家の財政が傾ききった今、このまま放っておけば……」
「放っておけば、王家が形だけになりかねない……」
セドリックは苦い表情でつぶやき、わずかに拳を握り締めた。取り巻きたちは顔を見合わせ、「殿下のお言葉のとおりです」とうなずくばかりだ。




